第17話 私塾の夜⑦

 ガラスの箱はどこかに鍵があるのか、少し突っついたところでびくともしそうになかった。アントリム氏の用心の程が窺えるものの、さしたる問題ではない。鞄から先ほどとは別の試験管を二本取り出す。

「それも何かの薬品ですか?」

「当然。ただコイツらは他とは違って、特に扱い方を注意しなくちゃいけなくてね」

 一本目の薬品をガラスの箱へ静かに垂らす。シルヴィが固唾をのんで見守った……が、何も変化はない。

「これで、どうなるんです……?」

「貴族令孫サマが焦るんじゃないよ。こいつも混ぜて使うんだ」

 一本目の薬品で濡れたガラスの上に、二本目の薬品を垂らす。いずれも無色透明、二種類の薬品はすぐに混じり合って見分けがつかなくなる。

 変化はすぐに訪れた。黒い煙を発しながらガラスが飴細工のように溶け始め、内部に納めていた藁の人型たちが露わになる。

「今のは一体、何をされたんですか?」

「使ったのは南方に生息する、とあるクモとサソリのモンスターから抽出した毒物だよ。混ぜると文字通りあらゆるものを溶解する『何でも溶かす液』になる。こいつら生息地は被っているんだが、万が一お互いの毒が混ざると内側から溶かされかねないから、絶対に相手を襲わないという面白い習性があって――あ、煙は危ないから近寄らないように」

 溶けていくガラス箱を興味深そうに見ていたシルヴィが、慌てて距離を取る。

「ま、少量ならすぐに反応が終わって無害化するんだが。今はそれよりこっちだ」

 液体に触れないよう慎重にガラス箱へと手を突っ込み、人型たちを掴み出す。魔術的な防護や罠が仕掛けられていてはお手上げだったが、その心配は無用のようだ。まぁ貴族の子弟を預かる場所に、それほど剣呑なものは仕掛けないだろう。手にした人型たちをまじまじと見たが、何の変哲もない……とは言わないものの、それほど特別なアイテムには見えなかった。

「シュネル様……本当に、燃やしてしまわれますの?」

「お気に召さないなら溶かすなり爆破するなりするけれど。ひとまず外へ行こうか」

 私は教室を突っ切り屋外へと出る。幸い今はアントラム氏が付近にいないようだ、これなら燃やそうが溶かそうが爆破しようが問題ない。足元にそれらを並べ、鞄からは着火剤、溶解剤、爆破剤、その他諸々の危険物を取り出す。

「悪いが私の部下を返してもらうよ。それでも余人をもって代えがたい人材でね、彼がいないと私の生活が危ういんだ」



「サメジマ様、屋上へ行ってみませんこと?」

「屋上ですか?」

 音楽室はいつの間にか静かになり、後者は再び静寂に満ちていた。1階から人体模型達が上がって来る気配はない。

「高い所から見下ろせば何か脱出する手掛かりがあるかもしれません。下からでは校庭しか見えませんでしょう?」

「それは……確かに、仰る通りかもしれませんが」

「なら善は急げですわ。参りましょう!」

 少女に手を引かれ、俺は慌てて歩き出す。校舎の中央に位置する階段は確かに上へと続いていた。それほど大きい校舎とは思えないので、今いる2階の上がもう屋上なのだろうか。見えている踊り場までは光が届かず、その先は完全に闇が包んでいる。

「ほら早く、置いて行きますわよ」

「待って下さい、迂闊に動くと危険です。どんな怪異がいるか――」

 シルヴィを追って踊り場へと辿り着く。折り返した階段の先へとよく目を凝らすと、確かに屋上へと続いているらしい扉が闇の中に浮かんでいた。もう階段を中ほどまで上っているシルヴィが、俺を見下ろしている。さらに深い闇へ進むようで気が進まないが、意を決して一段目の階段に足を乗せた。そのまま二段、三段とさらに上る。

「そういえばサメジマ様。階段の数はちゃんと数えておいたほうがいいそうですよ」

 明かりがないせいで、顔の辺りはすっかり見えなくなったシルヴィが語り掛けてくる。

「それはまた……どうしてですか?」


――四段、五段。


 彼女の話を聞いて無意識に数え始めてしまう。

「言っていませんでしたが、私塾の学友が怪異に遭遇したそうですの」

「そうなんですか⁉」

「えぇ、無事には帰れたんですけれどね。その子、いつも階段を上る時に数えてしまう癖があるのですけれど、いつもは十二段の階段がその日ばかりは一段多かったんですって」

「へぇ……それで?」


――六段、七段。


「驚いて上を見上げると、十三段目の階段を上り切った先に何かがぶら下がっているのが見えたそうです。先が輪っかになった、太い荒縄」

「それは……絞首刑台のようですね」


――八段、九段。


 はたと足を止める。「どうかされました?」とシルヴィが闇の中から問うてきた。

「いや、不思議な話だなと」

「でしょう? 彼、慌てて階段を降りたので何事もなく帰れたのですけれど」 

「いえ、そうではなく」

 俺はシルヴィを……シルヴィがいるであろう、濃い闇を見上げる。

「シルヴィ様が通われている私塾の中は、教室とアントリム氏の小部屋だけでしたよね」

「ええ、その通りですわ」

「それなりに大きな建物ですが、内部は天井が高く平屋でした」

「……それも、仰る通りです」

「では」

 いつの間にか口の中がひどく乾いている。舌を動かすのがもどかしく感じられた。この校舎に来てからどれほど時間が経っているのだろうか。

「御学友は……どこの階段で、その異変に遭遇されたのですか?」

 答えがシルヴィから帰って来るのを、沈黙とともに待つ。静かな校舎の中で、俺と彼女の間には何の音も流れない。いくら待っても、期待する彼女からの答えはない。シルヴィは何も言わず、その姿も見えない。

 しかし、感じるのだ。彼女の視線は確かにこちらへ向けられている。俺を見ている。俺を捉えている。泡立つ肌が、彼女の視線を感じている。

 ぐぅ、と彼女が顔を近付けてきた。白い肌が、零れる金色の髪が闇の中で微かに浮かぶ。ふふ、と間近で彼女が笑い、吐息で髪が揺れるのを。

「どこで」

 彼女の唇が動き、そう言った。どこで異変に遭遇したのか、訊きたいるのはこちらだ。だが彼女は俺が放った言葉をただ反芻するように繰り返した。

「どこで」

 そう、どこで――俺はそう唇を動かしたつもりだったが、口からは掠れた音しかでなかった。

「どこで、こで、どで、こ、でで、どこで」

 言葉だ、確かにそれは言葉なのだろう。意味はなしている。だが感情は乗っていない。ただ聞いた言葉を繰り返している。

「……シルヴィ、様」

 わずかな祈りを持って彼女を呼ぶ。シルヴィだと俺が思っていた、彼女を呼ぶ。


「どこどこどこどこどこどこどこどこどこどこどこどこ」

 

 目を背けたい。これ以上見ていたくない。

 分かっている、分かっていた。これはシルヴィではない。


「ば、ばば、ちゃ、た、れば、たた、れれれれれれれれ」


 小刻みに震える舌が、意味のない言葉を羅列する。首をがくがくと揺らし、目をぐるぐると巡らせてる。その二つの眼が同時に俺を捉えた。


「ば、れ、ちゃ、った」


 何が、と。そう問い返すより早く。水に溶けた墨のようにシルヴィの顔が――シルヴィだと思っていたモノの顔が、溶けた。

 ひ、と情けない悲鳴が漏れる。彼女の顔が目の前で輪郭を失い、口だけは嘲笑を浮かべるている。先ほどまでシルヴィであったものを見ていたくなかった。しかし体は蝋で固められたかのように動くことが叶わず、眼前の異常から目が離せない。

 ぼろぼろに溶けた異形が再び成した姿は、全く別の少女だった。おかっぱの黒髪、白いブラウス、赤い釣りスカート。その姿には覚えがある、見たことはなくても誰もが思い浮かべるだろう名前があった。

 最悪だ。最初からそうだったのか。それに気付かず俺は彼女をずっと連れ回して、守るつもりで。


「トイレ、の……花子さん」

「――はぁーい」

 気の抜けるような返事をする、目の前の異形カースド。しかし――

「はい」「はぁーい」「はーい」「は」「はなこ」「はなこ、さん」「さん、さん、さんんん」

 肯定したのか、ただ反応したのか。目の前の闇がに声を発する。最早彼女は一人ではない、見えているのは表面のほんの一部分。本体は闇の中にいるのだ。


――十段。


  動かなかったはずの足が急に上がり、俺の意に反して再び階段を上り始める。闇が纏わり付いて俺の体を勝手に動かしていた。唯一自由になる顔を上に向ければ、頭上に彼女が話していた通りの物体が見えた。先端を丸く結った荒縄が、天井からぶら下がっているのを。

「なな」「ななつ」「ななつ、めぇ」

 闇の中から囃し立てる。七不思議の、七つ目。そう言いたいのだろう。


――「魔の十三階段」。


 いつの間にか一段増えている階段の怪。その行きつく先が目の前にぶら下がる荒縄か。一段ずつ階段を上がる俺の周囲で、誰かが含み笑いをしている。耳元で、足元で、首元で、頭上で、それぞれに、同時に、複数に。

「……クソ、ここに誘い込んで何人殺しやがった」


――十一段、十二段。もう縄は目の前だった。


「ひとり」

 闇の中で、何かがぽつりと呟く。

「……は?」

「ひ、とりぃ」「さいしょ」「ひとりめ」「あなた」「はじめて」

 答えが返ってくると思っていなかった悪態に、闇が反応する。思わず足元の彼女を見やると、俺を真っ直ぐ指差して「ひとり、め」と答えた。

「つまり、俺が初めての来校ってことなのか……?」

 肯定するように彼女が頷く、だからといって何も嬉しくはないが。理由は分からないが、この「学校の七不思議」はまだこの世界で凶事を起こす前だったのだろう。信用に値するかも分からないし、俺が最初の一人になってしまっては何の意味もない。

「だったら教えてほしいもんだな。なぜこんなことをする? わざわざこんな世界に来ずとも、で好きなだけ暴れていればいいだろうが」

 闇の中から答えは返ってこない。流石に何でも答えてくれる、という訳ではないのだろうか。

「都合が悪くなったらだんまりかよ。クソガキが――」

 悪態をついていた途端、急に焦点が合わなくなる。何が、と訝しんだの束の間。焦点が合わなくなったのではなく、焦点とは別の場所へと唐突に何かが現れていたのだ。

 それは、顔だった。生気は感じられない少女の顔。こちらを見てもいない顔だけが闇の中に浮かんでいる。

 何だ、何が言いたい。この子がなんだっていうんだ。

「よばれた」

「……呼ばれた?」

「あなたたち、が、

 よばせた……呼ばせた? 俺たちが? それと、この少女に何の関係がある?

「一体どういう――」


 だん、と足がまた一つ段を上がる。足元を見るともう先の段はない。


――十三段目。最後の段を上がった。


 両手が導かれるようにして勝手に持ち上がり、ロープに手を伸ばす。ささくれた縄が指に刺さったが、俺の意思をすでに離れた手は構わずそれを首に掛けた。

 ずず、と縄が天井に向けて持ち上がる。誰が引いている訳でもない、ただ独りでに。思わず逃れようとつま先を上げたが、すぐに縄は首へと負担をかけ始めた。じわじわと、俺に末期をわざと想像させるかのように。

 闇が、嗤っている。



「ちょっと待ちなさい、何をしているんだ!」

 我々の姿を認め、アントリム氏が駆け寄って来た。御老体とはとても思えない元気な足取りだったが、それにしても間の悪い。足元に置いた人型たちを見てさらに目を剥く。

「私の収蔵品を持ち出して、何をするつもりだ!」

「申し訳ございません伯爵。私の貴重な部下が怪異に囚われているおそれがありますので、一番怪しいものを今から壊します。離れていて下さい」

「何を言っておるのだ君は⁉」

 事実だけを端的に述べたが、アントリム氏はまるで納得した風ではない。まぁ私も腰を据えて彼を納得させるつもりなどないのだが。

「あなたに理解していただくほどの余裕はありません。事態は一刻を争うやもしれないのです」

「だからと言って見過ごせるか、落ち着きなさい!」

「御安心下さい、私は至って冷静です。冷静に今からこれらを爆破するのです」

「なお悪いわ!」

 押し問答を繰り広げる私たちの間で、シルヴィはおろおろとするばかり。申し訳ないが、彼女が一緒なら伯爵殿もそうそう手荒な真似はすまい。賠償金を求められるかもしれないが、まぁ……なんとかなる。

「怪異――子供たちの話していたアレらの原因が、その人型だと?」

「一番怪しいかと。他にお心当たりがあれば御供出下さい。一緒に始末しますので」

「誰がするか! だいいち時期が合わんだろう」

 アントリム氏が聞き捨てならない言葉を口走った。

「……時期、ですか?」

「その人型を入手してからまだ一月と経っておらんわ。子供たちが最初に怪異らしきモノを見たのは3カ月ほど前ではなかったか?」

「そうなのかい?」

 傍らのシルヴィを見ると、彼女はこくこくと頷く。

「……ええ、確かそのはずです」

「じゃあ外れじゃないか、クソッ」

 これが原因であれば、アントリム氏が入手する前に怪異が先行して現れたことになる。

「申し訳ありません、私が早く気付いていれば……」

「気にすることはない。焦って確認を怠った私のミスだ」

 とはいえ、状況は振り出しに戻った。いっそのこと本当に私塾ごと爆破しても私としては一切構わないのだが、それは最終手段としておく。

「先に言っておくが、その人型以外に異物アーティファクトと言えそうな物はないぞ」

「御忠告痛み入りますよ、涙が出そう」

 本心からそう言う。しかし検証する手間が省けたとはいえ振り出しに戻ったのは確かだ、私はシルヴィへと向き直る。

「なぁお嬢さん。何か心当たりは……いや、心当たりでなくてもいい。些細なことでもいい、何かこの私塾でいつもとは違うことが起きなかったか?」

「そう仰られても……」

 戸惑う様子のシルヴィ。無理もない、そもそも怪異などというとびっきりの異変が目の前で起きているのだ。多少の異変は印象が上書きされてしまう。

「なら、そうだね……最初に起こった、その3カ月前の異変ってのは何だった? 誰に、どんな状況で、何が起こった」

「それなら確か憶えています。ハミルトン男爵家のエドですわ」

「いいぞ、そのエドってガキ……いや、御子息様は何を見たんだ」

「確か、この私塾が全く違う大きな建物に見えたとか。怪しいので中には入らず逃げ帰ったそうですが」

「……いっそ中に入っていてくれれば手掛かりも得られたんだが」

「何てことを言うんだ君は⁉」

 横からアントリム氏が口を挟むが、構わず続ける。

「それを見たのは、エド一人だけか?」

「ええ。一人で私塾に忍び込もうとしていたそうなので」

「……忍び込む?」

 アントリム氏が訝しみ、シルヴィはしまったという顔をした。

「申し訳ありません、このことはエドから口止めされていたんです」

「それより、エドはどうして私塾に忍び込もうと? 伯爵のコレクションにでも手を付けようとしたのかい?」

「まさか! あ、いえ。確かに盗もうとしたのは間違いないのですけれど、彼は後にすぐ返すつもりだったと言っていましたし……」

「読んだって、何をだね?」

「それが……」

 シルヴィは私塾へと振り返る。その窓越しに教室の中、書架に積まれた数冊の本が見えた。

「『異世界探訪』です」


 地面に置いた『異世界探訪』は、陽の下で見ると想像以上に傷んでいた。子供たちがよほど夢中になったのだろう、取り合ったせいでできた破損が痛々しい。

「心当たりは全部潰さないと気が済まなくて」

「しかし、仮にも学び舎で焚書というのは……」

 なおもアントリム氏は口を挟んだ。はぁ、とこれ見よがしに溜め息を吐いてみせる。私だって学徒だ、どのような内容であれ本を燃やすなんて気持ちのいいことではない。気持ちは分かる、誰だって気持ちのいいことではない。でも、やらねばならない。

「アントリム伯爵。この王国随一の頭脳である私に冷静さをも期待しておられるのは大変光栄なのですが、忽然とあなたの私塾から姿を消し、このナイフ一本と塵紙だけを天井から戻した男は、私の唯一の部下であり、理解者であり、使命を共にする者であり、そしてたった一人の友人なのです。彼は今や怪異の腹の中にいるかもしれず、また今まさに狂死する寸前かもしれません。ここでのんべんだらりとして事態の収拾を待っていては、私はそのたった一人を失ってしまうかもしれません。帰って来るのは彼の無残な遺体だけです。

 そうなればいずれ怨みを以て、あなたを始めこの国に仇を為す大罪人となるでしょう。私はやります、必ずやります。手始めにこの国の井戸という井戸に毒を撒き、下水を瓦斯ガスで満たし、三カ月、いや一カ月でこの首都をカラスとネズミと毒虫以外が生息しない血と炎と暴力の地獄に変えてみせましょう。お分かりいただけますか? お宅で預かっているガキどもをそういう目に遭わせたくなければ、これ以上口を挟まないでいただきたい!」

 ……酸欠のため頭がクラクラする。こんなに感情を剝き出しにしたのはいつぶりだ? 祖国のケツを拭くためにこの国へ来た時でさえ、ここまで心を動かされはしなかったはずだ。

 アントリム氏は完全に気圧されている、今なら余計な口出しはしてこないだろう。シルヴィは――なぜか私をキラキラした目で見つめていた。

「申し訳ありません、シュネル様。あなたを誤解していたようです。そんなにもサメジマ様を……」

「やめろ、そんな目で私を見るな。……やめろってば気持ちの悪い! 出まかせに決まっているだろう」

 とはいえ邪魔者はいなくなった。今はこれでいい。

 試験管を開け、銀色と黒色の粉を『異世界探訪』へと塗す。これらは別にモンスターの素材や貴重なアイテムではない。軽銀や鋁と呼ばれる金属と、錆びた鉄の粉だ。だがこられは混ぜた途端、爆発的に炎上する危険な着火剤となる。アントリム氏もそれに気付いたのであろう、シルヴィ嬢の手を引いて距離を置いた。

「さてお立合い。御破算で願いましては――といこうか」

 念じ、マナを励起させる。生み出すのは蛍のように小さな火種。ふわふわと浮かんだ灯が積もった塵へと付着した瞬間、『異世界探訪』は激しい火柱に包まれた。



 急に全身を衝撃が襲う。肺が酸素を求め、激しく咳き込んだ。床に投げ出されたせいだと一瞬遅れて理解する。

(……何だ?)

 上を見上げると、先ほどまで俺の首を絞めていた縄が消失していた。縄だけではない。周囲の木造校舎がどんどん輪郭を失っている。広がっていた闇が花子さんへと収束し、朧気だった彼女の顔が最初の姿――シルヴィへと戻っていく。

「あら、あらら?」

 彼女が呆けた声を出す。見ればその姿も、そして周囲の壁もどんどん色を失っていく。

「残念、遊びの時間はおしまいみたいですね」

 どういうことだ、と問い返したかったがまだまともに声が出せない。意識を失わずに済んだのは僥倖だろう、抵抗する力がなくなっていればそのまま縄は俺の首を絞め終わっていたはずだ。

「誰かが気付いたみたい、もうちょっとサメジマ様と遊んでいたかったんだけれど……おっと」

 拘束しようと手を伸ばしたが、するりとかわされた。やがて彼女の姿は完全に掻き消え、闇の中で含み笑いだけが伝わって来る。

「ダメですよ、急に危ないことをしては」

「怪異、風情が……!」

 ずるり、と闇の中から再び怪異が顔を表す。あの少女でも、シルヴィでもない溶けたぐちゃぐちゃの顔。それが耳元に唇を寄せて囁く。

「……ねぇサメジマ様。もしまた死にたくなったら絶対に会いに来て下さいね? 今度はちゃんと殺してあげるから」


「――おい、しっかりしろ! クソ、そんなに荒療治がお好みか!」

 遠くで誰かが、とても不吉なことを誰かが叫んでいる。現状を認識するより先に口の中に何かがつっこまれ、中からどろりとした液体を流し込まれた。抵抗しようにも体に力が入らず、途端に口内が凍り付くような刺激に襲われて激しくむせる。

「やっと気が付いたか。あんまり雇用主に手間をかけさせんでくれ」

「……ここは?」

 試験管を手にしたシュネルが俺を見下ろしている。中身はきっとまたロクでもない液体だろう、口内に流し込んだということは毒ではないのだろうが。

 とはいえ、気分は最悪だった。いきなり闇の中から引きずり出され、訳の分からないものを飲まされて。住処の岩をひっくり返された虫に少し同情する。目が光に慣れるにつれ、ようやくそこがあの木造校舎ではなくシュネルと訪れた私塾だと理解した。

 どうやら戻ってこれたようだ。

「……大丈夫ですか?」

「うわッ⁉」

 心配そうな表情のシルヴィに顔を覗き込まれ、反射的に体が強張る。彼女が先ほどの怪異とは無関係だと理解してはいるのだが。

「信じ難いことだが……本当にあの『異世界探訪』が原因だったとは」

「原因というより、あれはきっかけなのでしょう。そうでなければ本が売られている書店や持っている人物の近くなど、至る所に怪異が行くことになります。とはいえ今はサメジマ君の回復を待ちましょう、聞きたいことは山ほどあるのですが」

 二人が何かを話し合っているが、朦朧とした頭では理解し切れない。それでも、今すぐ伝えなければいけないことがあった。

「怪異が言っていました。自分たちは『呼ばれた』。誰かが怪異を『呼ばせた』と」

「――彼らと意思疎通をしたというのか⁉」

 シュネルが驚愕の表情で振り向く。

「誰かが招いたんだ。怪異を、こちら側の世界に」



「私塾の子供たちが、全員加護なしヴォイド……?」

「あぁ、そうだ」

 木造校舎の怪異から生還して7日後。俺は所用により再びアントリム氏の私塾を訪れていた。

「この世界で加護なしという不具は必ず生まれてしまう。それは貴族でも平民でも関係ない、そういう子達を集めて教育を施しているのだ。あまり言い触らさないでいただけると助かるのだがな」

「滅相もありません……しかし、何故そのようなことを」

 アントリム氏は私塾の壁に手を触れて続ける。

「誰しも多かれ少なかれマナを操ることができるこの世界において、それができない加護なしはあらゆる面で不利になる。集団行動を是とし、個々人の能力差を補うことのできる軍への入隊という道がある平民ならまだしも、貴族にはその逃げ道もない。政略結婚に使われるのがせいぜいだろうが、嫁ぎ先で惨い扱いを受けた者達を私は多く見てきた」

 話を聞きながら、俺はシルヴィのことを思い出す。私塾を見上げるアントリム氏は、しかしずっと遠くへ視線を向けているように感じられた。

「それでも教養が備わっていれば、また別の道を選ぶことができるかもしれん。そういう子が一人でも増えればと思って、貴族の子供に加護なしがいると聞けば私塾に受け入れているんだよ」

「……それはいいんだけどさぁ、アントリム伯爵」

 振り返るとシュネルがしかめっ面を晒していた。

「お志がたいへん御立派なのは重々理解いたしました。いたしたけれど、なぁんで私があなたの私塾でガキ共に教えを施さなきゃいけないんだい⁉」

「何だ、不満なのかね」

「私は子供が嫌いなんだよ!」

「貴族の敷地内で危険な毒物やら火薬やらを振り撒いておいて、お咎めなしという訳にもいくまい。それに『異世界探訪』を燃やして彼が帰って来たとはいえ、なぜ怪異がこの私塾に現れたのか原因が分かった訳でもなかろう。危険に鑑みて近くで見張っておいた方がいいのでは? 私に恩も売れるぞ」

「そうだけどさぁ~……」

「あと私、錬金術の分野を教えるのが苦手なんだよ。君が教えてくれると楽になる」

「それが主な目的じゃないだろうね⁉」

 ぶつくさと不平不満をこぼすシュネルに、アントリム氏はわざとらしく溜め息を吐いた。

「見たまえサメジマ君。自称王国随一の頭脳が人の好意を仇で返しておる」

「最悪ですね。自分の上司として恥じ入るばかりです」

「あっ、ズルいぞ! サメジマ君は私の部下なのに、取り込むんじゃない! ……あぁ、もう分かったよ!」

 シュネルは私塾へどかどかと入って行く。子供たちは唐突に妙な女が現れ、戸惑っている様子だった。シルヴィだけはなぜか楽しそうだ。

「ガキども座れ! あ、座っているな。話が早くてよろしい。私はシュネル・ファインバーグ、君たち無知蒙昧に光明を授けるこの国随一の頭脳だ。……何やってんだよサメジマ君、君も手伝うんだよほらぁ!」

「……とのことなので、すみませんが行ってきます」

「あぁ、よろしく頼むよ」

 俺はシュネルが用意していた教材を担ぎ上げ、私塾へと入って行った。彼女もなんだかんだ文句を言いながら、準備だけはしっかりしていたのだ。

「そのお粗末な脳に毒薬の調合から攻城兵器の作り方まで刻み込んでやるから、耳の穴カッぽじって一言一句聞き漏らさないように!」

 彼女がテロリストを養成し始める前に止めるべく、俺も授業の準備を始めることにした。しばらくは忙しくなりそうだ。


――よばれた


――あなたたちが、よばせた


 それでも時折、怪異が呟いた言葉が胸中に去来してしまう。

 どこかにいるのだ。から怪異を招いた誰かが、この世界に。

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