第15話

「生きておりますね……?」


 アビーはことりと首を傾げた。入れた茶は冷め、外は朝焼けが滲んでいる。アルノルドの話は途方もなく、夕食を挟んでも途切れる事はなかった。


 見聞きする機会もなかったハドラ国の話は、アビーにとって興味深く疑問も尽きなかった。


 雪の降らない国の建物は開放感に溢れ、平民は窓を開けて寝るという。それは雪国で育ったアビーにとって想像するのも難しい。


「私が死ぬ前に毒味役が五人死んだ」

「まあ……」

「護衛が二人、日を違えて行方不明になった。今回私が飛ばされた事で、彼らは実験台になったのだと思い至った」


 恐らくサンタバユス帝国とラール国は遠すぎて、確実に転移させられるか確証がなかったのだろう。


 アルノルドの護衛だけでなく、前段階で死刑囚や平民も使っていた筈だ。転移魔法は闇属性に分類される。闇属性を持つ者は元来"生"に関して無関心であった。


 サンタバユス帝国から遠く離れたハッシアで良かった。ハッシアは国土の殆どが雪と氷で閉ざされた国だ。アルノルドが生きていると情報を掴むにも時間が掛かるだろう。


 ハッシアは北西に長く伸び、首都は西部に位置している。ラール国との国境に連なる山脈以外は海に囲まれた、生きていくには厳しい土地だった。


 目立つ特産品もなく、作物は西側でしか育たない。発展の遅れた北部は森と山で覆われて、所々に寒村が見られる程度だ。ただ獣も魔獣も良く現れるので、人口に対する食糧難とは無縁であった。


「ハドラ国王の言は、私が母国で早晩死ぬと懸念していたのかと思っていた」


 食糧難とは無縁であっても、物資も持たないアルノルドひとりでは洞窟に籠った所で遅かれ早かれ死んでいただろう。薄く体内で伸ばした光魔法で生きながらえて何日だったのか。


「しかしそれはある意味では正しく、ある意味では違っていた」

「どういう事です?」

「私とあなたが出会ったのは、神の決めた理だったんだ」


 アビーとの出会いは既に決定されていたのだ。しかしアルノルドがサンタバユス帝国にいれば、出会う前に死んでいた。


 今生きているのは、アルノルドがハドラ国王の言を疑問視していたからだ。


 なぜ国に帰ってはならなかったのか。なぜハドラに引き止めたがったのか。なぜハドラ国王は理由を話さなかったのか。


 アルノルドが一番警戒したのはサンタバユス王妃である。あの女は己の手を汚さず他者を躊躇いなく殺すのだ。アルノルドに安寧は無かった。


「アビゲイル王女、あなたをハドラ国へ連れて行くべきなのか悩ましい所だ」

「わたしはアビーです。母は一度も私をアビゲイルなんて呼ばなかったもの」


 母は勉強の一環として各国の特色を教えてくれた。この世界には二つの大陸と三つの島があり、残りは海で出来ているのだと言う。


 ハドラ国と集落のあったハッシアは、丁度ラール国を有する大陸の両端に位置していた。方や不作を知らない国であり、方や作物の育たない国であった。


 同じ大陸なのに全然違うのね、とアビーは母に言ったものだ。母も、この国に来なければ知らなかったと苦笑した。


「母に許可は貰っているのだから、わたしは母の故郷へ行きますよ」

「そうか」


 アルノルドは二度、三度頷いた。


 アルノルドが出奔するのはアルノルドの勝手で、アビーが母の故郷へ向かうのもアビーの勝手なのだった。





 朝の鐘が村に響く頃、ここまで同行してくれた騎士たちを見送った。騎士も御者もしきりにアルノルドを心配していたが、借り物である彼らをいつまでも同行させる訳にもいかなかった。


「ご武運を、アルノルド殿下」

「ああ。ライヴレック辺境伯にもよろしく伝えておいてくれ」

「はっ!」


 騎士たちの向かう街道では砂嵐が舞っている。がたごとと空の馬車が揺れていた。


「さて、ひとまず寝るか。部屋も空いたろう」

「そうですね。夕方に出発してネーヴェを呼びますか」

「それでもいいが……アビーは金を持っているのか?」


 アルノルドは辺境伯城を出立する際に路銀を借りてはいたが、アビーの口ぶりでは無一文でもおかしくない。


 アビーはことりと眠たげに首を傾げ、少しだけ、と呟いた。


「母が貯めていたお金が少しだけあります。銀貨五十枚程」


 騎士たちの姿が見えなくなって、ふたりはそれぞれ宿に向かって歩き出す。小さな村の早朝という事もあって人通りは無に等しい。


 村の中心に置かれた井戸で子供たちが走り回っていた。


「微妙だな……金の価値はわかるな?」

「そこまで無知ではありません」


 む、とアビーは唇を尖らせた。金を使う事は滅多になかったが、母はきちんと教えてくれていた。この村の宿ならばひとり一泊銅貨五枚だろうか。


 行商が持ってきた林檎がひとつ小銅貨三枚だと考えると妥当な筈だ。


「そうか。だが銀貨五十枚ではハドラまで向かうには心許ないな」

「ネーヴェで山伝いに行けばいいではないですか」


 宿に戻ると店主がにこにこと食事の有無を問うた。騎士の見送りは朝食前だったのだ。無理を言って彼らの分だけサンドイッチを持たせてもらった。


「朝食を頼めるか」

「はい。食堂はあっちです。掛けて待っててくだせえ」


 店主は宿の奥を指さし、自身は受付の奥へと入っていった。そこから厨房に繋がっているのだろう。屋内ではスープの暖かな匂いが立ち込めている。


「アビー、後でちょっとだけ話があります」

「朝食を食べたら一眠りで忙しいのですが」

「それを世間では暇だと言うんだ! なぜ大人しく言うことを聞かない!」

「ネーヴェがひとりで可哀想ではないですか」


 ふたりは言い争いながら——と言っても声を荒らげているのはアルノルドだけだが——食堂に踏み入った。室内には既にひとりの男が食事を始めている。


 木製の丸いテーブルには木の器にスープがなみなみと注がれて、黒いパンがふたつ置いてあるだけの質素なものだ。


「はい、おまちどうさん!」

「まあ、ありがとうございます。美味しそうですね」


 ふくよかな女主人が両手にスープの器を持って現れた。生成色のエプロンには所々茶色い染みが出来ていたが、それが小花模様のようで可愛らしくすらあった。


 女主人はにっと歯を見せて、バンダナから垂れる赤髪を揺らして笑っている。


「朝から痴話喧嘩とは仲がいいね。でも他の客もいるから静かにね」

「……承知した」

「ごめんなさい。そちらの方も騒がしくして申し訳ございません」


 アビーはそう言って先客に頭を下げた。


 先客の男はおろおろと狼狽えて、目元を隠す前髪を撫で付けて、さっと俯くように頭を揺らしてもそもそとパンを齧る。


 あれは謝罪を受け入れてくれた、という事でいいのだろうか。眠気でぼんやりする頭で詮無いことを考える。


「さ、冷めないうちに食べな。食べ終わったら食器はそのままで大丈夫」

「はい。いただきます」

「いただきます」


 気のいい女主人はアルノルドの背中を思い切り叩いて食堂を出ていった。いざスープを食べようとしていた彼は思いきり噎せているのに知らんぷりだ。


「不敬だ……」

「女性が強いと活気があるものですよ」

「姦しいの間違いだろう」


 確かにそうとも言う、だろうか? 集落で木の実を集めながらお喋りに興じる女たちを思い出しアビーは笑った。

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