第11話
ハドラへの遊学はアルノルドが十二歳になる初夏だった。援助への感謝状と献上品を持ち込む使節団に便乗する形となった。
援助はサンタバユスの情勢が落ち着くまでの約三年間続けられたのだ。民は細々とした生活ながらも日々を生き抜き、豊作の年を経て息を吹き返した。
「お初にお目にかかります。マルクス・フォン・サンタバユスの子、アルノルドがハドラ国王陛下にご挨拶申し上げます」
「遠い所を良く来てくださった。どうか楽にしてくれ」
玉座へ向かって胸に手を当て深深と礼をするアルノルドに、ハドラの国王は気さくに声を掛けた。豪奢な椅子は金の装飾の枠組みで囲まれ、座面と背面は深紅のベルベット生地で覆われている。
アルノルドはそろりと顔を上げた。
ハドラ国王は賢君として名高い。敬虔と堅実で国を治め、王妃との仲も睦まじく、国民からも慕われている。歳は三十半ばと王としては若くもあるが、成人と共に王位継承し、それから大きな事件もなく穏やかな治世を築いていた。
目が覚めるような輝く銀髪。鋭利な目元に王族の証である翠の瞳。頬は張りがあり体格も良く、恐らく背も高いだろう。身に沿った黒のコートには幾つもの勲章が付けられている。金糸で編んだ二本の飾緒が肩章から胸の前部に吊るされていた。
「此度は格別のご厚情を賜り恐悦至極に存じます。つきましては、我が国からの献上品をお納め頂きたく」
農業国家でも知られるハドラは装飾品の殆どを輸入に頼っている。勿論原材料を入手し自国で作る技術者もいるだろう。
それでもアルノルドは自国の技術力を信頼していた。
「ありがたく頂戴しよう。サンタバユスは大国ゆえ、事態の収束には相応に苦慮した事だろう」
災害というものは不思議と時期が重なるものだ。作物が安定して育っても、販路の再築が間に合わない。
「お気遣い痛み入ります」
「よい。王子らも長旅で疲れたろう。今宵はゆるりと休まれよ」
ハドラ国王は柔らかく目元をたゆませた。
「明日、我が子にも会わせよう。丁度王子と同じ年回りだ。仲良くしてやってくれ」
王宮はコの字型をしている。背後には崖があり、崖下には海が広がっていた。夏の太陽光を浴びて水面はきらめき、穏やかな波風が開け放たれた窓から潮騒と共に吹き込んでくる。
回廊に窓はなく、等間隔に並ぶ太い柱が上下を支え風通しを良くしていた。王宮の正面入口には男の彫像が祀られていて、彫像の前には古ぼけた剣が台座の鍵の様に差し込まれていた。
建国神話に出てくる始祖だ。口髭を蓄え、前髪を後ろに流し、一枚の布を腰紐で縛った様な質素な衣装を纏っている。
神の代行者、ハドラ。彫像の周りは色とりどりの花で囲まれていた。
「この花は国民たちが礼拝の代わりにと持ってくるのですよ」
案内係の侍女長が、男の彫像を見上げて言った。この場所は男の最初の住処だったのだ。
客間は豪華過ぎず質素すぎない、程よい品位の保たれた室内だった。サンタバユスの自室よりは些か狭いが、大人が三人は寝そべられるベッドに応接間を兼ねたテーブルとソファー。窓際には執務机まで置いてある。天井まで届く窓は隅々まで磨かれていた。
部屋に入ってすぐの左手には使用人用の手狭な部屋も用意されていた。
案内を終えた侍女長は、一度退出すると間もなく茶の用意をして静かに一礼をして出ていった。白い陶器には青色の小花が描かれている。
茶菓子は苺ジャムを挟んだクッキーだった。
「カルロ、献上品は全て渡したか?」
「はい。何も壊れる事無くお渡し出来ましたよ」
カルロはアルノルドの五歳歳上の侍従だ。シリングス侯爵家の次男で王都の学院を文武共に優秀な成績で卒業している。
元は第一王子である兄の側近候補であったが、兄とは反りが合わなかったのだ。奔放な性格の兄と生真面目なカルロでは、我慢しろと言ったところで後々衝突しただろう。
背中まで伸びた黒髪はさらりと癖のひとつもない。紐で縛っても直ぐに解けてしまうのが、カルロの取るに足らない悩みであった。
「学院はいつからだっけ」
「殿下、お言葉が乱れておりますが」
「良いじゃないか。カルロしかいないんだから」
堅苦しい上着を脱いで、アルノルドは整えられたベッドに臆することなく身を投げ出した。
「秋からなので後二月ほどでしょうか」
「そうか……王宮の図書は読んでも構わないのだろうか?」
「後程確認しておきます」
アルノルドは頷きで返し、ほっと息をついた。自国にいるといつも気を張っていなければならず、旅路は長くて窮屈だった。馬車に揺られ続けた足はじんわりと痺れ、己の疲労を訴えてくる。
「お休みになられますか」
「そうする……」
柔らかなベッドにのそのそと潜り込む。ざざん、ざざん、潮騒はアルノルドの眠気を誘った。
温暖な気候、豊富な水源、青々しい畑、笑顔の絶えない民の集う街並み。ハドラ国内は他国とは一線を画していた。唯一神ハドラの祝福を受けた国。
きっと誰もがその恩恵に預かろうと必死だった事だろう。
豊穣の加護が三代続き、戦の加護が五代続いた。叡智の加護と法の加護が同時に生まれ、創造の加護の時代に国は驚くべき速さで整備された。
「加護は時代の象徴なのか」
飢える人間が減った頃に他国の侵略から守り、不干渉の条約を豊富な作物の輸出で取り決めた。
他国からの流民の受け入れや犯罪行為に対する法の制定、戦争から立ち直った国は税率を定めた。
国を建て、民を守り、各地の整備を進める一族を王族と言わずなんと言う。
「敬虔で思慮深く民に愛され民を愛する国王か」
まるで夢物語ではないか。
けれどもアルノルドの眼下には平和そのものが広がっている。図書館から借りたハドラの歴史は長く詳細だった。
作物の育て方は土の善し悪しが記されている。同じ畑で同じ種ばかりを育てた場合の病気や障害、雨風に倒れない家の建て方、犯罪と刑罰の制定基準。
サンタバユスの刑罰は死罪のみだ。働かない罪人の為に国税として得た食料を与えねばならなかったからだ。故に法務官は横領があるだろうと怪しんでいても、こちらからは口出しをしない。
「カルロ、お前はこの国をどう思う」
「幸福な国、ですね。そして不幸を知らない国」
「不敬だな」
「建国時ならまだしも、今の国民も王侯貴族の方々も戦争を知らないでしょう」
「戦争は私も知らない」
「知らないのは幸福なことですよ、殿下」
人を殺し人に殺され魔物を殺し魔物に殺される。
サンタバユスは、恐らくは他国でも多かれ少なかれ小競り合いは続いているだろう。今よりも豊かな資源を手に入れる為、国が私腹を肥やす為、貧相な土地を捨てる為。
ハドラは神の祝福によって永きに渡り飢えを知らず、加護によって戦を知らない。子供たちは平民でも上等な服を着て、革靴を履く。平民学校に通い文字と算術を覚える。賢君は人々に敬われ暴動が起こるはずもない。
他国を寄せ付けない、唯一絶対の幸福を約束された国。
「正に神の国だな」
潮騒はどこまでも続いている。波も人も穏やかに生きている。
「私はここで何を学べるだろうか」
「何事も知識は殿下の糧となりますよ」
そうだといいのだが。
学院に通う三年間に、己はこの国のどこまでを糧と出来るだろうか。果たしてこの目の前の分厚い歴史書を読み解く事が出来るのか。
ざざん、ざざん、と海は鳴く。温い風がアルノルドの頬を撫でた。
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