第6話
「辺境伯は国境の防衛を担っているからか、昔から権力争いには興味がなくてな」
「そうなんですか」
十人は余裕で座れるだろうダイニングテーブルの上には、これでもかと言わんばかりの夕食が並んでいる。
鶏の丸焼き、パイの包み焼き、蒸し野菜に牛肉の煮込み料理。芋のポタージュスープに焼きたてのパンは眩しい程に白い。
アビーはナイフとフォークを手に取った。給仕が取り分けた前菜を一口大よりも小さく切って、恐る恐る口に含む。蒸し野菜は塩だけで味付けされていた。
「豊かな土地なのですね」
スープは滑らかな舌触りで、パンは甘くて柔らかい。バターなんて高級品を口にする日が来るとは思わなかった。
「国全体が豊かなわけではないがな。ここは農村地帯が広く収穫も多い」
「では貧しい土地もあるのですか」
「不思議なことに王都に近くなるほど貧しくなる」
「なぜ」
朝方に菓子を食べ、乾いたサンドイッチを食べ、手伝おうとするメイドを断って風呂に入り、案内された客室のベッドで眠った。
暖炉には火が燃え盛り、暑いくらいに暖められた室内はなんの不自由もなかったのだ。
豊かな生活とはこういう事か。アビーが両腕を伸ばしても余る大きな寝台は、染みひとつないシーツが掛けてある。綿を詰めた布団の中にはご丁寧に温めた石が布に包まれて置いてあった。
「土地が狭いのに税収は変わらないからだろうな」
「税金は収穫量で決まるのではないですか?」
「土地収入だけでは賄えないのに支出が多いから民に皺寄せがくるのだろう」
まあ、と思わず声が出た。そうと知っていてなぜ王子の筈の男は何もしないのだ。
「王家は領地経営に口を出さない。不正が明るみになって初めて処罰を下すんだ」
「何も聞いておりませんが」
「あなたの目はあなたが思うより雄弁だ」
「まあ」
感情をそのまま顔に出してはならないと教えられてきた。笑う時は口角を上げ、歯を見せないように。声を出す時はお淑やかに。人前で泣いてはならない。怒る時は感情的にならず淡々と。
子供相手に母は厳しい躾を施した。甘える時はお母様の前だけですよ、と言って転んで擦りむいた膝を手当した。
「この国は大きくなり過ぎた。中央貴族は金と権力におもねり、平民を道具としか見ない」
「………………」
「あなたは集落という小さな世界から飛び出して、どうやって生きていくんだい」
外に出た大人はそのうちひとりふたりと戻ってきた。死ぬなら集落で死にたいと言って、燃えかすになる為に。
目の前の料理のように豊富な食事がある訳でもない。風呂の為に大量の湯を使ったりはしない。干した肉を主食とし、僅かばかりの麦と芋を保存して凌ぐのだ。
そんな生活を貧しいと思った事はなかった。アビーにはそれが全てだったからだ。
アビーはただただ運が良かった。大人たちは外に出て王族と出会う可能性など無でしかない。ハッシアという国すら出られなかったのではないか。
ネーヴェがいなければアビーこそ女ひとりではどこにも行けなかっただろう。
「わたしは母の故郷に行くのです」
青い草原を見て、麦の実りを見て、冬枯れの落ち葉を見るのだ。
「ハドラがなぜ中立国家を貫いているか知っているか」
はっと息が詰まった。
「生まれた瞬間死んだ悲劇の王女、アビゲイル。あなたは知っている筈だ」
母と喧嘩をしたのは後にも先にもあの時だけだ。
集落の子供は十歳になると狩りを許されるようになる。そこに男女の差別がないのは、偏に家族の食い扶持に直結するからだ。
兎だろうが鼠だろうが、一匹増えればその分だけ腹が膨れるのだ。本人に問題がない限り、誰もが大なり小なり狩りをした。
アビーも十歳になると狩りに出るのだと意気込んで、小型のナイフや弓の手入れ、罠の仕掛け方を日々住人に聞き回っていたのだ。
薬草採取は手馴れたもので、小型の動物ならば捌けもする。雪解けが待ち遠しかった。母のように大物が捕れずとも、アビーにだって鼠の一匹くらいは仕留められるだろう。
なにせアビーは母の子なのだ。
「いけません」
「どうして!」
だというのに、母はアビーからナイフを取り上げ弓を隠した。
「怪我をしたらどうするのです。アビーに狩りは出来ません」
「やってみなければわからないわ! お母様だって狩りをするじゃない!」
女だてらに大弓をきりりと引いて、一寸のぶれもなく猪の目玉を射る。事切れた猪の図体を引きずって森から戻ってくる母は、アビーの憧れだ。
誰よりも勇ましく誰よりも美しい。ひとつに束ねた髪が風に乗ってはためいて、木漏れ日を受けては輝いた。
「なりません。なぜ狩りに拘るのです。薬草集めも木の実集めも立派なお仕事ですよ」
「でもみんな狩りに出るわ! リックもイワンもエレナだって!」
窓の外には冬ごもりに辟易した子供たちが駆けずり回っている。ぬかるんだ土に足を取られて転んでは、みんなして笑っていた。
きゃらきゃらと楽しげな笑い声が、いっそうアビーを虚しくさせるのだ。
「狩りに出なくてもネーヴェがいるでしょう? ネーヴェならお願いすればアビーの為に兎を持ってきてくれます」
兎が欲しいわけじゃないのに。食い扶持を増やしたいだけではないのに。
「お母様なんて大嫌い……っ!」
ぎゅっと目を瞑ると雫が散った。
アビー、と母の狼狽えた呼び声も無視して小屋から飛び出した。遊び回っていた子供たちが次々に呼び止めるのも構わずに、まだ僅かに雪が残る森の中を走り抜ける。
頭上で鳥が羽ばたいた。新たに伸び始めた野草が揺れている。呼吸が引き攣れて胸が苦しかった。
大嫌いだなんて言ってしまった! 母はきっとアビーに落胆しただろう。言うことを聞かないアビーを嫌いになったかも知れない。母は心配しただけなのに。
集落の子供たちは物心がつく頃には野生動物を追いかけ回して狩りを覚える。大人の手のひらもない長さのナイフを振り回して怪我を覚える。猪に追いかけ回されて生き物の危険さを学ぶのだ。
「うぁぁああん……ッ」
木の根に引っかかって膝を大きく擦りむいた。緩やかな傾斜から転がり落ちて、服は泥まみれになってしまった。母が結ってくれた髪は紐が解けてみっともなく跳ね返っている。
わんわん泣きわめくアビーの声に呼ばれるように、雨雲がゴロゴロと鳴り出した。
「ネーヴェぇえ……、おかっ、おかあさま、きっとわたしを嫌いになったわ……っ!」
ネーヴェに襟首を噛んで引っ張り上げられながら、アビーはえぐえぐと鼻をすすった。ぽつぽつ雨が降り出して、森に湿り気が増えていく。お気に入りのスカートだった。
赤褐色の地味な色の生地に、母が冬の間に刺繍をしてくれたものだった。蔓草模様が裾の周りをぐるりと取り囲む様が、待ち遠しい春を思わせて大好きだった。
「お母様みたいになりたかっただけなのよ」
湿った舌がアビーの顔を舐め回す。ネーヴェはすっかり大きくなってしまった。拾った頃はアビーの膝丈しかなかったのに、今は座り込んだアビーを囲むように身を伏せても、こうして慰められるのだ。
ネーヴェはその色味で想像するよりずっと暖かい。雨はしとしとと降り続けている。
「お母様のお役に立ちたいのよ」
わかっているとでも言いたげに、ネーヴェはアビーの頬に頭を擦り付けた。
もう暫くしたら帰ろう。陽が落ちる前に帰ろう。今はまだ足の傷が痛むから、気持ちが凪いだら小屋に戻ろう。
「ぼろぼろのまま家に戻って、初めて母に頬を打たれました」
すっかり寝てしまったの、とアビーはアルノルドに微笑んだ。夕食は速やかに片付けられ、遠い眠気を引き寄せるように談話室でブランデーの入ったミルクを舐めている。
ライヴレック辺境伯はどうやらアルノルドに頼まれた仕事に出掛けているようで、朝方に顔を見たきりだ。
「母は泣いていました。あなたを死なせる為にこんな所まで来たんじゃないのよ、と泣いていました」
「王女アビゲイルは王妃の侍女により殺されたと聞いているが」
「対外的に死んだ方が良かったのでしょう」
アビーは持ち出したトランクから何十枚もの手紙の束を談話室に持ち込んだ。
「母が書いた手紙です。一番上はわたし宛でした」
親愛なるアビー。どうか隠し事の出来ないわたくしをお許しください。
書き出しは、そんな懺悔で始まった。
「病床の折、ずっと考え込んでいたのだと思います。わたしはこれからひとりで生きていかねばならなかったから」
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