第8話

 親愛なるアビー。


 どうか隠し事の出来ないわたくしをお許しください。



 あなたが産まれたのは丸い月がてっぺんに輝く真夜中の事でした。暖かな春の風が庭園から薔薇の香りを運んでいるのに、室内は緊迫した雰囲気を拭いきれませんでした。


 何度いきんでもあなたはちっともお腹から出てこない。産婆は何度もお母様に声を掛け、お母様はベッドに括りつけたシーツを両手に巻き付けて力いっぱいお腹から息を吐き出しておりました。


 あなたが出てきたら身を清める為に用意した産湯は三度取り替えられ、月が傾き始めた頃、王宮中にあなたの産声が響いたのです。


 緊張感が消え失せて、その場はあなたの泣き声と歓喜に包まれました。可愛らしい女の子。月の様な輝く髪と芽吹きを思わせる翠の瞳。


 お母様は疲弊した顔で、それでも喜びに溢れた顔でおくるみに包まれたあなたを胸に抱き、そしてひと時の眠りについたのです。



 あなたは健やかに眠ったまま、バスケットに入れられました。


 この子供を連れて行け。無情なお言葉に、わたくしは怒りで目の前が真っ赤になりました。お母様はあんなにもあなたの誕生を喜んでいたのです。何を勝手な事を言うのだと、受け取ったバスケットがわなわなと震えました。


 七日、待ってやる。と言われました。七日の間にわたくしはあなたを連れて出ていかなければなりませんでした。


 木の板だけでなんの装飾もない馬車に乗せられて、わたくしは実家に送られました。父も母も訳が分からず泣いておりました。子供を盗むなど大逆です。


 あなたに山羊の乳を飲ませなければならない現実が不甲斐なく、訳も分からず腹立たしく、ただただ悲しく哀れでした。わたくしの両腕にはあなたの尊い生命が脈打っているのです。


 あなたはわたくしの気持ちなどお構い無しにお腹が空いては泣いて、粗相をしては泣いて、人肌が恋しくて泣きました。


 たったの七日しかありませんでした。わたくしは親類を頼り、産まれたばかりのあなたを抱えて地方を転々と移動しました。



 心身共に疲れ切った頃です。国中に王女の死が知らされました。七日の葬儀を経て、大々的に国葬へと相成ったのです。


 この世の全てが憎くて堪らず、わたくしはあなたを抱えてその時世話になっていた家から飛び出しました。こんな国など捨ててしまえば良いのだと短絡的な行動に移ったのです。


 乳飲み子ひとりを抱えて、乗合馬車を乗り継いで、住み込みで構わないという商家の家で家庭教師の仕事にありつきました。


 一年が経っておりました。あなたはすくすくと健康に育ち、月の色をした髪は次第に色が抜けていきました。


 もっと故郷から離れなければならないと、わたくしはまだ上手に歩く事も出来ないあなたを連れて、世話になった商家に頭を下げました。


 乳離れした分だけ時間は出来ましたが、育つ分だけ目が離せません。あなたは好奇心が強く、なんでも触っては口にしてしまう子供でしたから、わたくしはいつもあなたを背負っていなければなりませんでした。


 国をふたつ超え、路銀が底をつけば日雇いの仕事をしました。わたくしは腕に自信がありましたので、動物を狩ってはその肉を売りました。


 あなたは揺れるわたくしの背中できゃっきゃと人の気も知らず笑っていました。



 路銀を貯めて旅をして、路銀が底をつけばまた日雇いの仕事をする。そんな生活が四年も続いた頃に辿り着いたのが、あなたの育った集落でした。


 一年の半分以上を雪に阻まれ、外から来る人間は殆どが顔見知りの行商だけ。


 こんなにも遠いのだから、きっともう大丈夫。


 わたくしは一度だけ、父と母に手紙を送りました。丁度やって来た行商にお願いしたのです。


 アビーは健やかに育っていると、名前はお母様がお決めになった名前から頂いたのだと。


 一年後、行商は返事の手紙を持ってやって来ました。懐かしい筆跡に涙が込み上げて止まりませんでした。わたくしの手紙が届いてすぐさま返事を書いたのでしょう。


 しかし手元に届く前に、この集落は雪に閉ざされてしまいました。



 あなたの健康に喜び、わたくしの無事に安堵する内容はことの他嬉しく、わたくしは送れもしない返事を書きました。


 あなたが今日、わたくしをお母様と呼んだ事。初めての雪の冷たさに驚いた事。わたくしの下手な料理を美味しいと笑った事。


 手紙は涙で滲んで読めた物ではなくなりました。


 アビー。


 あなたがわたくしに笑いかけてくれる事が、何よりの幸福なのだと知りました。


 可愛く、優しい、わたくしのアビー。


 あなたはわたくしの娘です。


 けれどもわたくしはもうあなたとは生きられない。


 あなたは自分で身の振り方を考えなければなりません。わたくしが教えられる事など、最早あなたの出自しかないのです。


 あなたは望まれて産まれたのです。あなたのお母様はあなたが産まれてくるのをお腹を撫でて待っていました。あなたのお父様だって、ずっとあなたのお母様のお腹に語り掛けていたのです。


 誰もあなたの死なぞ望んではいなかった。なのにあなたは死んでしまった。


 あなたは生きているのに、あなたの故郷にはあなたのお墓があるのです。




 アビー、わたくしの愛しい子。


 あなたがこの手紙を読む事がなければ良いのに。

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