第1話
顔の中央に集まる重たい熱を察知して、片手で鼻を覆う。どろりと滴る体温を手のひらで受け止めつつ、ハンカチを探して空いている手をさまよわせた。
机の上の書類を汚さないようにと身を引いた少女へ差し出された複数の手。性別も年齢も様々なその手にはそれぞれ、肌触りの良さそうなハンカチがある。
「領主様、そろそろ休憩を」
「ご無理をなさらないでください」
「昨晩もまた、遅くまで起きていらっしゃったようですね」
少女を囲む大人たちから発せられる声はどれも、彼女を心配してのものだった。
「すまない」
鼻が塞がっているせいでくぐもった声を出した少女は、一番手近にあったハンカチを手に取り鼻へと押し当てる。
真っ赤に染まった手は、素早く用意された水桶できれいに洗われた。
「多少の無理がなければ、私のような小娘が領民の生活を守ることなどできないだろう? 魔族との戦闘も、騎士団に丸投げは良くない。辺境伯である私が責任を負うべきことだ」
彼女のこの口調は、亡き父――前バルリオス辺境伯を真似たものだと誰もが察していた。少女らしさを捨ててでも父の面影を追わなければ立っていられなかったのだろうと理解できるために、誰も彼女を咎めることはしない。
年頃の少女であるにもかかわらず、身につけるのはシンプルなシャツとトラウザーズ。母親ゆずりの豊かな黒髪はきれいに梳られてはいるものの、紐で簡単に結われている。
全体的に色素が薄い大人たちの中、唯一濃い色を持つ彼女は一見して異民族の血が流れているとわかるのだが、瞳がバルリオスの血族のみに現れる金色をしているために、血統を疑う者はいなかった。
現バルリオス辺境伯リリアーデ。
齢十五の彼女が、唯一の肉親だった父親を失うと同時に辺境伯となったのは四年前。十一の子どもが爵位を継ぐ事態となったのは、彼女以外にバルリオスの血族に生き残りがいなかったからだ。
長く続く魔族との戦闘は、異民族と結婚して勘当同然だった五男に爵位が回ってくるほどに、過酷なものだった。
「こんなことを言いたくはないですが、リリアーデ様を失えば、バルリオスはおしまいです」
辺境伯家に代々仕えてくれている白髪交じりの家臣からの言葉。リリアーデは淡く微笑み、理解を示す。
「健康上の問題はないと、医者も言っていただろう。頻繁に出る鼻血は頭を酷使しているせいだよ。近頃は頻度も減ってきた」
赤く染まったハンカチを顔から離し、血が止まったことを確認した。
「母上は体が弱かったが、私は父に似て頑丈だよ」
顔を洗って清潔な布で水気を拭い、からりと、少女は笑う。
「毎度心配を掛けて悪いがな、鼻血の頻度を減らすには寝る間を惜しんで勉強せねばならん。睡眠不足で鼻血が出ているわけじゃないんだ。私に足りていないのは睡眠ではなく、知識と経験だ」
「領主様のご年齢で、ここまで立派に統治できる方はおりません。たとえ大人であっても難しいことでしょう」
補佐官からの反論に微笑みで返し、リリアーデは再び席に就いた。
「お前たちの信頼と献身に、感謝する」
これまでリリアーデの判断に間違いは一つもなかったことは、この場の誰もが知っている事実。今のバルリオスには年若い領主に頼る以外の選択肢はなく、それが最善の結果をもたらしていることからも、一人の少女の献身と犠牲に罪悪感を抱きつつ、現状を維持することしか出来ないでいた。
※
魔族の侵攻を食い止めつつ領地を立派に治めている年若い辺境伯だが、彼女には誰にも相談できない悩みがあった。
それには、婚約者が関係している。
「リリィ! 今日も鼻血を出したそうですね」
二つ下の少年、イヴァン・グレンデス。
バルリオスと隣接したグレンデス侯爵家の次男は、少女と見紛うほどに美しい顔立ちをしていた。透き通るような金糸の髪に、輝く緑の瞳、そばかすのない白い肌。彼との婚約は友人たちに羨ましがられたが、リリアーデの好みは、もっと上背があって筋骨隆々な岩のように強い男なのだ。
「いつものことだ。血相を変えて飛んで来るほどのことじゃない」
悩みというのは、婚約者の見た目が好みではないことではなく。
「毎日頻繁に鼻血を出していることが問題なのだと、何度言えば理解してくれるんですか!」
婚約者になると同時、騎士団での修練のためバルリオスで過ごすようになった彼が、気付けば異様な過保護さを発揮してくるようになったことでもなく。
「私は至って健康だよ、イヴァン」
寒気など感じていないというのに抱き締めてきて、かいがいしく背中を擦ってくれる婚約者の腕の中、力を抜いて身を任せつつも、小さなため息を漏らす。
幼い婚約者たちに気を利かせたのか、執務室にいた大人たちがそっと部屋を出ていくのを、リリアーデは目の端で捉えた。
「お前こそ、何か悩みがあるんじゃないか?」
何度目かになる問いをそっと吐き出したが、返ってくるのは変わらぬ答え。
「僕の悩みは、努力と時間が解決するはずですから」
「別に岩のような男にならなくても、私の伴侶はお前だ」
「そうですが、僕だって、リリィからうっとりと見つめられたいのです!」
まだリリアーデよりも背の低い、年下の婚約者。
執務用の椅子に座ったままで、彼の顔を見つめて、手を伸ばす。
かわいい弟のような少年の頭を撫でてやりながら、リリアーデは途方に暮れてしまう。
彼と対面すると、脳裏に浮かぶ光景。
大人になったイヴァンが世界を滅ぼす姿が、リリアーデには視えるのだ。
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