第13話

 月の初めの安息日には、誰もが唯一神ハドラに祈りと感謝を捧げて跪く。


 昼時にアルノルドはコンラートに案内されて、王宮の正面玄関に佇む彫像へと膝を付いた。剥き出しの石畳は冷えて心地好いけれど少々痛む。


 頭を俯けると腹がくるると鳴った。


 昨夜の夕食は平麦を水で煮て塩で味付けしただけの粗食だったから、今日は朝から腹が減る。けれども月の初めの礼拝は、この国にとっては特別なものとして存在していた。


 はるか昔、始祖がしていたであろう暮らしを食事で再現しているのだ。昨晩の一杯の麦を食べた後は、夕食まで水だけで過ごす。


「たった二食抜くだけで飢えを感じるのは、恵まれている証拠だと父上は言います」


 半円形の天井には明り取りの窓がひとつだけ、彫像を正面から見下ろす様に取り付けてある。あれが昼時になると彫像へ向かって光の柱を作るのだ。


 神の使徒がやって来た折、天から差す柱を模していた。


「我が国は先頃まで飢饉でしたから、陛下のお言葉は身に染みて実感出来ますね」

「大変な中このように礼拝して頂きありがとうございます」

「こちらこそ感謝しています」


 膝を付き、頭を垂れて祈りを捧げる。サンタバユスの礼拝堂は、参拝者が座るように長椅子が左右に並んでいた。


 中央は祭壇に向かって赤い絨毯が敷かれて通路の体を成している。


 しかしハドラではどこの礼拝堂にも椅子はなく、白い布だけが敷かれ、民はその場でそれぞれで座り込んで祈るのだ。


 祭壇には寄進された花束や果物、麦や野菜が祀られた。今この場にも溢れんばかりに奉納されているのに、次から次へと使用人たちが運んできている。


「…………不思議な国です」


 ぽつりと漏らした呟きに、コンラートは微かに笑った。


「私もそう思います。この国が建って五百年余り、信仰は衰える事なく続いています」

「やはり神はいるのでしょうね」

「はい」


 王宮の彫像に礼拝出来るのは貴族だけだ。定期的にこつこつと足音がして、衣擦れと囁き声。


 アルノルドたちふたりは一番前を陣取っているから、誰が来たのかは定かではなかった。


「さあ、もう行きましょう。今日だけは執務も勉強も訓練もお休みです」


 安息日は半分を終えている。


 コンラートの後について、アルノルドはカルロを伴って歩き出した。夏の日差しが回廊へ燦々と差し込んでいる。柱の影と陽射しの照り返しで目が眩んだ。


 コの字型の王宮の内側には外苑が広がり、緑の草木が幾何学模様を作っている。一区画毎に縁石で囲い、正面入口から正門まで直線通路が出来上がっていた。


 いくつもの馬車が行き交い、時折華やかなドレスを身にまとった女たちが日傘を差して外苑を遊歩している。


 外苑までは貴族ならば誰でも出入りが可能だ。


 並び立つ兵士の服が白いのは、この国が暑いせいだろう。


「中庭で冷たいお水でも飲みませんか?」

「良いですね。暑くて仕方がなかったのです」


 回廊は風通しが良くとも、室内は空気が篭るせいで息苦しい。特に彫像が置かれている場所は正面入口なものだから、扉を開け放ったままなど許されないのだ。


 ひとの背丈よりも上に添え付けられた鉄格子の嵌る小窓だけが開いていた。


 コンラートはアルノルドの返答に満面の笑みを浮かべた。


「アルノルド様は暑がりですね」

「サンタバユスは雨季が多いので、こうも日照りが続くのは慣れません」

「そうなのですか。ハドラは農地が乾上がる程ではないですが、雨が少なく海が近くて湿度が高いのです」


 なるほど、このじめつくような暑さは海のせいだったのかとアルノルドは頷いた。回廊を曲がり、中庭に出ると途端にむっとした空気に包まれる。


「学院は山を拓いて建てたのでまだ涼しいですよ。冬は寒いらしいのですが」

「寮に入るのですよね」


 中庭の草木は青々しい。木陰を作る樹木は白い花を咲かせていた。


「本当は王宮を離れたくはないのですけどね」

「なぜですか」


 ガゼボには既に冷やされた水の入ったグラスが用意されている。安息日と言えども使用人には関係がないのか、それとも持ち回りで安息日の休みを取っているのだろうか。


 なにせ安息日は毎月あって、主人は毎日の世話が必要なのだ。


 カルロが一口飲んだ後、アルノルドは水を口にした。もう昼も回った時間、空腹も忘れつつある胃に冷えた水が染みた。身体はじんわりと火照っている。


 そうして暫くの間、ガゼボ近くの池から聞こえる水音しかしなかった。水鳥が寄り集まって、黄色い足をばたつかせている。上辺はすいすい移動して、時折潜っては魚を咥えていた。


「……アルノルド様はこの国の事をどれ程ご存知なのでしょうか」

「文章にされている程度でしょうか。この国の歴史の本も読ませて頂きました」


 コンラートは俯くように頷い。


「ではここ数十年、叡智の加護ばかりが続いていた事はご存知ですね」


 ハドラ国王はいつの時代も賢王と名高かった。悪政を敷かず、過度な税金を取らず、他国を援助し他国に援助される。


 王族は外国との繋がりでの婚姻を無理にはさせず、自国民を優先し難民の受け入れを制限する。


 人の話をよく聞く人物だったと、どの王の紹介にも書いてある。そういう国だった。


 アルノルドが遊学を許されたのはまだ十二歳と幼く、コンラートと同じ年回りであり、使節団のまとめ役だったからだろう。


 使節団だけ送り返した今、アルノルドはハドラにとって人質も同然だ。優しく朗らかな王は、しかし自国民を何よりも優先するハドラ国の頂点なのだ。


 いずれサンタバユスに帰るアルノルドに、王宮の図書を読む許可を出すような王なのだ。


「それ以上私に話してはなりません、コンラート様」

「いいえ、聞いて頂きたいのです。父上の加護は」

「なりません!」

「星なのです」


 神のいる国。加護のある国。糞尿のない街並みを歩く平民は革靴を履いている。


 赤レンガの囲む噴水は噴き出した水を垂れ流す。


 王宮の後ろは広大な海が広がるばかりで強襲の不安もない。雨は少なく日照りも多い、それなのに乾上がる事のない土地を持つ裕福な国。


 けれども王は人だ。魔法の使えない只人だ。


「星を読み、未来を知るのです」


 だと言うのに得体が知れない。


「なので他国の王族であるアルノルド様をこの国に留め置くのは、父上にとって有益なのでしょう」





「もう既に帰りたい」


 アルノルドはぐったりとベッドに沈みこんだ。

 夕飯は殊更豪華だった。月初めの安息日の為なのか、普段は執務に掛かりきりの国王までテーブルを共にしていた。


 牛の希少部位のステーキに、夏野菜のマリネ。野菜とベーコンのスープは湯気が立っている。魚のムニエルはバターが焦げ目をつけて美味しかった。


 柔らかな白いパンはそのままでもほのかに甘い。


 目の前に並ぶグラスは水と葡萄水と柑橘の果汁に砂糖を混ぜ合わせたものの三種類だった。


 コンラートは父王がいるからか物静かで、アルノルドが国王から不便がないか尋ねられる会話だけが続いていた。


 気まずさを拭えないまま笑顔を浮かべ、早々に席を辞して今。アルノルドは枕に顔を埋めて呻いている。


「まだ三年残っていますよ」

「うるさい……」

「まあ、なんと口の悪い」


 カルロは主人を気にする事なく優雅に茶を入れ、サイドテーブルへセットする。


「これではサンタバユスにいた方がマシだったではないか」

「あの国にいるよりは安全です」

「それはそうだが」


 この国は王族をも信仰しているせいか、貴族の派閥争いが見当たらない。


 アルノルドが気付いていない可能性も十分あるが、今のところ国王とコンラート以外の貴族とは顔を合わせてもいないのだ。


 野心がないのか、野心があっても王族相手に対抗しても無駄だと考えているのか。王宮は殊更静かだった。


「だがコンラート様はあけすけすぎないか」

「宗教的観点から申し上げれば異教徒と見られても仕方がないかと」

「唯一神ハドラを信仰してはいるが、この国には懐疑的だったな」


 アルノルドは枕を抱えたままごろりと寝返った。ベッドには天幕が掛かり、正面には窓がある。


 起き上がるとガラスの反射で己の情けない顔が映った。


「星読み……星読みとは占いの事だろう? 国王は占いが出来るのか?」

「未来を見ると仰ったのですから、星の数程の未来を見ているのではと愚考致します」

「星の数」

「幾千幾万の未来を見て最善を選び取っているのではないでしょうか」


 なるほど、とアルノルドは頷いた。


「ならば私は国王陛下の手のひらの上か」

「アルノルド様がハドラにとって敵に回るならば、この度の遊学は断られていたでしょう」

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