第5話

 七つまで、リリアーデは両親と共にグレンデスで暮らしていた。

 平時であれば継承順位など回ってこなかったはずの五男だった父が、グレンデス侯爵家の臣下になり騎士として働いていたからだ。異民族の母との結婚は当時のバルリオス辺境伯家には受け入れられなかったため、バルリオスの血族とリリアーデは顔を合わせたことがない。

 一介の騎士の娘だと思っていたのに、ある日突然バルリオス城へ居を移すこととなり、令嬢としての礼儀作法や後継者の教育を受けた。


 そうして気付けば、己が仕える主だったはずの侯爵家の次男が婚約者となり、更には立場が逆転していた。


 無我夢中で過ごした四年。

 父の親友であるグレンデス侯爵には、多くの手助けをしてもらった。侯爵夫人にも親切にしてもらったし、イヴァンの兄である小侯爵もリリアーデを妹のようにかわいがってくれている。

 婚約者のイヴァンはずっと、心の支えだった。

 バルリオスの人々も、よく仕えてくれている。


 柔らかな陽の光を肌に感じて、目を開ける。


 ベッドの上で体を起こして、凝り固まった体を解す。


「何日、眠っていた?」


 そばに控えていた侍女の一人に問えば、十日という答えが返ってきた。


「十日も? そんなに眠っていたのか」

「はい。イヴァン様と過ごされている途中で倒れられて、そのまま」

「それは……心配を掛けたなぁ」


 涙ぐんだ侍女や護衛の騎士たちの顔を順に見て、リリアーデは努めて明るく笑う。


「どうりで、腹が減っているわけだ」


 静まり返っていた領主の寝室が、活気を取り戻す。

 医者を呼びに走る者。厨房へ向かう者。各所へ主の目覚めを報せに走る者。

 長い眠りの後リリアーデは必ず空腹を訴えるため、寝室にはいつでも食べられるように果物が用意されていた。温かな食事が届けられるのを待てないほどの空腹を感じたリリアーデは、果物を手に取る。そのままかじり付こうとしたのだが、すぐに侍女に奪われてしまった。

 グラスを手渡され中に入った水を一息で飲み干したが、それでは空っぽの胃は満たされない。

 ベッドから出て着替えようとしたが、うろうろせずに医者を待つよう涙を浮かべて言われてしまえば、従うしかなかった。

 果物が切り分けられるのを待つ間に医者が来て、ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろす。医者の動きを視界の端で捉えつつリリアーデは、きれいに皮が剥かれた果物の欠片を口に運んだ。


「領主様」


 年若い医師からの物言いたげな視線を受け止めると同時、寝室のドアが何者かの手によって勢い良く開かれた。

 そんな行動が許されるのは、ただ一人。


「――リリィ!」


 彼女をそう呼ぶのも今はもう、その人だけになってしまった。


「イヴァン、速いな」


 麗しの婚約者の少年は、汗みずくでホコリにまみれていた。訓練場で報せを受け、そのまま駆けつけたのだろうが、それにしても異様な速さだ。


「お前、ちゃんと廊下を通って来たか?」


 リリアーデが向けた疑いの眼差しを、イヴァンは無視する。


「これからは、リリアーデの睡眠時間は僕が管理します」


 リリアーデも、イヴァンの言うことを無視してやることにした。


「私もお前のようにひょいひょい壁や塀を越えられるような運動神経があれば、見える景色が違っていたんだろうな」


 侍女がイヴァンへと差し出した清潔な布を横から奪い、上気した肌を流れる汗を拭ってやる。


「今夜から僕もここで寝ますから。リリィの夜ふかしは、僕の睡眠時間を削ることになります」

「ほら、ちゃんと汗を拭け」

「僕の成長を阻害するのは嫌でしょう?」

「風邪をひくぞ」

「…………僕は、リリィと違って頑丈です」


 先に折れたのは、イヴァンのほうだった。


「失礼な。私だって頑丈だ」


 頭から布を被せて汗で濡れた髪をガシガシと拭いてやっている途中、ぽたりと、汗とは違う水滴が床へと落ちる。


「頑丈な人は大量に鼻から血を出したり、十日も眠り続けたりしませんっ」


 布越しに、イヴァンの体が震えているのを感じた。多大な心配を掛けた自覚はあるから、リリアーデはそのまま少年の頭を抱き寄せて、素直に謝罪を口にする。


「離してください。僕、今、汚いですから」

「私だって、十日も風呂に入っていない。……臭うか?」

「いいえ。リリィはいつもいい香りです」

「ふむ。それはやはり、私とお前の相性が良いからだろうな」

「またその話ですか?」


 微かに聞こえた笑い声。

 布が作った影から柔らかな光を宿した緑の瞳が覗いて、リリアーデを映した。


「眠っている間に過ぎてしまったが……誕生日おめでとう、イヴァン」


 彼は十四になった。


「盛大に祝う予定だったのになぁ。ケーキは食べたか?」


 それはいよいよ、時間が迫っていることを示す。


「リリアーデが眠り続けているのに、そんな物食べられるはずがありません」

「ご馳走もか?」

「グレンデスからの手紙とプレゼントは受け取りましたが、それだけです」


 勇者として旅立つ日が近付いている。


「それはいけない! 私もプレゼントを用意していたんだ。当然、ケーキも共に食べなければ」


 そこで、リリアーデの腹が盛大な音を響かせた。


「ヘルゲ」


 イヴァンが呼んだのは、そばに控えていた医師の名だ。


「十日も眠っていたんです。すぐに固形物を食べてもいいかを含め、よく診てもらってください」


 イヴァンが場所を開けると、ヘルゲと呼ばれた医師が診察を再開する。

 物言いたげな視線が再び向けられて、リリアーデは困ったように笑った。


「言いたいことはわかっているから、そう睨むな」

「領主様」

「うん」

「御身の健康をお守りするのが、私の役目です」


 ヘルゲの家は代々、バルリオス辺境伯家に仕えている医者の家系。祖父から仕事を引き継いで、今はヘルゲがリリアーデの専属だ。

 ヘルゲの父親は、騎士団を診てくれている。父も、母も世話になった。

 

「鼻血と、数日間に渡って眠り続ける症状を解明するために、様々な文献に目を通しました。……今は、古い呪術に関連する本を」


 ヘルゲの青い瞳は、リリアーデの反応を伺っている。


「領主様」


 どこか緊張した、絞り出すような声だった。


「私は、あなたが、心配です」

「……うん。すまないが、今読んでいるという本を私にも貸してくれないか?」

「承知しました」


 温かな食事を腹に収め、風呂にも入ったその後で、リリアーデは執務室にイヴァンとヘルゲを含んだ家臣複数人を呼び出した。

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