小話4 辺境伯と勇者

 彼女が存外わかりやすい人だと気付いたのは、結婚して、しばらく経ってからだった。


 リリアーデ本人は、恋愛はよくわからないと公言している。事実、彼女は男女の色恋や性に疎い。

 だが、たちが悪いことに、中途半端に知識だけはある。だから愛人なんて発想が出てくるし、無駄に度胸もあるのだ。


 リリアーデは、あからさまな特別扱いはしない。

 恋に溺れた若い娘にありがちな、落ち着かない言動なども見受けられない。

 四六時中夫のことしか考えられないなんてこともないし、ひと目もはばからずいちゃつくなんて考えは存在しない。


 だけどリリアーデは、イヴァンのこと以外では、泣かないのだ。


 母を失ったとき、彼女は泣かず、悲しげに微笑んだ。病の苦しみから解放されたことはよかったのだと口にして、泣き崩れる父親に寄り添った。


 父を失ったとき、気を失いはしたが、泣くことはなかった。焦点の合わない暗い瞳のまま、正解のみを選んで突き進んでいた。


 怖い夢を見たと言って、はらはらと涙をこぼしながら寝室から出てきたリリアーデの姿を見て、護衛たちはほっとしたぐらいだ。

 彼女が泣けたことに安堵して、頼ろうとしたのが婚約者の少年だったことに微笑ましさすら感じた。


 爵位を継いで以降、リリアーデは大人の中で生きてきた。


 年の近いメイドや侍女と気安く世間話はするし、友人たちとの手紙のやりとりもあった。それでも、彼女には年相応の時間はほとんどなかったのだ。


 イヴァンが役目を終えて戻ったとき、ひと目もはばからず声を上げて泣いたリリアーデを目にしたバルリオスの人々は、声を殺して、共に涙を流した。

 五年間――いや、それよりも前から、リリアーデは平然と過ごしていたから。この時も、常と変わらず出迎えるものと誰もが考えていた。恐らく本人も、そうだったのだろう。

 だからこそ、ちょっとした演出で、気を使った侍女たちがドレスアップさせたぐらいだ。


 あの日からリリアーデは、頻繁に涙をこぼした。

 うれしいからだと、幸せだと、そう言いながら泣いた。


 イヴァンが戻って以降、さらに言えば、結婚してからのリリアーデは、まるで重い荷を下ろしたかのように肩の力が抜けていた。


「リリィ」


 呼ばれると、うれしそうに、パッと表情が明るくなる。


「イヴァン!」


 応える声は、軽やかに弾む。


「俺もちょうど食堂へ行くところでした」


 昔は、彼が来るまで、その場に留まって待っていた。

 今は自分から、イヴァンのもとまで駆けていく。


「どうだ? 上手くやれているか?」


 夫の腕へと己の腕を絡める動作が、自然になった。


「五年も不在にして、いきなり団長は気が引けますが……皆が支えてくれて、何とかといった感じでしょうか」

「そうか。やはり、就任初日の試合が効いたのだろう」

「あれは少し、バルリオスの騎士たちの実力に不安を覚えましたが」

「お前が規格外なだけだよ。あまり厳しいことを言ってやるな」

「そうですね。リリアーデを守りきってくれた皆には、感謝しています」

「言っただろう? 皆で頑張ったんだ」


 明るく告げたリリアーデを見下ろして、足を止めたイヴァンが身を屈める。

 空いたほうの手がリリアーデの頬に触れて、おもむろに唇を重ねた。


「おまっ、な、何だよ、突然……!」


 白い肌を真っ赤に染めたリリアーデの金の瞳が、涙で濡れている。


「リリィがあまりにもかわいくて、キスをしたくなりました」

「普通に話してただけじゃないか」

「誇らしげなあなたが、かわいくて」

「何だよ、それ……」


 リリアーデは決して、イヴァンを拒まない。


「嫌でしたか?」

「……んなわけないって、知ってるだろ」

「ええ。でも、言ってほしくて」


 金の瞳を覆うようにせり上がる涙の理由は、今や誰もが、知っている。


「嫌じゃない。けど……二人きりのときがいい」

「はい。喜んで」


 心底幸せそうにイヴァンが笑うと、リリアーデは、涙をこぼす。


 幸せだと、彼女は泣くのだ。

 反対に、つらいときほど、笑う。


 天邪鬼なわけではなく、立場と境遇が、彼女をそこへと追い詰めた。そのことを周囲の人間が理解できたのは、つい最近のこと。


「たくさん泣いて、いいですよ。リリィ」


 懐から取り出したイヴァンのハンカチが、そっと涙を吸い取る。


「なんだか、幸せだなぁ」


 リリアーデがしみじみと呟いて、周囲の人間が、思わず涙を堪えた。


 何かを思いついたように顔を上げて、唐突に、リリアーデが背伸びをする。それに気付いたイヴァンが耳を彼女のほうへと傾けた。


「……大好きだぞ、イヴァン」


 どうしても伝えたくなったのだろう言葉。

 恥ずかしさからか小さな声ではあったが、必死に耳をそばだてていた側近たちの耳は、それを何とか拾うことができた。


「俺も。愛してますよ」


 指を絡め手を繋いだリリアーデとイヴァンは、並んで歩いて、進んでいく。


「お腹が空きましたね」

「そうだな! 今日の昼食は何だろうか」


 待ち望んだ吉報がバルリオスを沸かせるのは、もうすぐ、そこの未来――。

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