第18話 族滅の箱③

 目の前の陰気な男は「話は終わりだ」とでも言いたげに、それきり黙ってしまった。しかし彼は知る由もないだろうが、こちらとしてはである。多少規模が大きいとはいえ、ただの失火で呼び出されて迷惑だと思っていたのに。

「それにしても禁術を使っていたとはね。優秀なパーティとは聞いていたが、そういうズルのお陰かな?」

 目の前に座った陰気な男は、私の言葉にさして反応を示さなかった。興味がないのか、興味を示す余裕もないのか。彼の証言でこの宿に破壊を齎したものが禁術だということは分かったものの、それ以上に厄介なことが判明してしまった。

 彼が言う木箱とやら。証言が虚偽でないとすれば、その存在はおそらく異物アーティファクトだろう。ベラやヒューの身上書はすでに依頼斡旋所から取り寄せている。彼女たちほど優秀な人間が一目で気付かなかったということは、恐らくこの世界の理から外れているのだ。呪いを齎したといっても、我々がマナによって与える呪いや弱体化デバフのようなものとは根本的に仕組みが違うのかもしれない。

「ところで、背中の傷は大丈夫かい?」

「傷……ですか? ええ、引き上げてもらった後に治療していただいたので、火傷はもう大丈夫です」

「それはよかった――なんて言うとでも思ったかい。えぇ? 私が言っているのは君の体中に残った傷の方だよ。ほら、ちょうど鳩尾についたアザとか」

「……モンスターに襲われることくらい、この世界では別段珍しいことじゃないでしょう」

 私の言葉に、彼は思わず背中を隠すように身を捻った。彼の身体についての情報はすでに得ている、今さら隠されたところでどうということはない。

「よく火傷で済んだよね。魔術学院主席だったんだろう? そんな彼女が使った禁術だ。ライトもヒューも、そしてベラ自身もみんな黒焦げだ。他の宿泊者にも被害が出ている。なのに君は海に飛び込む暇があって、火傷だけで助かった訳だ」

「……何が言いたいんです」

「別に? 君こと何か言いたいことがあるんじゃないかと思ってさ」

 挑発にも乗らず、彼は私を睨み続けている。意外と強情だな、もうちょっと揺さぶってみることにしよう。

「さっきも聞いた傷だけどさ、本当にそれを付けたのはモンスター? どこのどんなモンスターにつけられたのか、できる限りでいいから教えてくれないかい」

「……忘れましたよ。いちいち憶えていられない」

「だよねぇ、君の背中は火傷以外にも傷だらけだ。全部の経緯を憶えていられるとは思えないよ。でも一つ教えてくれるかな、どうして服を着ていれば見えなくなる場所にばかり傷があるんだい? 確かに彼の言う通り、モンスターによるものもあるのかもしれない。だが――ライト君のパーティで君の役割は何だ? 前衛フロント? 盾を持った護衛役かな?」

「……、です」

「失礼、よく聞こえなかった。もう一度大きな声で頼むよ」

 わざとらしく耳に手を当てる私に、彼は呻くような声で答える。

「歩荷です……荷物運びを」

「歩荷! 歩荷だって⁉」

 彼に聞くまでもない、ライトのパーティに荷物持ちがいたことは前もって調べがついていた。わざわざ彼の口から言わせたのは、その方が舌が回りやすくなると思ったからに過ぎない。

「それで? 蛮勇のライト君ってのは随分なやり手だそうじゃないか。そんなパーティの歩荷でしかない君がどうしてそんな傷だらけになるんだい? 彼らが最近こなした仕事の経緯は依頼斡旋所から聞いているけれど、ほとんど損害はなかったはずだ。おかしくないか?

 それに君の傷……どうも同じような高さに集中している気がするんだけれど。気のせいかい?」

 彼はとっさに体を押さえたが、その行動が私の疑念を裏打ちしている。冒険者の相手は人間や、人間大のモンスターだけではない。それこそオーガのような巨大なモンスターから、ゴブリンのような子供程度の身長しかないモンスターも相手にすることがある。ライトのパーティがそういったモンスターを避けて依頼を受けていたなら話は別だが、先ほどの話にもあったように彼らはオーガ討伐の依頼をこなしたばかりだ。

「改めて訊くよ。その傷を付けたのは誰だ?」

「……ライト、です」

「だろうねぇ」

 彼は顔を伏せたまま、分かり切ったことを答える。ライト「達」ではないことだけは少々意外だったが。

「それで、どうしてわざわざそんな加虐趣味の男のパーティにいたんだ? ギルドに駆け込めば多少彼に制裁が下る……ことはないか。彼って人気者だったようだし。君にそういう趣味がない限りは、わざわざ彼の元にいるメリットもなかろう」

「他に行き場がないんです。俺は……加護なしヴォイドだから」

「――あぁ、そういうことか」

 加護なしヴォイド。先天的にマナを操ることのできない不具。マナを操る多寡こそが優劣を決める冒険者界隈においては、さぞや肩身の狭かったことだろう。

「スラム街の手配師に仲介されて彼のパーティに入ったんです。それまでは炭鉱の日雇い仕事で糊口を凌いでいたんですが、『もっとお前に見合った仕事がある』と。俺は加護なしだから役には立たないと言ったんですが、ライトは荷物持ちを任せるだけだからそれでも構わないからって……」

「もちろん、仕事はそれだけじゃなかったんだろう?」

「……最初は木剣を持たされました。素振りをするライトと向かい合って。『素振りをするにも、相手がいると気分がノるから』と言っていましたが、じきに素振りが武器の寸止めになり、木剣が真剣になりました。そのうち素振りの時間だけでなく、クエストの最中にも私に向けて剣を振るように……幸い大怪我はしませんでしたが。町を歩いている時に怪しまれないよう、斬り付けるのは服で隠せる場所だけでした」

 彼は羽織ったシャツの袖を捲る。なるほど確かに、刀傷は目立つような場所を避けていた。冒険者としての名声に傷が付くのを嫌ったのだろう、悪い評判が立てば回される依頼の質も落ちる。

「心労解消の捌け口にでもされたのかな。他の三人は?」

「見て見ぬ振り、でしたね。表立って止めるようなことは何も。ヒューさんだけは酷い時だけ治癒術をかけてくれましたが、ライトが気付くと不機嫌になるので最近はその機会も減りました」

「なるほど……で、君はこの宿のどこに泊まっていたんだい? 彼らと同じコテージ? まぁ、予想はついているけれど」

「御想像の通りだとは思いますが。馬小屋ですよ。『加護なし如きが屋根のある場所で眠れるだけ有り難いだろう』と宛がわれました」

「徹底しているねぇ。コテージの中にいなかったから、すんでのところであの火災に巻き込まれることもなかったのか」

「スイシーの悲鳴で目が覚めて、後はずっと窓の外から覗いていました。部屋に入るとライトの機嫌を損ねると思ったので。……彼らを一歩引いた場所から見ていたからこそ、ベラが禁術を編んでいると他の二人より先に気付けたんだと思います。火傷で済んだのは僥倖で――」

 唐突に彼が口を噤む。訝しむ私を見て、彼がふ、と笑みを浮かべた。

「僥倖……驚きです。ライト達と一緒にいた頃は毎日死ぬことばかり考えていたのに、ベラの禁術を見た瞬間に必死で逃げたんです。『死にたくない』って考える暇もなく、海に向かって一直線に」

「そんなものだろうさ。誰だって自分のことは意外と分かっていないもんだよ……ところで君の証言なんだが、改竄させてくれないだろうか。ベラ君の『禁術』のところだ」

「……は?」

 呆気にとられるとは、こういう様をいうのだろう。彼はまさに口をぽかんと開けたまま固まっている。

「いや、しかし……先程の警吏にも同じことを話しましたが」

「彼の上司とは話がついているよ。後程持ってくる調書にサインをしてくれるだけでいいから」

「……どうして、そんなことを」

「君が言ったんだろう。彼女が行使したのは『禁術』だと。アレが魔術学院の外に持ち出されているということが分かれば困る人がいるんだよ」

 いくら才能のある魔術師といえど、一体を灰燼に帰すほどの火力を出すのは容易ではない。何らかのが原因であると疑われたために私が呼ばれたのだ。……まぁ、偶然とはいえ正解だったんだけれど。

「ちなみに彼女が使ったのは単なる炎属性の魔術じゃない。ここと光の速さで27年はかかると言われている場所を一時的に接続し、向こう側に封印されているを一時的に呼び出す召喚術だ。あちらの位置をピンポイントで指定しなければいけないから天文学の知識も必要なんだが――」

「そんなことはどうでもいいですよ!」

 彼が声を荒げて前のめりになる。

「意外だね、そんな元気があったんだ」

「からかわないでください。どうして俺がそんな、何の関わりもない魔術学院なんかのために虚偽の証言を――」

「そうすることで彼らから口止め料を引き出し、義援金に充てる」

「……義援金?」

「そうだ。ライト君たちが痴話喧嘩の果てに禁術を使ってこんな惨禍を起こしたなんて、馬鹿正直に公表しても誰も救われないし、被害者には一銭も入らない。観光業で成り立っているこの町にも致命的なイメージダウンとなる。だったら誤魔化すなり何なりして、取れるところからお金をもらったほうがよくないかい?」

「そんなやり方……」

「もちろん、嫌なら無理にとは言わないよ。私は止めない。君も被害者のためになると思うのなら正直に証言し、ここでガレキ撤去の手伝いでもするといい」

 あからさまに無碍に扱う私の言葉に、身を乗り出した彼も再び腰を下ろす。真っ当な倫理観だ、凡そまともな人間ならば激昂して然るべき申し出だろう。冒険者などという明日をも知れぬ境遇に身を置くべき性格ではない。

 彼はしばし逡巡した後、ぽつりと「分かりました」と呟いた。

「納得いただけたようで何よりだ。ようやく君の今後について話ができる」

「俺の?」

 鸚鵡返しに繰り返した彼の鼻先に、人差し指を突き付ける。

「君のことだよ。これからどうするつもりだい? また冒険者崩れに戻るか、それともスラム街に?」

「それは、今は何も――」

「なら軍隊に入るといい。あそこは個よりも集団を重んじる。マナの多寡などさほどの枷にはならないだろう」

「軍隊、って……しかし俺にそんなツテは」

「口利きならしてあげるよ、君の出自など気にならないほどの下駄は履かせてあげよう。任期が終わったら適当に切り上げて、私の仕事を手伝ってほしい」

「仕事?」

「君が見たという木箱だが、恐らく我々が異物アーティファクトと呼ぶものだ。こことは異なる世界から流れ着いた、我々の知る理を超えたアイテムだよ」

 異世界――そう呼ばれる場所があることは、噂程度では彼も知っていたのかもしれない。突拍子のない話だが、その部分に彼は引っかかりを覚えなかったようだ。俄かには信じ難いだろうが、この世界より遥かに進んだ科学力を以て、「マナが全く存在しない」という想像もできない不便さを克服し続ける世界があるという。

「そんな、魔術や呪いを齎すアイテムなんてこの世界にならいくらでも――」

「ないんだよ、触れるだけで内臓が融解する呪いを齎すなんて代物は。それも女性や子供だけに効果が表れるなんて。……まぁ、オーガにも影響を与えるというのは意外だったけれど」

「確かにスイシーとベラに影響があったのは確かです。でもそれが本当に箱の効果なのかどうかは……」

「確認しようにも、みんな消し炭になってしまったからねぇ」

「……まるで箱を知っていたかのような口ぶりですが。もしかして、あなたも箱が過去に起こした事件を御存じなんですか」

 私は彼の目の前で指を二本立てて見せる。

「『箱』が我々の前に現れたのはこれまでに2度。最初は首都近郊の農村で解体中の納屋から村人が見つけ、次はプレアデス市の豪商が交易品の中に紛れていたのを見つけた。ヒュー君が聞いたという話は後者のことだろうね」

「見つけた人達は、どうなったんですか」

「村人の方は寄木細工の玩具か何かだと思ったんだろう、娘に与えてしまったそうだ。その末路はまだ教えないでおくよ、気持ちのいいものではない」

 娘はベラ達のように下血し、憔悴した父親は周囲に何があったかを言い残した後に娘の後を追った。救えなかった彼女の苦しみを自分に刻むかのように、身近にあったありとあらゆる毒物を摂取して、同じように全身から血を流して絶命したと聞いている。

「豪商の方は発覚が遅れてしまってね。交易品には禁制の品々が混じっていたそうで、話が外に漏れることを防ぐために最初は内々に処理したかったようだ。諦めて助けを求めた時にはもう手遅れ。豪商の家族をはじめ使用人に至るまで、女性と子供は全滅していたよ。結局家業が立ち行かなくなり、抵当に入れられていた屋敷や財産は全て処分された。最後には貧民街で物乞いをしていたそうだが、今も生きているかは分からない」

「それで、箱の行方を探す仕事を俺に手伝えって?」

「いいや、困った事に問題は箱だけじゃないんだよ」

「……そんな危ないアイテムが、他にもあるってことですか」

「その通り。決して多くはないが……異物、それもとびっきりに危険なシロモノがこの国に現れては酸鼻極まりない事件を起こしている。そこに人の意思が介在しているのか異世界そのものの意向なのかは分からないが、まるでこの世界に厄介事を押し付けるかのようにね」

「……分からない」

 彼は顔を伏せて首を横に振る。

「なぜだ、なんで俺なんだ。あなたが誰かは知らないが、首都プロンテラのお偉いさんなんだろう? 俺の手なんか借りなくたって、そんな危険な代物を探すくらい造作もないはずだ」

「あいにく私は事情により冷や飯を食わされている身でね。事件に首を突っ込むくらいは許されているけれど、気軽に人を顎で使えるほとでもないんだ。特に人手には飢えている」

「だからって、俺がいたところで――」

「理由ならあるよ。君がムカつくんだ」

 何を言われたのか一瞬理解できなかったのだろう。彼はしばらく固まった後に「は?」と疑問符を浮かべた。彼の顔が引き攣っている。私もあえてそういう言葉を選んだので、期待通りの反応だった。

「自分が一番不幸ですみたいなツラを見るとね、無性にイライラしてくるんだ。丁度さっきの君みたいな顔」

「……アンタに何が分かるってんだよ!」

 彼は身を乗り出し、私の胸倉を掴む。包帯がはだけて痛々しい傷が露わになった。先ほどの火災による火傷だけではない、刀傷、打撲痕、熱した鉄を押し付けたかのような傷、傷、傷……。彼が加護なしとして差別を受けた過去を象徴するかのようだった。

「分からないよ、君とは初対面だし。エールでも飲み交わしながら初恋の人とか教え合おうか?」

「誰がッ!」

「そういう当たり前のバカ騒ぎもできずに死んでいった人たちが大勢いるってことだよ。それでも君は『自分には関係ない』と言い続けるのか? 君がライト達のパーティを離れなかったのはなぜだ、他に生き方を知らないからか? だったら私が教えてあげてもいいよ、君の命にはもっとマシな使い方があるということを」

「勝手な解釈をするな、俺は……!」

「『俺は』、何だって? 教えてくれよ、君が何をしたいのか」

 今にも殴りかかってきそうな勢いの彼だったが、私の胸倉を掴んでいた指先から次第に力が抜ける。治癒術が不完全だったのか、体の火傷を覆っていた包帯に血や膿が滲んでいた。

「君がろくでもない人生を歩んできたことはまぁ、何となく分かるよ。ライト君のパーティに入ってからも酷い扱いを受けてきたんだろう。それでも君が人生を手放さなかったのはなぜだ? 自分の人生には意味があると、生まれてきた価値があったと言えるだけの何かが欲しいからじゃないのか?」

「……何なんだアンタは、どうしてそう言い切ることができる」

「私がそうだからだよ」

 彼の目が大きく見開かれた。まぁ、意外に思うよな。私だって意外だよ。

「この異物たちの存在を知った時、だと思った。天命なんてものがあるとすれば、こいつらを理解して少しでも人死にを減らすのが私に与えられたのがそうなんだって。別に世のため人のためなんてカッコつけたい訳じゃないけれどね、でもそう思ってしまった。目をそらすことができない、自分を騙すことはできない。 だから、もう止められないんだよ」

「俺は、何もそこまで……」

「……別に無理にとは言わないさ」

 私は立ち上がり、憔悴している彼の手に走り書きした紙片を押し付ける。

「もし君にその気があるのなら、私の部屋を訪ねてくれ。協力をしてくれなくても、まぁ……衣食住の世話くらいはさせてもらうよ。スラム街に戻るよりマシな生き方もね」

「待て、どこへ行くんだ」

「仕事だよ。さっき言った通り魔術学院への工作の他に、やらなきゃいけないことが沢山ある。あの箱への注意喚起とか」

「……注意喚起? あれは燃えたはずじゃ」

「誰かがアレの灰になるとこを見た訳じゃないだろう。そもそもアレは燃えるのか? 物理的な干渉を受けるのか? だとしたらオーガ達はなぜあんな怪しい箱を後生大事に持っていたんだ? 例え神性の炎に晒されたとして、私にはあの箱が燃え残ったガレキの中に埋もれているとしか思えないんだ。次に見つけるのはガレキの撤去に当たったこの街の人かもしれないし、あるいは大人の目を盗んで火災現場に忍び込んだ子供達かもしれない」

「それを、知らせようと?」

「馬鹿正直に異物がどうのと言うつもりはないけれどね」

 これからやらなければならない仕事の量を想像し、いささか肩を竦める。……いや、嘘だ。いささかどころではない。胃が重くなるし自棄酒を呷りたくなる。

「オーガの住処から持ち出された毒物が行方不明だとか、適当に説明するつもりさ。人の集まりそうな場所に広報紙を貼って回ったり、子供たちに駄賃を撒いて話を広めてもらったり……あぁ、一人でやらなきゃならないと思うと気が滅入るよ。誰か手伝ってくれればいいんだけれど」

 幕舎を出ようとする私の背中に、彼が声を掛ける。

「自分には無関係だって、思うことはないのか。自分の知らないところで誰がどんな目に遭おうと、あんたには関係ないだろう。どうして」

「なぜって?」

 幌に手をかけたまま、私は振り返った。

「人に親切にするのは当たり前だろう? 確か――」

 警吏から聞いていた彼の名前を、私は初めて口にした。

「サメジマ君、だっけ。君もそう思わないかい?」



 それから一年以上が経過した今もなお、幸か不幸か箱は見つかっていない。女性や子供が全身から血を流して死んだという事件の話も聞いていない。あの後、シュネルと一緒にアルバータの町中を駆け回り、頭を下げ、子供の輪に割って入った十日ほどの日々は無駄ではなかったと、そう思いたい。

「思うんですけれど」

「何をだい?」

 昼下がりのシュネルの部屋。教本テキストに取り組むシルヴィに目を遣りながらシュネルは顔を上げた。私塾での一件以来、シルヴィを始め何人かの子供だちはすっかりこの部屋に通うようになっていた。

「つくづく最悪でしたね、あなたの第一印象」

 がたん、と音を立ててシュネルは椅子からずり落ちる。

「いや本当に何なんだよいきなり、失礼だろう君は!?」

「初対面の人間に『お前がムカつく』とか評する人にだけは言われたくありませんよ。思い出したら不愉快になってきた」

「はぁ~〜〜? それがちゃんと面倒を見てあげた人間への態度かい? それとも何か、火傷のままスラム街に放り出された方がよかったとでも?」

「恩着せがましく言ってますが、俺が軍の任期を務め上げる前に警吏へ引っ張り込んだのは誰ですか。言っておきますけれど、急に辞める羽目になって上官からめちゃくちゃ文句言われたんですからね。口利きって言っても入るまでで出る時は何も手助けしてくれなかったでしょう」

「仕方ないだろう、とにかく人手が足りないんだから――」

「あ、あのッ!」

 つまらない言い合いに熱が入り始めた俺達を見かねてか、シルヴィが声を上げる。

「勉強中なんです、お静かに願えますか⁉」

「はい、すみません……」

「私の部屋なのに……」

「大人げないこと言わないで下さい」

 揃って頭を下げ、椅子に座り直す。その様子に満足して、シルヴィは再び教本に取り組み始めた。ふぅ、と隣でシュネルがため息を零す。

「……そうだ、サメジマ君」

「なんです?」

「冬支度は持ってるかい? 防寒着とか」

 軍を辞める時に、同僚からもらった餞別の中にそんなものがあった気がする。せっかくもらったのに収納庫の肥やしになっているが。

「確か持っていたと思いますが、それが何か?」

 また厄介事を言い出すのかと身構えたが、返ってきたのは意外な答えだった。

「今度旅行にでも行こうかなと思ってね。君もどうだい?」

 まさかシュネルがそんな提案をするとは。「そんな暇があるのか」という思い以上に、「旅を楽しむような感性があるのか」という疑念が浮かぶ。シルヴィは教本に目を向けていたが、手を止めている。あからさまにこちらへと聞き耳を立てていた。

「ちなみに、どこへです?」

「寒い国だよ。雪がドカドカ積もる、作物もろくに取れない陰気な土地だ」

「……疑問なんですが、旅行に誘われているんですよね。もうちょっとマシな言い方ができませんか?」

「なんでさ。住んでる人間も陰気だよ?」

「いやだから、言い方」


 そんな下らないやり取りをした数カ月後。彼女の言う通り、冬の頃に俺たちはとある寒村へと向かった。

 そして、その旅路の果てに。俺達は離別することとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る