第7話

「世話になったな」


 アルノルドはライヴレック辺境伯家から貰い受けた簡素な練習着に身を包み、黒いローブを頭から羽織っている。


 アビーもまた同じようにローブを羽織り、コートをトランクに無理やり詰め込んでいた。北国で育ったアビーにはこの国の気候は暖かすぎた。


 荘厳な城の玄関には使用人が花道を作るように並び、深く頭を垂れている。ライヴレック辺境伯は、くっと喉を鳴らして口角を上げた。


「今日は良い旅立ちの日です」

「母上は無事王都を出られたのか?」

「万事恙無く。陛下も危惧しておられたご様子です」

「息子の安否も知らずにか」


 彼は皮肉った笑みを浮かべた。


 アルノルドの母は皇帝の寵愛を一身に受けている。だからこそ常々王妃の派閥に命すらも狙われているのだが、この度アルノルドを明確に排除しようと動いた事で、母も腹を括ったのだろう。


 息子の足手纏いにはなるまいと奮起する気概は、流石皇帝の寵愛を受けるだけの事はある。アルノルドは深く頷いた。


「カフスがもうひとつあれば良かったのだがな……何かあればカルロに伝えるように言っておいてくれ」

「なに、そのうちカルロ殿も殿下に追いつくでしょう」

「そうだな」


 アルノルドはちらりと背後のアビーを盗み見た。暇そうに己のつま先を眺め、トランクを持ち直し、フードの前部分を引っ張っている。


 眠そうに欠伸を噛み殺したところでぱちりと視線があって、彼女の眉間に皺が寄った。


「では、また会える日を楽しみにしている」

「道中のご安全をお祈り申し上げます」

「ああ、ありがとう。……アビー、面倒事にはするなよ」

「していません。濡れ衣です」

「前科一犯だ」


 可笑しそうに肩を震わすライヴレック辺境伯に見送られ、用意された馬車にふたりで乗り込む。エスコートに差し出した手は、きょとんと見つめられるだけで黙殺された。


 御者の掛け声で馬車が歩み始める。がたごとと土塊に揺られ、入城した門から旅立った。前後にふたりずつの護衛を引き連れるのは些か面倒ではあったが、己の王子という立場上仕方がない。


 平原に差し掛かる頃には城壁も見えなくなっていた。


「このままサンタバユスの王都には向かわず、ローデゼを抜けて山間部に入る」

「ローデゼと言うのは?」

「運河の先にある砂漠だ。と言っても砂漠を抜けるのに馬で半日も掛からない」


 ローデゼ近くの村は、砂漠の砂が舞うせいか作物の収穫量が少ない。村の収入源にする為、砂漠が販路になるよう舗装され、観光地と化していた。


「それは……小さいのでしょうか?」

「そうだな。熱砂蠍に出くわさなければ問題はない」


 なんだそれは。顔に出ていたのか、アルノルドが話を続ける。


 熱砂蠍は砂漠地帯に生息する大型の虫だ。尻尾からは麻痺毒を出し、口からは熱砂を吐き出す。大の大人程の大きさで動きも素早く甲羅も硬いので、討伐は中々に面倒な部類の生き物だ。


 弱点は水と氷なので、周辺諸国からは冒険者相手に度々討伐依頼が出されている。


「まあ、冒険者がいるのですか」

「あなたは本当に世事に疎いのだな」

「箱入り娘なので」

「違いない」


 母の教えだけでは限度もあったろう。教本を持ち出せたかどうかもわからない。きっと母が壮健だったなら、アビーが外の世界に出たがった時、一緒に着いていくつもりだっただろう。


 風邪を拗らせさえしなければ。しっかり暖かくして眠れさえすれば。滋養のある物を手に入れられさえすれば。


「あっ、あれが熱砂蠍ですか?」


 物思いにふけるアルノルドの耳に、はしゃいだ声が届いた。アビーの指さす先には黒々とした個体が見える。熱砂蠍は甲羅が黒く、腹が赤い。肉厚な鋏は人間の胴体など簡単に切ってしまう。


 殿下、と窓の外から護衛が声を掛けた。どうぞそのままお出でにならずにいてください。アルノルドは深く頷いて、アビーを見る。


「怖くはないのか」

「ええ、興味深いです。護衛の方たちは魔法を使えるのかしら」

「騎士になるには一定以上の魔力が必要だ」

「属性は関係なく?」

「複数持っていれば出世に有利、といった所か」

「どこもかしこも上昇志向が強くて何よりですね」


 ゴウッ、砂嵐が舞って馬車が大きく揺れた。窓に張り付いていたアビーが座面から放り出されてアルノルドへと落ちてくる。


 ずれたフードからは銀糸が零れ、ぱちりと瞬いた瞳は新緑の色をしている。


「あなたは淑女にはなれなさそうだな」

「失礼な。こんなに立派な淑女を捕まえておいて」


 ああ言えばこう言う。むっと突き出された唇は僅かに乾燥してひび割れていた。彼女の人生はもっと平穏だった筈なのに。


 寒さにも飢えにも縁がなく、誰に頭を下げる事もなく、自分で風呂に入る事もなく。毎日美しいドレスを身にまとい、毎日磨かれた宝石で着飾って、見目麗しい婚約者だっていただろう。


 明るく素直で物怖じしない性格は誰にも好かれた筈だ。ただただ王族には不向きであった。


「きっと母君が怒っているさ。座る時はしっかり背筋を伸ばして前を見なさいって」


 アビーはぐぅ、と喉を鳴らしてアルノルドを睨みつけた。確かに熱砂蠍に夢中になって足元が疎かになったのは自分だ。


 初めて見る魔法攻撃に高揚して、窓へと前のめりになったのはアビーの落ち度だ。


 揺れから持ち直した馬車はごとごとと音を立てて先をゆく。


 蠍が浮き上がって切り伏せられるのが遠目に見えた。


「母君の故郷を訪れた後はどうするんだ」

「……考えていません」


 母はどうするつもりだったのだろうか。なぜ故郷から遠く離れた国にまでやって来なければならなかったのだろう。


「母の手紙は読んでくださいましたか」

「さわりだけだ。私が読む物ではなかった」


 アルノルドの返答に、アビーはささやかな声で笑った。


 馬車の揺れが穏やかになる。一度停車する間に、後方の騎士たちが追いついてきた。熱砂蠍は一匹だけだったのだろう。


 たいした怪我も見受けられず、ぴんと胸を張って馬に跨っている。


「ローデゼの町だ。今日はここで一泊して、明日からはふたり旅だ」

「ネーヴェを忘れないでくださいな」

「山間部に入るまで村を経由する」

「夜中にこっそりネーヴェを呼びましょう」


 辟易とした顔を隠しもせずアビーは嘆息した。ネーヴェに頼るのが手っ取り早いのに、アルノルドは良しとしない。辺境伯城を出る時にも一悶着あったのだ。


「アビー、聖獣は」

「人に見せてはならないのですよね。わかっています」

「本当にわかっているのか?」


 アビーはつんとそっぽを向いた。





 アルノルドは、出奔すると言い切った。ついてはアビーと行動を共にして良いか伺いを立てた。


 もちろん、ネーヴェが拾った人間なのだ、アビーに否やはない。王族と言うだけあって他国の事情にも精通している。


 ライヴレック辺境伯にアビーの事を話した様子もなく、今のところ信用に足る人物だろう。


 出立の準備は既に整っていて、頷きと共に玄関まで連れて行かれた。邸の侍女はご丁寧にアビーの古ぼけたトランクを宝物の様に運んでいる。


 あれよあれよという間に辺境伯と挨拶を交わし、馬車に乗り込み平原を抜けて砂漠を過ぎた。約一日の出来事だった。


「アルノルド様は思い立ったら即行動なのですね」

「流石に向こう見ずだったな。すまない」


 宿屋は町に一件しかなかった。砂漠が観光地になっているとは言え、普段から人が行き交う場所でもない。


 小さな村に見合った小さな宿屋は部屋数も少ないのに、今日は騎士と御者を含めて七人もいるのだ。


 夕方に辿り着いた事も、部屋数の少ない原因だろう。


「まさか二部屋しか空いていないとは……」

「殿下、我々は野宿で構いません」


 胸元に金の徽章を付けた騎士が控えめに言った。行者は馬の世話の為、宿屋の裏に回っている。厩の側には簡素な作りの小屋があり、御者今夜その場を借りる予定となっていた。


 ひとまず二部屋を借り、ふたりの騎士を扉の前に立たせ、残りの四人が寄り集まっている。


 ベッドは藁を集めてシーツを被せただけの物がふたつ並べてあった。丸テーブルに二脚の丸椅子。二人部屋だ。


 アルノルドは疲れた様子で椅子に腰掛けて行儀悪くテーブルに肘をついた。


「お前たちは先程蠍とやり合っただろう。明日も馬を走らせるのだからしっかり休め」

「しかし……」

「わたしは構いませんよ」


 アビー以外の男たちはぎょっとして彼女を見下ろした。体格の良い男に囲まれるといっそう華奢だ。


「既にアルノルドの前で寝ています」

「語弊のある言い方はよせ」

「事実ですが?」

「そうだな、あなたは言いたい事だけ言って寝たな」

「その通りです」


 残りの椅子に腰掛けて、アビーは宿屋の主人から受け取った茶器で茶を入れた。平民が飲む茶葉は作りが粗雑で雑味がある。


 果たしてこれは王子に飲ませて構わないのだろうか、一瞬だけ気にして、気にしても仕方がないと思い直して飲み口の欠けたカップに注いだ。


「なのであまりお気になさらず」

「そうは言ってもな」

「大丈夫です、わたしには強い味方がいますから」


 アビーはアルノルドと騎士たちにお茶を振舞った。一口飲んで、苦味にぎゅっと目を瞑る。


「不味いな……」


 全くもってその通りだ。


 アルノルドは茶を一気に飲み干して、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。

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