果ては春隣
ない
第1話
曇天に、木が爆ぜた。パチンパチンと飛び出る火の粉が溶け始めた雪に落ち、ぽつぽつと穴を開けている。
鬱蒼とした森を抜けて突如開けたその場所は、この国の最北端に位置する集落だ。住民は精々五十程、年寄りが半分を占める。
皆、短い夏の間に狩った獣の皮をなめした防寒具を着込み、松明を掲げて崩れ落ちる井桁を取り囲んでいた。
ォオオ、ォオオ、低い声、高い声、嗄れた声がこだまして、集落を取り囲む山から跳ね返ってくる。
今日は母の葬儀だった。これから三日三晩住人たちが代わる代わる火の番をして、母の死体を焼き切るのだ。
初めてこの儀式に立ち会ったのは、彼女が五歳の頃だった。この集落の最年長だったまとめ役が死んだのだ。
古い傷跡ばかりが残る骨と皮の身体を横たえて眠るように死んだ。住民たちは老人を取り囲みそれぞれに泣いていた。
まだ集落に来て日の浅かった彼女とその母も、寄る辺ないながらもその人を送る儀式に参加したのだ。
地響きのような叫びが子供心に恐ろしくて、彼女はずっと母のスカートにしがみついていた。
元は肉の焼ける臭いに釣られてやってきた獣を追い払う為だったものが、次第に葬送の掛け声になったと言う。
怖かったろう、すまなかったな。新たなまとめ役となった老爺は、顔をしわくちゃにして微笑んだ。
そして今、己の母が送られている。ォオオ、ォオオ。松明を持って、彼女は叫んだ。
長い冬は明ける気配がなかった。この地に来て早十年、数年前に風邪を拗らせた母は北国の寒さに耐えられなかったのだ。
日に日に体力を失っていき、晩年にはついに寝たきりとなってしまった。
丸太を組み立てただけの小屋に、木箱を並べただけのベッドを置いて、二人掛けが精一杯の正方形のテーブルを置けばそれだけで一杯一杯の小屋だった。
暖炉の代わりに火窯があって、冬にはそこに薪を入れ続ける。そうでなければ凍死してしまうのだ。
けれども彼女は幸せだった。優しくて厳しい母に、おおらかな住民たち。数少ない子供は仲が良く、雪解けが始まれば集落の若手が男女問わず集まって狩りに出掛ける。
女子供は山菜を取り、男は冬眠から目覚めた獣を狩った。そして完全に雪が溶けた頃にやってくる行商に肉の代わりに野菜や麦を貰うのだ。
そうやってこの集落は機能していた。皆、ぽっと現れた身寄りのない母娘に訳も聞かずに親切にしてくれた。それだけで母はどれほど救われただろう。
ここで自分たちは穏やかに生きていくのだ。雪に閉ざされたこの集落で、年々減っていく住民を見送って、雪解けの春を迎えるのだ。
なのに母は死んでしまった。
「アビー、ここを出るのならば決して髪を見せてはいけません」
彼女——アビーは神妙に頷いた。握りしめた母の手は老婆のように冷たく固い。関節が浮きて出て乾燥でひび割れていた。
「無闇に力を使ってはいけません」
「はい、お母様」
「人を簡単に信用してはいけません」
「ネーヴェ以外は信用しません」
「アビー」
はい。アビーはそっと母に顔を近付けた。もはや殆ど見えないであろう目が緩慢に動いて、眩し気に瞼を閉じる。
窓から差し込む光を受けて、アビーの髪が白くきらめいた。
もっと幼い頃は、なぜ母と自分の色は違うのだろうと思い悩んだ事もある。見た事もない父親という存在が同じ色なのだろうかと聞いた事もあった。
その度に母が悲し気に微笑むからいつの間にか疑問に思う事をやめてしまった。
いつもアビーに対しても敬語で話す母の事、髪色の違う母の事、淑女の様な所作なのに集落の中で一番狩りの上手い母の事。
母はたれ目でアビーはつり目だ。瞳の色だって、母はこの世で一番多いハシバミ色をしているのに、アビーは新芽を思わせる翠色だ。
ちっともアビーとは似ていない母の事。きっと一生わからないだろう。アビーは母を温める様に握りしめていた手を頬に移した。
尖った顎先はすっかりアビーの手のひらに収まる様になってしまった。
「お母様。わたしがお母様の故郷に行く事を許してくださいますか」
のそりと震えるまつ毛は亜麻色をしている。白髪の目立つ髪も、昔はきっと艶やかな亜麻色をしていただろう。
母の故郷は農業が盛んで、冬にも滅多に雪が降らないのだと言った。豊かな草原を家畜が喰み、秋になれば麦穂が金に色付いて、冬には根菜が収穫出来る。
そうして春になれば色とりどりの花が咲くのだ。
見たい、と思った。いつか母が生きていた土地をこの目で見たいと思ったのだ。
お母様、ともう一度問いかけると、母は細く長く息を吐いた。
「許しましょう」
その三日後、母が死んだのだった。
パチン、と爆ぜた。とっくに崩れて原型の無くなった井桁が灰の臭いを撒き散らす。
「アビー……」
ぼうと燃え尽きる炎を見つめるアビーに、躊躇いがちな声が掛かった。振り向けば同じ年頃の少年が着膨れた姿で立ちすくんでいる。
寒さのせいで鼻っ面が真っ赤になっていた。
「ここを出るって聞いた。……本当に行くのか?」
「わたし、ずっとお母様の故郷を見たいと思っていたの」
「でも、……でもこんなにすぐじゃなくても良いだろう」
そうかも知れない。彼が言うように急いで出て行かなくたって、誰も子供のアビーを追い出したりなんかしない。冬はまだ明けないのだ。雪は溶ける間もなく積み重なっていくばかりなのだ。
曇天はどこまでも続いているし、集落を囲む森は薄暗い。けれどもアビーはこの集落を明日出ていく。
母の遺髪を持って。
古く擦り切れたトランクを持って。
今年誂えたばかりの毛皮のコートを羽織って。
「俺はお前と一緒にいたいんだ」
もそもそとした囁きがパチンと爆ぜる。少年はずっと顔が赤かった。きっと母が元気で生きていたのなら、アビーは将来彼と結婚していたのかも知れない。
少ない子供たちで結婚相手を取り合って、誰かは集落から出て行っただろう。この地は若者が暮らしていくにはあまりに過酷で、老人が余生を過ごすには冷たすぎる。
けれども大人たちはいつの間にかこの地に舞い戻ってくるのだ。
「戻ってきた大人が言うのよ。死ぬ為に戻ってきたんだって」
「…………」
「外の世界は土葬なんですって。そしてお金のない人が墓を荒らして、なけなしの金品を持っていくのですって」
「アビーもいつか戻ってくるってことか?」
「わからない。でも、お母様はわたしに一人で生きる術を教えてくれたもの」
淑女でありなさい、とは言わなかった。ただ、教養があれば必要とされるだろうと言った。礼儀があれば無用な争いに出くわすことも減るだろうと言った。
狩りが出来れば飢えずにすむだろう、家事が出来れば奉公先が見つかるだろう。
そうやって幼いアビーに長く短い年月で生きていく術を教え込んだのだ。
「死ぬ為には戻ってこないわ」
それきり、アビーは黙り込んで赤く点滅する木炭を眺めるばかりだった。いつしか少年はいなくなり、焚き火にまで落ち着いた井桁の周りの面子が変わる。
アビーは三日三晩起き抜いて、ぽっかり穴を開けた土面に母の亡骸が埋められるのを見守って、夜中にそっと小屋を出た。
周囲はまだ灰の臭いが残っている。きっと暫くは冬眠しそびれた獣が来る事もないだろう。
曇天はすっかり晴れて星を浮かべている。
この集落がいつまでも平穏でありますように。
アビーは細く長く息を吐いた。白くけぶった吐息が空気に混じって消えていく。ぽつ、と母を埋めた土の上に芽が生えた。ぽつぽつぽつ、と黄緑色が広がって、茎が伸びて白い花を咲かせている。
「ネーヴェ」
逃げるように森の中に駆け込んで、アビーは掠れる声を上げた。
「ネーヴェ……ッ」
ごう、と突風がアビーの髪を巻き上げる。湿った土の匂い。森に充満する母の焼かれた臭い。針葉樹の樹木の匂い。
母と一緒に歩いた獣道も、冬になると分厚い氷になる湖で滑って遊んだ思い出も、少年の引き止める言葉ですらも、アビーを思い止まらせるには至らない。
アビーは目の前に現れた銀狼にしがみついた。ネーヴェ、ネーヴェと子供の様に泣きじゃくり、大きく生ぬるい舌が頬を舐めるのに任せて涙を流した。
だって最愛の母が死んだのだ。
「お母様、いなくなってしまったわ」
この世のなにもかもが、今のアビーの慰めにはならなかった。
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