第2話

 ネーヴェというのはフェンリルの名だ。大きな銀狼の姿をしたフェンリルはこの世で聖獣として扱われていて、誰にも使役する事は出来ない生き物なのだと言ったのは母だった。


 フェンリルの他にもドラゴンや大蛇が聖獣と見られているそうだが、滅多に人の前に現れないのでアビーの関心は薄かった。


 そんなフェンリルであるネーヴェがなぜネーヴェなのかと言えば、幼いアビーが幼体のフェンリルを保護したからだ。滅多な事では動揺しない母も流石に狼狽えた。雪深い森の奥深くには集落の人間も立ち入らない。


 アビーが母の静止も聞かずに迷い込んだお陰で出会った聖獣は、腹から血を流して生き絶えようとしていた。きっと兄弟喧嘩で切り捨てられたのだ。野生の動物は弱い個体に対して無情である。


 当時のネーヴェは、幼体と言っても幼いアビーが抱えられる大きさではなかった。母は恐々フェンリルをコートで包んで抱き抱え、逃げる様に小屋に舞い戻った。


 アビーはペットにすると浮かれきって、母は聖獣をペットだなんて畏れ多くて心臓が飛び出そうだと胸を押さえた。


「ネーヴェ」


 アビーは真摯に介抱した。血で汚れた包帯をこまめに取り替えて、母が煎じた薬草を塗布した。寝る時は狭いベッドの真ん中にネーヴェを置いて、母と三人で並んで眠った。


 ネーヴェが水を自ら飲む様になれば母と一緒に手を叩いて喜んだ。くたくたに煮込んだ鹿肉を食べた時にはネーヴェに抱きついて泣いてしまった。ネーヴェはアビーにとって良き友であり、良き兄弟だったのだ。


 すっかり傷も塞がって、銀色に輝く毛並みに艶が出る頃、ネーヴェは突然小屋から消えた。アビーは泣いて、母に縋った。


「ネーヴェはきっとアビーに感謝していますよ」

「でもわたしたちに何も言わずに消えてしまったわ」


 冬の最中に拾った聖獣を介抱している間に、外は夏の日差しになっていた。陽の当たる時間が多くなり、集落には緑が増えた。行商が二週に一度やってきて、麦と野菜を置いていく。窓を開ければ爽やかな緑の匂いが漂っていた。


 けれども大事にしていたネーヴェはいなかった。アビーはすっかり塞ぎ込んで、子供たちが遊びに誘うのにも頷けなかった。


「アビーのお友達でしたからね。森の奥まで行って、ネーヴェにお土産を置いてきましょうか」


 夏の森には獣が出るから、子供は入ってはならないのだ。それを知っている筈なのに母は瞬く間に狩装束に身を包み、手製の弓矢と短剣を装備した。


 さあ、と差し出された手を取ってしまえば後は森の奥へと向かうばかりだ。


「ネーヴェはお花は好きかしら?」

「ええ、きっと。干し肉も持って行きましょうね」

「パンは食べないかしら?」

「どうでしょうね。お腹が空いたらアビーとお母様で食べましょう」


 若木で編んだバスケットにあれこれ詰めて、母の思ったよりも固い手のひらに手を差し込んだ。




「あの時、ネーヴェに捨てられたと思ったのよ」


 ネーヴェの背に乗って夜通し南下する頃には、まとわりつく様だった灰の臭いは消え去っていた。背後に広がるのは黒い針葉樹の群ればかりで、最早あの集落を目視する事は出来ない。


 太陽が登り始める頃には遠くに聳える岩山が朧げに見えるばかりだった。あの山は集落のもっと北にあると言う。


 隣国——ラール国の所有する鉱山であり、罪人の流刑地として有名なのだ。ラール国は地の恵みに乏しく、その代わりに鉱山が多かった。その土地柄か血の気の多い民族で内戦が絶えないと聞く。


 母は生前、口を酸っぱくしてラール国にだけは行くなと言った。


「……ネーヴェ、ずっとわたしと一緒にいてね」


 人の世で生きる限り、ネーヴェと付かず離れずなど無理だろう。ネーヴェは賢い生き物だ。アビーが町村に降りれば人知れず姿を消すだろう。呼べば戻ってくるだろう。


 それで良いのだ。人の世に迎合して欲しいわけではないのだ、ただずっとアビーの家族でいてほしい。


「今日はあの洞窟で寝ましょう」


 森から山へと突き進み、鬱蒼とした枯れ木のあわいを抜けてアビーたちは切り立った崖の裂け目に潜り込んだ。湿った土を何度か踏み締め平に均す。ネーヴェはひとりで裂け目の奥まで歩いて行った。


 とっとっとっ、と身体の大きさに見合わない軽やかな足音が反響している。天井からは滑らかな岩肌が突起していた。


「ネーヴェ、あまり奥に行かないで」


 賢く気高くいたずら好きのネーヴェ。いなくなったあの日も、落ち込んだまま森の奥深くまでやってきたアビー母娘に兎の死骸を何十匹も放り投げてきた。そして得意気な顔で銀糸の尻尾を振ったのだ。


「ネーヴェったら……」


 ネーヴェは得意気な顔で今日も尻尾を振った。洞窟の入り口は人がやっと通れる程度の裂け目だったのに、奥に行けば行くほど広がっている。


 ヒュー、と時折風が鳴いた。ぱすん、とネーヴェが尻尾を打ちつける。そこになにか大きなものが転がっている。ヒュー、ヒュー、と風の音に混じってかすかな呼気が聞こえた。


「わかっていてここに連れてきたのかしら?」


 アビーは困った様に微笑んで、ネーヴェはやはり得意気にぱすんと再び尻尾を振った。




 火は焚けなかった。洞窟での焚き火は危険だと母に、あるいは集落の大人たちに教えられていたのだ。入り口が広くてその近くでなら問題はないけれど、奥になれば空気がなくなるかも知れない、下手をすれば爆発をするかも知れない。


 だからアビーはその人の容体を見る為だけに小さな火を灯し、その人が男だと知り、大きな怪我がないとわかると火を消した。見た事もない上等な布地の襟元には刺繍が施されていた。きっとどこかの高貴な人間なのだろう。高貴な人間は服に金を掛けるのだ。


 手探りで触れた肌は冷え切っている。アビーは着ていたコートをひとまず男に掛けた。その代わりにコートよりもずっと薄いローブを頭から羽織る。自分はネーヴェに引っ付いていれば良いだろう。


 さてどうしようか。男はいつから意識が無いのだろうか。まだ陽は登ったばかりで、寝ているだけということもあるだろうか?


 背もたれになったネーヴェは暇そうにあくびをしている。真っ暗の中、入り口の光は細い。


 アビーは思わずため息をついた。


 ぽこ、と足元に草が生えて、慌ててそれを引っこ抜く。きらりと金粉のような光を振り撒いて、ぽこぽこと蔦を伸ばす。こうなればアビーにはどうする事も出来ないのだ。だから母はアビーに力を使ってはいけないと約束させた。


 アビーのこの力が危険である事はわからないながらも理解している。息を吹き掛ければ植物が芽吹くのだ。不毛の地では重宝するだろう。だからこそ恐ろしい力だ。なのにアビーはこの力を制御出来ない。こうして今もため息ひとつで洞窟の中に蔦が這う。


 不思議な力、恐ろしい力。人に見られてはいけない力。


「誰だ……!?」


 ネーヴェがグゥと鳴いた。アビーの周りは蔦だらけ。寝ていた男は飛び起きて、パッと丸い黄色の球体を手のひらに掲げた。


「ごきげんよう。見知らぬ方」

「……誰だ貴様は」

「ただの旅人です。連れに案内されて入ったらあなたが行き倒れていたのです」

「連れ……? その連れはどこにいる」


 丸い球体は男の手から離れ、ふらふらと周囲を飛び回る。岩肌に影が浮かび、男の顔貌が顕になった。暗がりのせいか土埃のせいか流れるような金髪はくすんでいるが、明かりに照らされた瞳は深い青色をしている。


 この球体の明かりが魔法だろうか。魔法が使えるのは貴族だけと聞くが、この男はやはり貴族だろうか。それとも国によっては平民でも魔法が使えるのだろうか。だってアビーは平民だ。魔法が使える相手ならば、アビーに逃げ道はないだろう。


「連れは恥ずかしがり屋なので隠れてしまいました」


 無理があった。男からはビリビリとした空気が漂っている。茶化しているわけではないけれど、ネーヴェの事を話すわけにはいかないのだ。


 例えこの男まで誘導したのがネーヴェだとしても、ネーヴェが消えたと言うのなら、それは男には知らせないと言う事なのだ。


「ふざけているのか?」


 男の声に険が増す。


「あなたはここで行き倒れていた。わたしは偶然行き当たっただけの女です」

「…………どこの人間だ」

「名も無き集落ですわ。雪の中に埋もれた場所です。きっと行商以外は知らないでしょう」


 思えば金銭のやり取りをした事がなかった。麦を育てられるはずもないから家業は狩人になるのだろうか。


「ローブを取れ」

「なぜそこまで警戒されなければならないのです」

「こんな洞窟に女がひとりなど怪しいだろう」

「そんなにも上等な服を着て行き倒れているご自分の方が怪しいとは思いませんか?」


 二人の声が虚しく反響するばかりだった。圧倒的に時間の無駄だった。ネーヴェはこの男を救いたかったのか、ただ単に獲物を見つけたと誇らしげだったのだろうか。


 アビーは大きく息を吐き……出しそうになったのを慌てて止めて、ぐっと身を乗り出した。男が飛び起きた拍子に放り出されたコートを回収し、ばさばさと埃を払う。全くもって時間の無駄だった。アビーは三日三晩寝ていないのだ。昨夜は泣いていたし、夜通しネーヴェと移動した。


 疲弊していた。思うようにため息すら吐けずいらついていた。


「殺したければ殺しなさい。先日母が死んだばかりです。今死ねば母の元に追いつくかも知れません」

「………………、」

「その代わりネーヴェの餌になるでしょう」


 グル、唸り声が岩陰を割いた。揺れる球体は灯火のように消えて、周囲が余計に暗くなる。グルグルグル。唸り声は嘲笑うかのように続いている。


 姿のない獣の声に、男はようやく降参の意を告げた。

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