第16話 私塾の夜⑥
ごりごりと床を削るような足音の反対側から、ごとん、ずるりという二種類の音が近付いて来る。二種類の足音はそれぞれ別のものによるのかとも思ったが、こちらへ近付く速度は一定だった。靴を片方履き忘れたかのように、何らかの理由で左右の足音が異なるのだろう。
二宮金次郎と、新たな何か。その二体分の足音が同時に廊下の両側から近付いて来る。おそらく二体がカチ合うとすれば、俺たちが隠れている教室の真正面だろう。頭上にはゆっくりと近付く二つの何かが、光を遮って足元に影を落としている。このまま身を屈めていさえすれば、廊下から俺たちの姿は見えないはずだ。
あと三歩、二歩、一歩――。二つの影は交差した後、ゆっくりと遠ざかっていく。
(気付かれていなかったか……?)
ほっと胸を撫で下ろす。少し涙目になっているシルヴィも口を押えたまま、こくこくと頷いていた。危機を脱したことは伝わったらしい。後は二つの足音が完全に聞こえなくなるまで、ここに身を潜めていれば――
がらり、あっけなく教室の扉が開き、その音に俺たちの体が同時に跳ね上がった。完全に硬直し、開いた扉に視線が釘付けとなる。開いた扉からゆっくり、舐めるように何かの影が教室へと入り込んできた。ひ、とシルヴィが引き攣ったような悲鳴を漏らす。悲鳴で済んだのなら大したものだった、初見なら大の大人でも腰を抜かしかねない。
現れたのは何の変哲もない男の顔だった。右半身は凡庸な男を象った樹脂製で、生気のない目が俺たちを見ている。問題は左半身だ。皮膚が剥がされて筋繊維や血管が露わとなり、目蓋を失った虚ろな瞳がこちらへ向けられている。続いて入ってきたそれの体も、おおよそ顔と同じだった。曝け出した肋骨が、内臓が、わずかな光を反射してヌメヌメと光っている。
二宮金次郎の像に続き、今度は動く人体模型。「学校の怪談」におけるメジャータイトルが揃って姿を現していた。
人体模型が机を跳ねのけ、教室にけたたましい音が響く。悲鳴を上げたシルヴィに異形の人型が接近する。
「危険です、逃げて!」
彼女の腕を掴み、背後へ投げるように下がらせる。手荒なことはしたくないが今はそうも言っていられない。
眼前の人体模型が両腕を跳ね上げた。右手は樹脂の塊らしく肩関節を回転させるくらいしかできないようだが、左手は生身である。体液にまみれた掌が俺の首を絞めようと迫ったが、辛うじて受け止めた。だが両手で支えても筋繊維剝き出しの左手一本を受け止めるのがせいぜいだ、俺とほとんど変わらない太さの腕のどこからこれほどの力が出ているのか。
「さ、サメジマ様!」
背後でシルヴィが再び悲鳴を上げ、直後ガラスが割れる音が響く。人体模型を押さえながらなんとか振り向くと、今度は窓から二宮金次郎の像が侵入するところだった。髷を結った特徴的な髪形の下で、目を模した丸い穴が俺達を射抜いている。石像のはずなのにどういう理屈か、ぎこちなくはあるものの人体模型よりもなめらかに動いて窓枠を乗り越えた。
何をするつもで現れたのかは知らないが、この状況で助けてくれるなどという楽天的な考えは持てない。しかし気を抜けば人体模型の手が首に食い込む――逡巡する俺を、人体模型の瞳が捉えた。樹脂の瞳と、生身の眼球。それを睨み返した時、ある賭けを思いつく。勝ち目は薄いが、やるしかない。
力を込めていた両手を急に緩めると、ずるりと人体模型の左手がこちらへ迫った。しかし人体模型はこちらの咄嗟の動きに対応できず、左手は勢い余って背後の壁にぶつかった。その隙に俺は自由になった両手で人体模型の頭部を掴んだ。体液で濡れた左側頭部が滑らないよう、力を入れて掴む。樹脂の冷たさと生身の温さが同時に伝わって来た。
そして人体模型が動くより先に、両手の親指を眼球に突き入れた。
(あぁ、クソ。
どうでもいいことを後悔する俺の前で、人体模型がもがく。お構いなしに力をこめ、ばきり、と樹脂の瞳を貫く感触と、生身の眼球にずぶりと沈む感触がした。声のない絶叫を上げ人体模型がのけぞる。こちらを捉えようと両手を闇雲に振り回している隙に、その背後へと回り込んだ。
「シルヴィ様、避けて下さい!」
彼女が動けることを願い、人体模型を蹴り飛ばす。たたらを踏んだ異形がシルヴィへ迫っていた二宮金次郎へと激突した。二体はもつれ、重い音を立てながら床へ倒れ込む。
「今のうちです、早く!」
へたり込んでいるシルヴィの腕を掴み、無理矢理引きずるような勢いで教室を飛び出す。このまま逃げたかったが、玄関から覗く校庭には相変わらず墓地が浮かんでいた。他の教室もすぐに奴等が追って来るだろう。とすれば、残りは2階しかない。
ありがたいことに踊り場には、使われていない机や椅子が積んであった。シルヴィを先に2階へと行かせ、階下を目掛けてそれらをありったけ蹴り落とす。埃を上げて1階に積み上がりった机や椅子の山、これなら多少は時間が稼げる――と思いたかった。
「サメジマ様、これで逃げ切れたんですか……⁉」
肩で息をしながら、シルヴィが荒い息の間で言う。
「当座凌ぎにはなるでしょうが、根本的な問題は解決していません。この学校にいる怪異があの二体だけとは思えませんので」
「そうなのですか⁉」
「たいてい、こういう場所の怪談は七つなのです」
「七つ……?」
首を傾げる彼女だったが、無理もない。これが定番なのは異世界の話だ。
「『学校の七不思議』といいまして、墓地の浮かぶ校庭、動く人体模型や二宮金次郎の像。他には――」
他には。続けようとした俺の耳元に、微かな音が届く。音のした方向をゆっくりと振り向くと、見えたのは教室に掲げられた木札。
そこには「音楽室」の三文字が記されていた。
●
「でも、でもですよ」
ナイフと塵紙が落下してきた頭上を睨み付けるシュネルに、シルヴィはすがるような勢いで話しかける。
「あなたほどの人が部下に選ばれるほどです。サメジマ様もきっとお強いんでしょう? 一人で怪異に囚われたとて、そう簡単には――」
「いや、彼は大して強くはないよ。剣も体術もそれなりだが、あくまでそれなり止まりだ。兵士としては優秀かもしれないが、冒険者や戦士としては致命的な欠点がある」
「欠点……?」
「彼はマナを操ることができない。スキルを発動することもできないし、魔術も教会のいう奇蹟も起こせないんだよ」
まさか、と言うかのようにシルヴィが大口を開けて固まる。それは彼の体質を指しての驚きか、そういう人間を手元に置いている私への驚きか。
まるで神様が祝福を与え忘れたような不具。この世界ではそれを
「そんな、サメジマ様も
「サメジマ君、も?」
「……いえ、何でもありません」
シルヴィの言葉に引っかかったが、今はそれどころではない。とりあえず捨て置く。
「とにかく彼が危険だ。
「私やシュネル様ではなく、サメジマ様だったことに理由が……?」
「差し当って一番怪しいのは――アレだろうか」
「アレ、とは?」
疑問符を浮かべているシルヴィを置き去りにして、私は再び小部屋へ戻る。怪しげな物品が所狭しと並んでいる部屋だ、目を瞑って適当に指差しただけでも「これが原因だ」という説得力に溢れた物に当たる。その中でも、一際異彩を放っているものがあった。
「どうなさるおつもりですか?」
ガラスの箱の前に佇む私を見て、シルヴィが不安そうな声を出した。
「そうだね、差し当たっては……燃やしてみようか」
藁の人型、錆びた釘、そして男の絵。並んだ三点を見て、私はそう断言した。
●
俺たちが気付いた後も、音は音楽室から鳴り響いている。無言でシルヴィに「待て」と合図し、ゆっくりと近付いた。音楽室の扉にはガラスがはめ込まれており、暗いながらも中の様子を窺うことができた。目を凝らすと、がらんと広い部屋の中に一台のピアノが見える。音はそこから届けられていた。
流れている音楽は俺でも分かる。タイトルはベートーヴェンの「月光」。確かそちらは通称で本当のタイトルがあったはずだが、長ったらしいので憶えていない。物悲しいメロディを、無人のピアノが奏でていた。
「……何ですか、あれ」
いつの間にか隣にいたシルヴィが尋ねる。
「あぁ、あれはピアノといって……いや、ピアノはあるんでしたっけ」
「楽器のほうではなくて、その上です」
言われるがままに視線を向けて、ようやく気付いた。壁に貼られた何枚もの肖像画、そこに描かれた人物たちが動いている。モーツァルト、バッハ、シューベルト、そして今奏でられている「月光」の作曲者であるヴェートーベンまでもが。
「……作曲者本人の前で演奏するってのは、どんな気分だろうな」
「なんです?」
ヤケクソになって怪異に同情した俺を、シルヴィが不思議そうに見上げる。
「何でもない、行きましょう。この部屋の怪異は演奏の邪魔さえしなければ手を出してこないのかもしれません」
彼女の手を引き、そっと扉を離れた。
(しかし……)
――ひとりでに鳴り出す古いピアノ
――夜に動き出す作曲家の肖像
(一気に二つ増えたな……)
この学校で体験した怪談は、これで五つ。
――七不思議を全て知った者には、災いが降りかかる。
かつて聞いた噂話を思い返し、俺はわずかに身震いした。
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