第9話 夏に現れるヤツ 02
「いやぁ〜、悪い。まさかうちにいる奴ら全員脱走するなんて思わなかった」
顔の真ん前で突き出すように、手を合わせているのは厳見春介だった。
「ごめんで済んだらゴキブリは隠れないんだよ」
「なにその『ごめんで済んだら警察はいらないんだよ』の亜種」
ものすごく威圧的な態度で向かったオレだったが、厳見はもちろん意に返すことはない。
そういう男であることはすでに知っている。
「あれは事故だったんだよ」
平謝りする厳見。
「里霧さんコイツどうします?」
「一面ゴキブリの刑」
容赦ない里霧の言葉は、厳見の表情を引き攣らせることに成功した。
やはり異性には弱い。それは厳見がモテたいという大層に、大々的に掲げた旗のせいでもあるだろう。
幅広い人脈を持つい厳見だからこそ、女子の噂だとか、情報網を恐れているんだと思う。里霧の交友関係がどの程度かなんて、オレはもちろん知りはしないけれど。
「まさか生徒会に新しく入ったのが里霧とはね、意外も意外だ」
言葉とは裏腹に何か見透かしたような、知っていたというふうな厳見の態度に、里霧は困惑した。
「…………」
ばつが悪そうな里霧は視線をぷいとどこかへやる。
厳見は声色を普段通りに戻す。
「まあ、それはそれとして、頼む!」
もう一度、厳見は胸の前に両手を合わせて頭を下げた。テキパキ、というよりかは一、ニ、三、四、と段階を踏んでやっている感じ。テキパキよりもカクカクがというの正しいだろう。
ロボットかよ。
「何を?」
このとき、オレはがんを飛ばすヤンキーの如き眼光を放つ。
こっちとしては一生もんのトラウマを植え付けられているわけで、この対応は当然なわけだ。
「さっきここにゴキブリが来たと思うんだけど、一緒に脱走したゴキブリたちを捕まえるの手伝ってくれ、マジで頼む、この通り!」
意に返さないを擬人化したような男である厳見は、なんの躊躇いもなく、やらかしたことに対して、
一切の後ろめたさを持っていないと思わざるを得ないような、そんな陽気な声だった。
腰に手を当て、ため息を吐きながら里霧は言う。
「仕方ないわね」
おお、まさか里霧の方から申し出るとは……意外だ。
どちらにせよ、頼まれていたことだろうしな。厳見から事前に頼まれるか、被害が拡大してから頼まれるかの違いでしかない。それなら早いうちに解決するに限る。
「それよりも厳見と里霧、知り合いだったんだな」
まあ、当然と言えば当然なんだが。
「そりゃあ当然! 数人を除けば、学校の生徒全員と友達だよ俺は!」
鼻を鳴らしながら、したり顔を厳見。
友達――なんて言っている厳見ではあったが、当の友達であるところの里霧は小首を傾げている風でいた。里霧にとってみれば厳見は友達かどうか怪しいラインのようだった。
もしかすると、その友達じゃない数名の中に里霧が入っているのかもしれない。
「まあ、友達の多い俺の話はさて置き」
「持ってすらいなかったんだけどな……」
「とりあえずついてきてくれ」
言われるがまま、厳見の背中を追う道すがら、オレたちは凡その事情説明を受けた。今回大脱走を企てたゴキブリたちは餌用として爬虫類部が飼育していたもので、今日の放課後、一年生部員がトカゲに餌をあげようとしたところゴキブリが入っていた飼育ケースが倒れていることを発見。
ケースの中を確認したが、既にもぬけの殻だったようで、大量のゴキブリたちが解き放たれた後だったらしい。不運にも爬虫類部部長は家の用事があるとのことで、授業が終わるや否や帰宅。
他の部員は飼育担当日ではなかったため、事態を伝える前に下校してしまい、困った一年生部員は厳見に助けを求めた――というのが、G大脱走に至るまでの経緯だ。生徒会室を襲撃したゴキブリたちはどうやら爬虫類部のものらしい。
「そういうことなら、あなたが謝る道理がなくない?」
里霧の言う通り、これが事実なら厳見が謝るのはおかしい。
厳見は爬虫類部に入っているわけでもないし、飼育ケースに何かしたわけでもない。
赤の他人、謝る道理は一切ないのだ。
「まあ、ここまでならそうかもしれないけどな」
そう言っている厳見は少し言い淀むと、意を決したように声にする。
「ゴキブリが入ってたケース倒したの――俺なんだわ」
本人が気づいていたかどうかは分からないが、オレたち二人の空気感が変わっていたことは確かだった。この男をどうやって黒光りの海に葬るかを考えていたほどだ。
「今日の昼休み、爬虫類部に遊びに行ったんだけど、そのとき部室の鍵開いてるから誰かいるだろうと思って入ってみたものの、部員誰もいなくてさ。そのまま爬虫類を見て回って、昼休みはそれで帰ったんだ。放課後になってみれば、ゴキブリは脱走。そして大名行列を成したゴキブリたちに生徒会室室が襲われるという事態になってたって感じかな」
「要するに、不法侵入の末、不注意でケース倒してゴキブリ大脱走と?」
「人聞きが悪い言い方するな……まあその通りではあるんだけど」
けど――と付け加えて、厳見は歩みを止めることなく続けた。
「こうして謝罪の意も込めて探すのを手伝ってるんだし、許してくれよ」
「え? 自分でこの事態を引き起こしておいて?」
と、里霧。意外と辛辣である。
「…………」
これにはさすがの厳見も言葉が出ない。
「犯人は現場に戻るというのは本当らしいな」
「これは事件じゃなくて事故だからな! 俺は人も殺してないし、ゴキブリだって殺してない!」
「囚人は全員解き放ったけどな」
「…………」
そんなやりとりをしていると、爬虫類部の部室が見えてきた。厳見が扉を引き、中へ入る。
爬虫類部なのだから当然と言えば当然なのかもしれないが、部室一面に飼育ケージを置くための頑丈そうな棚が部室の壁を覆っている。そして、飼育ケージの中にはトカゲ、ヤモリ、ヘビといった爬虫類を代表する面々が見て取れた。ケージ内は土や石のオブジェクト、それぞれの必要なものが設置されていて、しっかりと管理がなされていることがよく分かる。
しかし、その反面、棚から乱雑に投げ出されたケースが目についた。ゴキブリが入れられていたケース。
「そういえば、一年生の部員とやらは今どこにいるんだ?」
部室に部員らしき人影の姿はなく、爬虫類部の部室には不撓導舟、里霧有耶、厳見春介の三人だけ。
「多分、校内を駆け回ってるんじゃないか? 何故だかわからないけど、ヤツら集団行動してるみたいだし、見つけてきたら、捕獲してくるだろ」
言いながら、厳見は掃除用具入れをガサガサと漁っている。どの学校でも見かけるスチールでできている掃除用具入れは爬虫類部部室にも置かれていて、その掃除用具入れから、厳見は虫取り網を取り出した。
何の変哲もない虫取り網。持ち手部分は緑色でプラスチックで、網の部分はどんなに小さな虫をも取り逃さないように、きめ細かい作りになっている。通り抜けられるとすれば、微生物くらいなものだろう。
「虫取り網と……これも」
掃除用具入れから取り出した虫取り網を投げるように手渡すと、もう一つ、小麦色をしたものを寄越してきた。
麦わら帽子である。
「オレたちはこれから何をしに行くんだ?」
「私の記憶が正しければ、ゴキブリを取りに行くと思うんだけど……」
悲壮感漂う麦わら帽子を持たされた二人とは対照的に、厳見はにこやかだった。
「カブトムシもゴキブリも大して変わらないだろ?」
「変わるわ! お前は小学生やったことあんのか!」
小学生男児の憧れと台所の恐怖をごっちゃにしてはいけない。
高校生になって虫取りなんて何年もやってはいないけれど、昆虫の中でカッコイイを代表するカブトムシ先輩に対する敬意をオレは忘れてはいない。夏に駆け出した森の中に黒く輝いていたあのボディをオレは生涯、忘れはしない。
しかし、今となっては黒く輝いているボディという単語を聞くと身がすくむ。
そして、麦わら帽子を被って、虫取り網を片手に、虫かごを添えて、校庭に向かう。
その姿はさながら、夏休みにおばあちゃんの家に帰省して虫取りに行く小学生のようだった。
間違いなく、そうだった。
「それで目星は付いてるの? ゴキブリが校庭に来るとは到底思えないけど」
里霧は眉を寄せると、その足を止めた。
「って、いつまでそんな格好してるのよ」
オレは振り返って聞き返す。
「その格好って?」
「その夏休みの小学生、もしくはどこかで見た海賊スタイルはいつまで続けるの?」
「しばらくは被ってないとな、手で持ってたら荷物になるし」
そう言う里霧は爬虫類部部室に置いてきたらしい。持ってきているものは、虫取り網と虫かご。
「そろそろかな」
遠くを覗くようにして、厳見は手をやる。
「そろそろって何が――――」
言いかけて、オレは黒の軍団を目撃した。
しかし、どこか違和感がある。オレたちが遭遇したのが室内だったからなのか、今、目にしている軍団は、さっきよりも数が増しているような気がする。片鱗しか見えていないその段階でオレはそう思った。
そして、そう思ったのはオレだけではなかったらしい。
「ちょっと待って、さっきよりも増えてない⁉」
その数に違和感を覚えていたのは里霧だ。声から動揺の色が滲み出ている。
「だよな⁉ さっきより多いよな⁉」
校舎と校庭を繋ぐ石畳の道が埋め尽くされるよどの数、量が迫っていた。この道が決して狭いというわけではない。むしろ、学校にある道の中では広い方に入る部類だ。それこそ、大型トラックが通れるくらいには広い道なのだ。それが、カサカサと蠢く生物で覆い尽くされている。
「撤退! 撤退!」
厳見が声を荒げ、駆け出す。黒く輝いたものたちに背を向けて駆け出す。
オレも里霧も同様に。
「こんな数いるんじゃ虫取り網も虫かごも意味ねぇじゃねぇか!」
一心不乱に革靴の底をすり減らすように走る。
特段、足が早いわけでもないオレだが、このときだけは良いタイムが出ているような気がする。追われる者より追う者の方が早いタイムが出ると言うが、時と場合によってはその逆もありえるのだとゴキブリに追われる最中、そう感じた。
正確に言うなら、追う追われるというのはオレたち側の理論でしかない。結局、ゴキブリたちにしてみれば、この行動はただの移動でしかないだろう。追われているなんて被害妄想も甚だしいだろう。
しかし、それが判っていようがそうでなかろうが自分の背後から勇猛果敢に、何をしても止まらないと錯覚させるほどの勢いを持ったモノが迫ってきているというのは形容し難い怖さがある。
荒い息遣いは肺を酷使している証拠――それに見合ったスピードを伴って、校舎の中へと駆けていく。
一瞬、後方を確認した里霧は嘆くように声を上げる。
「校舎の中に入っても追ってきてるんですけど⁉」
前言撤回、追われている。
間違いなく、一変の疑いようもなく、オレたちは追われていた。
「なんで⁉ オレたち何かしたか⁉」
「そんなこと知らないわよ! 明確な理由があるほうが怖いでしょ!」
「それはまあ……確かに!」
体育のときにしか活躍の場がない足を回しながら、オレは頷いた。
「しかし、明確な理由がないにしたってオレたちだけを追ってくるのはおかしくないか?」
至って平坦で推理するような口調でオレは言った。
「今そんなこと考えてもしょうがな――――」
里霧の言葉を遮って、厳見は唐突に止まった。
「悪い、原因……俺だ」
走ることに夢中で気が付かなかったが、ゴキブリたちの姿はもうなかった。
厳見に習うように二人して立ち止まった。
「ゴキブリを引き寄せるために昆虫部の奴らから、特製の餌を貰ってきたんだ」
厳見曰く、その昆虫部(正しくは昆虫研究部)から貰った餌は、森などで昆虫を採取する際により多くの種類の昆虫を引き寄せることのできる餌を目標に作られたらしい。当時の部員たちはさながら研究所で働く研究員の様相を呈していたほどだったと。いざ完成し、森に向かって、樹木にその餌を塗ってみるとそれまでの苦労が報われるように大漁だったそうだ。
……ゴキブリが。
以降、その餌の製造方法、使用、貸出ともに禁忌とされ、昆虫部の奥底に封印されてきた。
その禁忌の餌が厳見の掛けている虫かごの中に、入れられていた。ガーゼに染み込ませた状態で。当時の昆虫部が封じ込めていたそれがそこにはあった。
追われているなんて被害妄想だ――なんて言ったが普通に、正当に被害を受けていたらしかった。
「まさかこんなに威力のあるものだって思わなかったんだ。『爬虫類部のゴキブリ逃げちゃって、捕まえに行きたいんだけど、いい策ない?』って訊いたら、なんの躊躇いもなくこれ差し出してきたから、こいつでゴキブリを集めるんだな……程度に思ってみればこのザマだよ!」
途中から若干キレていた。逆ギレだ。
情報として、どれほどのものかというのを知っていたとしても、それは知っているだけに過ぎない。
実体験として経験しているからこその禁忌。後世に語り継いでも歴史に捉えて、客観視しているから、
知っているだけで経験しらないから、その本質を理解できない。
その差こそが決断を――判断を誤らせる。
「あっ……」
何かを思い出したらしい厳見は冷や汗を覗かせて引きつった表情を浮かべていた。
そして、虫かごに入っている餌――どろどろの液状のものがポリウレタン樹脂の床に滴り落ちる。
嫌な予感がする。
「そういえば、これいつから漏れてるんだ……?」
「いつからって……」
言って、固まる里霧。
今もなお、追われていたなら通り過ぎていた道には、水滴が列をなしている。
振り返って後ろも確認する。こちらも同様に水滴が一本の線を作っていて、廊下の照明に照らされて
キラキラと光を反射していた。
その正体は今の話を聞いていればわかるだろう。
禁忌の餌がオレたちの正面とその後ろに撒かれているということ。
多分、餌が虫かごから漏れてから、校舎から校庭の道程を一周してきていることだろう。
じゃないと眼前に餌が落ちているなんてありえない。
カサカサ。
カサカサカサ。
カサカサカサカサカサ。
放課後も既に終盤戦、校舎には熱心に部活動に励む生徒だけが残っている。かなりの生徒数を誇る志操学園ではあるが、この時間に学校にいる生徒はごくわずか。そして、その膨大な生徒数を収容する校舎は広大で、無人に等しい今の状況は音がよく響く。
カサカサカサカサカサカサカサ。
不穏な音がよく響く。
カサカサカサカサカサカサカサカサカサ。
左右の耳によく響く。
気づいた頃にはもう遅かった。こぼれ落ちた餌を辿って、黒の波はまたしても勢いをそのままに、こちらに向かう。両サイドから挟み込むようにして。
「そこの階段っ!」
運良く、この近くに二階に繋がる階段があった。里霧は指さして、上るよう促しつつ先陣を行く。
後をつけるようにしてオレは再び廊下の床を蹴る。早くこの場を去らないと、生徒会室で起こったあの惨劇の二の舞いになる。もうあんな経験はしたくない。
この後に続くはずの厳見の足音が聞こえず、オレは振り返った。
「俺はこの先には一緒について行けない……」
「おい、そんなこと言ってないで早く来い!」
「俺が二人について行けばコイツらも追っていくことだろうしな」
肩に掛けている虫かごをぽんぽんと叩くと、ショルダーストラップを潜って、それを手で持った。
「だから、俺はここまでだ。後のことは導舟……お前に任せた!」
覚悟を決めた清々しい表情で、厳見は虫かごを胸の前に掲げた。
そうして、厳見春介は迫りくる黒の波に対して、仁王立ちで待ち受け、呑まれていった。
「厳見いいいいい!」
「あと……事後処理は……任せた」
「厳見いいいいいい!」
とんでもねぇこと言い残しやがった。
あのクソ野郎を背にオレは二階へ足を向ける。なんでコイツは友達が多いんだ――という疑問を抱きながら、この場を後にした。
――――――――
読んでくださり、ありがとうございます!
今後も続いていきますので、お付き合いいただければ幸いです。
あと2ゴキブリです!
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