第16話
「世の中には通行税というものがあってだな」
「存じております」
「基本的にどこの国でも洗礼式の後に国の発行する個人カードを持っている」
「でもこの村に入る時にわたしはなにも提示していません」
「それは村だからだな。街に入る際は私が保証人になろう」
食事を取ってさて寝ようと、新たに割り当てられた部屋の扉に手を掛けた所で、アビーはアルノルドに引き摺られる様に元の部屋へと連れられた。
食事の間に部屋の片付けをされたのか、出したままだった茶器は姿を消し、新たな茶器が机の上に鎮座している。
アビーは丸い椅子に座らされ、こんこんと説教をされていた。
「こういうものだ」
と言ってアルノルドが懐から薄い板を取り出した。金属で出来ているのか硬そうなそれは艶やかな銀色をしている。彼が手渡したそれを、アビーはまじまじと観察した。
「表面に自分の出身国の紋章、領地の紋章、名前が掘られているだろう」
アルノルド・フォン・サンタバユス。
これがアルノルドの名称なのか。偽名ではなかったのだな、と知っていた事なのに感心してしまった。アビーは裏面をひっくり返し、さらにまじまじと観察を続けた。
「思ったより分厚いのですね」
「そこか? そこなのか? カードは二重になっていて内側に魔術陣が仕込まれているんだ」
「あっ、もしかして辺境伯城で見せていたのがこれですか?」
「そうだ。これは改竄出来ない様になっている」
このカードが身分証明になる事は理解した。残念ながらアビーは持ち合わせていないし、洗礼式に出た事もない。
集落で子供たちを集めて簡易的にお祈りをした事はあった。これからも健康に育ちます様に、とかそんな程度だ。
「入国の際、これを提示すると入管局の人間が履歴を精査する」
「履歴を……」
「どの国からどの領地、どの街路を辿ってやって来たのか大まかな指標になる。つまりどこかしらの国で出入りの形跡がなければ問題になるだろう」
それは大変ではないか。アビーはネーヴェに乗って山から山をひとっ飛びしたのだから。
アルノルドがいたとて密入国ではないか。
ざっと血の気が引いたのが自分でもわかった。
「あの、これ、どうやったら作れますか?」
「魔術陣を使うから、専用の魔具に魔力を通さなければならない」
詰んだ。
アルノルドは気まずそうに視線をさ迷わせている。詰んでいるのだ、彼から見ても。
「血判とかでどうにかなりませんか……」
「狩人育ちだから物騒なのか?」
今度はドン引きした顔でアビーを見てくる。だってこんなものが必要だなんて、母は教えてはくれなかった。
いや、母の事だからネーヴェがいればハドラまで問題なく到着すると思っていたのかも知れない。
母の故郷に辿り着けば、母の実家はアビーに検討がついただろう。母は一度実家に手紙を送っている。
母の名前を尋ねれば、故郷の誰かは母の事を覚えている筈だ。
つまり、やはりネーヴェに乗ってハドラまで一直線で行くしかないのだ。
「わかりました。ネーヴェにちょっとだけ無理をして貰いましょう」
「ネーヴェは空を飛べないだろう。ラール国を経由する以外は海を隔てているぞ」
「無理じゃないですか」
終わった、とアビーは両手で顔を覆った。
眠気はすっかり吹き飛んで、不安と後悔が押し寄せてくる。もっとちゃんと下調べをすれば良かった。
せめて集落のあった国、ハッシアを隅から隅まで観光すれば良かった。
アルノルドがいれば、多少の無知も問題なかろうと軽視していたのだ。失態だった。
「ただ、ひとつだけ解決策はある」
「なんです……」
「冒険者ギルドに登録するといい」
アルノルドは項垂れるアビーの手からカードを抜き取って、もう一枚のカードを首から取り出した。
こちらは銅板の様な赤味がかった色のカードだ。一角に穴が空いてチェーンと繋がっている。
「偽名で問題ない。冒険者は流民も多いから保証人も不要だ」
「まあ」
「狩りが出来て獲物が捌けるなら問題はないだろう」
ただし定期的に依頼を熟さなければならないが、とアルノルドは面倒くさそうに肩を竦めた。
アルノルドが冒険者ギルドに登録したのは、ハドラ国への遊学を終える帰途だった。なんの事はない、熊に襲われたのだ。
護衛とカルロとアルノルドを合わせて五人という少数だったのは、王妃の嫌がらせではあったが、大所帯でハドラ国に入り込むのも失礼にあたる。
そもそもカルロは腕利きの魔術師でもあったから差程の心配もしていなかった。
とにかくもハドラからの帰途で熊襲われ、騎士とカルロで仕留めて素材を剥いだ。解体した分厚い毛皮と肉と薬になる部分を、アルノルドの光魔法で修繕し、近くの街のギルドで売った。
「これがなかなかいい値段で売れたから、ギルドに登録して小遣い稼ぎでもしようと思ったんだ」
「王子ですよね?」
「王妃の嫌がらせでこちらは公費の割り当ても少なかったし、災害から復旧したばかりで国庫も潤沢ではなかった」
カルロと一緒に登録して、サンタバユスに帰ってからも度々忍んでギルドの依頼を熟していった。
最初は薬草集めから始まって、家畜の世話を請け負って、遭遇した逸れ赤虎の討伐で負傷した。
「赤虎は火を噴くからな。それを右腕に受けて大惨事になる所だった」
「カルロさんは怒ったでしょうね」
「それはもう」
アルノルドは喉を震わせて笑っている。自分の光魔法で事なきを得たが、右腕にはまだ薄らと桃色の皮膚に覆われていた。
「そんなカルロがもうすぐ到着するわけだが」
「昨晩から情報量が多いですね」
もう寝ましょう、とアビーは無理やり話を締めくくったのだった。
アルノルドが元々身につけていた服のカフスは魔核製だ。丁寧に研磨すると宝石のような色味を携える。
瞳に合わせた蒼色のそれは、水辺を縄張りにしていた大蛇の眼だった物だ。水属性だから青いのだろう、とカフスに加工して出来上がった魔核を光に翳した。
台座には薄らと魔術陣が刻まれている。大蛇の対の眼だったから、同じものが近くにあると魔力が共鳴するようになっていた。
水滴が波紋を広げる様に、注入した魔力が跳ね返る。ライヴレック辺境伯に頼んでカルロの手元に託した片割れは、日に日に近付いている様だった。
初めは跳ね返る魔力に丸一日掛かっていたのに、今では二、三時間しか掛からない。
「さて、あいつにどこまで説明するか……」
と言ってもアビーの髪を見ればカルロはすぐ様悟るだろう。アビーはローブで隠しているつもりだが、目元まで深く被らなければあの美しい銀髪からは逃れられない。
「会わせる前にハドラの状況を調べさせるか……?」
アビーのいなくなった部屋は静かだ。まだ冬の終わりには早いから、外は観光客の姿も少ない。
飲食店が軒を連ねる程の広さもない村だ、夜もすっかり寝静まる。
「…………」
まだまだ陽は高く、ハドラは遠く、カルロは近い。
ふむ、とアルノルドは考え込み、手のひらのカフスを弄び、そして静かに目を閉じた。
きっと今頃走り回っていた筈なのだと、かつてコンラートは泣いていた。その通りだと今なら笑い飛ばしてやれるのだ。
アビゲイルは森の中を走り回って育ったんだぞ、と。
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