第19話

 ここでカルロを待つ、とアルノルドは宣言した。


 陽が橙になる前にたどり着いた町は、町なだけあって村より大きな宿屋があった。無事二部屋取れたので、アビーたちは三日ぶりに一人の時間を味わう事になっている。


 村長宅では結局アルノルドは椅子に座って眠ったので疲れもひとしおだろう。部屋は最早見慣れた様式だ。


 各部屋の前での別れ際、アビーはひとりで出歩かないようにきつく言い含められた。


「信用がないので?」

「あると思っていたのか?」

「……アルノルドから色々と聞いて、流石に無知と自覚しているので大丈夫です」


 道中の会話は最早講義だ。アビーの疑問にアルノルドは丁寧に答えてくれた。疲れたり嫌がった顔を一切見せなかったのだ。


 なぜそこまで真摯に対応するのか甚だ疑問ではあったけれど、アビーの旅路に便乗した手前、悪いようには出来なかったのかも知れない。


「とにかく、出掛けたくなったら声を掛けるように」

「では夕食後に考えます」


 宿屋は簡易の食堂が併設されており、宿泊客は決まったメニューであれば無料で食べられるようになっている。


 時間は夕食には早かったが、通りすがりに目を向けるとそれなりに賑わっていた。


 トランクを置いて、伸びをして、フードをきっちり被り直して再び部屋を出る。お金を入れている鞄はローブの下に隠すように肩から下げた。


 無いとは思うが置き引きの可能性を示唆されたからだ。


「いい匂いがします」

「そうだな」


 もっと美味しいものを食べているだろうに、アルノルドは平民の食事に文句をつけない。


 彼は無表情で食堂を動き回る女給に木札を見せた。これは宿屋の客だと示すものだ。女給は木札に真っ先に目線をやり、案内の為にアルノルドを見上げ、硬直した。


「席はどこでもいいのか?」

「は、は、はい……っ」


 ボッ、と音がしそうなくらい瞬く間に真っ赤になって、ギクシャクとう頷いている。茶色い髪色をツインテールにいた、あどけない少女だった。


 食堂内は屈強な男が多く、酒が入っているのか声も大きい。粗野な笑い声が溢れる中を、アルノルドはアビーの背を押して歩き出した。


 L字の店内の、入って右側の奥まった席だ。入口正面に続く広めの空間にはカウンターとテーブルが並んでいたが、こちらには二人掛けのテーブルが二席しかなかったのだ。


 アルノルドは奥の壁際にアビーを押し込み、その正面に自身は腰掛けた。


「タイミングが悪かったな」

「どこもこんなものでは?」

「もう少し遅ければ飲み屋が開いた筈だ」


 確かに、カウンター側に座る男たちは皆木樽を豪快に煽っては、何がおかしいのか大笑いしている。元気なのは何よりだが些かうるさい。


 アルノルドは平気そうな顔で壁に掛かったメニューを眺めていた。


「注文は決まりましたか?」


 と、そこに先程の女給がやってきた。相変わらず顔を赤くしてアルノルドを見つめている。


「アビーは何が食べたい?」

「なんでもいいですけど……お肉でしょうか」

「ああ……肉食だものな」

「語弊…………」


 この数日はパンとスープと僅かな山桃で過ごしたのだから肉を望んでも良いではないか。


 む、と口を尖らせると彼は喉を震わせてクックッと笑った。


「じゃあ串焼きとキノコのスープと合鴨の香草焼きとベーコンのキッシュとエールと果実水」

「エール」

「アビーはまだだめだ」

「ちょっと興味あります」

「だめだ」

「もう十五ですよ」

「だめだ」


 む、とアビーはますます唇を突き出し、女給はふたりのやり取りを呆けて見ている。


「エールと果実水を持ってきてくれるか」

「は、はい……っ!」


 アルノルドは無表情に女給を見上げた。





 最早キッシュの虜である。


 ふわっとしてサクッとしてベーコンの塩味と卵のまろやかさが美味しい。ただひたすら美味しいので、アビーは合鴨そっちのけでキッシュを食べきった。


「また食べたいです」

「それは何より」

「でも結局お金を支払ってしまいましたね」

「構わないさ。スープとパンは無料だったんだから」


 宿泊客用のメニューが分かれている訳でもなく、女給はアルノルドに見とれていて説明不足でもあった。


 ふたりが話を聞く前に注文を決めてしまったせいもあるだろう。それでもキッシュは美味しかったのだからアビーに文句もない。


 無料で済ませられたのに、ちょっと勿体なかったなくらいの話なのだ。


 食堂を出ると町はすっかり夜の空気になっていた。帰宅を急ぐ女や、開き始めた飲み屋で木樽を傾ける男たち。閉店作業をする従業員たちの姿もちらほら見受けられる。


「今日はゆっくり休んでくれ」

「はい。アルノルドも」


 部屋に戻るとドッと力が抜けた。いくら山で走り回って育ったとは言え、まる二日歩き通しは身体に堪えた。


 アビーは蝋燭も灯さない暗い部屋で、のろのろと寝台に向かい、ローブも脱がずにばすんと俯きに寝っ転がる。嗅ぎなれた干し草と埃の匂いが鼻腔をくすぐった。


「ネーヴェ……」


 こんなにネーヴェの姿を見なかった日はない。母が死んだ日も夜中に家に呼び出した。眠るように死んだ母をふたりで見送ったのだ。


「ネーヴェ、やっぱり町中だから来てはくれないのね」


 ネーヴェは賢い生き物だ。集落にいた頃も、寝静まった夜中でさえ人気のない森の中でなければ姿を現す事はなかった。


 部屋はしんと静まり返り、窓の外から聞こえる喧騒が耳につく。まだ眠るには早い。身体は疲れ切っている。


 横たえた身体は鉛のように重いのに、そわそわと落ち着かない気持ちが募るばかりだ。


「……お母様…………」


 たった九日。たったの九日だった。


「…………」


 アビーは薄暗い室内をぼんやりと見つめ、遠い喧騒を背に夜更けを待った。四肢を弛緩させ、硬いシーツに身を委ね、心の中でネーヴェを呼んで。


 部屋の空気はいつまでも揺れない。


「蝋燭に火をつけて、身体を拭いて、寝巻きに着替えて、それから……」


 それから。





 眠れない夜のおまじないですよ、と母は微笑み、ぐずるアビーに湯気の立つ木のコップを手渡した。


 乳白色の液体は乳臭い。集落では貴重なミルクだ。蜂蜜の代わりに煮詰めた樹液が入っていて、ほんのり甘くて美味しいのだ。


 母の手にも同じコップが握られている。眠れない夜のおまじないは、アビーにとってご褒美だった。眠気でぐずついた気持ちが途端に晴れて、にこにこ笑顔でミルクを啜る。


 お腹の中から手足まで温まる頃には両目の瞼はくっつきそうだった。そうして船を漕ぐアビーを抱き締めて母と同じ布団で眠る夜。


 幸福だった。


「眠れない夜のおまじないです」

「……そうか」


 アルノルドはなんとも形容し難い表情でもってアビーを迎え入れた。隣同士の部屋の間取りは全く同じだ。アビーは手にしたコップをテーブルに置いた。


 宿屋の女将に無理を言って作って貰ったミルクには、蜂蜜代わりにブランデーが入っている。


 勧められた椅子にアビーは座り、アルノルドは腕組みをして壁にもたれかかっている。


「辺境伯の城でも飲んだな」

「ええ。とっても美味しかったです」

「翌日は眠そうだった」

「……母と一緒に寝ていたの」


 ずっと母と同じ布団で眠っていた。葬儀の三日三晩は起き続け、洞窟ではネーヴェの気配を身近に感じた。


 アルノルドは寄りかかっていた体勢を戻し、徐にコップを取った。なんの変哲もないただのミルクだ。きっと辺境伯城で飲んだものより味も落ちるだろう。


 毒味するように舌先で舐め、痺れも変わった味もしない事を確認してからゴクリと飲み込む。


 乳臭い中に酒精が漂う。ブランデーを入れすぎだ、とアルノルドは顔を顰めた。


「眠れない夜に乾杯」


 既に一口飲んだコップを合わせると鈍い音がした。

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