第8話 夏に現れるヤツ 01

 今日も今日とてオレは生徒会室にいる。


 生徒会に入ってから――というよりは、生徒会長になってから、ほぼ毎日と言っていいほど放課後は生徒会室に入り浸っている。そこでやらなければならないものがあろうとなかろうと、オレはそこにいることが普通になっていた。朝、学校に登校すれば無意識のうちに自分のクラスに向かってしまうようなものだと言ってもいいだろう。


 時間が経てば何事も変化するように、この生徒会もまた変化を迎えていた。


 たった一人で回っていた生徒会に新しい生徒――里霧有耶が入ったこと。


 それと、今日限りの小さいけれど、大きな異変。


「コイツをどうする?」


「どうって言われても私は何もできないわよ……」


 お互いに眉をひそめて、声も潜める。


 眼前で静止する黒光りした生物を刺激しないように。


 四肢の動きを最小限に、活動を再開した瞬間に対応できるように、常に気を配る。


 視線は絶対に外さない。見失うこと即ち、死を意味する。


 オレたちはそれだけの警戒をヤツに向けていた。




          *




 ――――遡ること数分前。


「なに? この紙の山」

「行事企画書」

「なにそれ」


 オレがその正体を告げてもなお、首を傾げる里霧。


 オレも正直わからない。何なんだ、行事企画書って……。


「とりあえず、できそうな行事なら可、色んな面でやばそうなら不可って具合で分けてってくれ」

「よくもまあ、この量を一人でやってたわ……ね」


 行事企画書を取り上げて踵を返した里霧はその場で固まった。


 流れていた映像が停止するように、ぴたりと動きを止めた。


「まあな……って、どうした?」


 里霧の視線は下を向いたまま、微動だにしない。どうやら硬直の原因は床にあるらしい。


 オレは机に身を乗り出して、その原因になった物体――いや、生命体を発見した。


「――――あ」


 夏場になれば、誰しも無意識のうちに恐怖しているのではないだろうか。


 春夏秋冬、四季に区分される夏。その夏を嫌う人の六割くらいは同じ理由だと、オレは思う。


 地球上、全世界に約四千種という膨大な種類に分けられ、その個体総数は一兆五千万匹にまで上るというカブトムシもどき。三億年もの時間の中でほとんどその形を変えずに生き抜いたと言われる完全体。


いかなる環境にも耐えうるその生命力。全人類が畏怖し、日常生活に潜む恐怖の化身。


 その生物の俗称は――G。


 絶望と恐怖の代名詞。


「私の記憶だと、夏ってまだ先だと思うんだけど……」


 目尻に涙を浮かべ、表情を引きつらせている里霧。


 里霧に限らずだが、大抵の人間は目の前に、唐突にコイツが現れたら身動き一つできない。それこそ、部屋の中を縦横無尽に駆け回られでもしない限り、人間の生存本能というか根源的な何かが、メデューサの瞳を見てしまったかのように行動、思考、行為、人体に於ける動きを制限させる。


 そして、Gは現在沈黙中。オレと里霧はメデューサの瞳をがっつり見てしまったので、パントマイムを生業としている者のなっていた。謂わば、この空間だけ時間を概念がないような状態にある。


「里霧、動くタイミングを間違えたらヤツは間違いなく反撃に出るぞ。今はこのまま時期が来るまで耐えるしかない」

「耐えるって言ったっていつまでこの状態でいなきゃなんないのよ!」

「熊に遭遇したときの対処法、知ってるか?」

「えっ……えっと、あれでしょ、目を離しちゃいけないとかそんなやつだっけ?」

「そうそう」


 実際のところ、これが熊に対しも、Gに対しても有効かどうかはわからないが、機敏に動いて距離を取るよりは刺激しなくて済むだろうというオレの希望的観測だった。


 里霧は抜き足差し足忍び足の要領でゴキ――いや、Gから距離を取る。


 すると、


 カサカサ――カサカサカサ。


「――――ッ!」


 Gは聞こえるはずのない不気味な音を立てて、来客用のソファ、里霧の作業スペースの下へと潜っていく。当然、それを間近で見ていた里霧はゆっくり後退するわけもなく、見事なバックステップを披露した。


 オレはヤツが動き出した瞬間、生徒会長の机は床になり変わっていた。


 なんの躊躇いもなく土足で机に上がったのである。その男は生徒会長である。


「ちょっと、なに一人で机に逃げてるのよ! 机に上がっちゃいけないって教わらなかったの!?」

「言動と行動が一致してないぞ。里霧、お前も登ってるからな。同類だからな」


 もう、ブーメランを投げる前から当たってる感じ。


「しょうがないでしょ! あのソファに入られたら全方位どこから出てきてもおかしくないんだから!」


 確かに、ソファの形状的に足部分を覗いたら、下は三センチほどの隙間が空いている。


 しかもソファ自体が壁に面していないせいで、ヤツの逃走経路は長方形の四面すべてを使うことができる。変に一方から追い立てたりでもしたら、自分自身に向かってきて、足を辿っ、上半身への侵入を許す可能性もある。


そんなことになってしまったら泡吹いて倒れる。オレも里霧も。


「ひとまず、ここにいればヤツがどう出て来ようと時間は稼げる」


 多分、三秒も稼げないと思うけど。


「ソファから出てきたら出てきたで、その方向に応じて退路を決めればいい。例えば、左から出てきたら右に迂回して生徒会室を出る」

「けど、扉側の方に出てきたらどうするの?」

「扉側の場合は窓を破って飛び降りる!」

「ここ三階ですけど!?」


 じゃあ、と言って里霧は言葉を繋ぐ。


「机側は?」

「死なばもろともライダーキック」

「事態が悪化しそう……」

「さすがにライダーキックは危ないからやらないけどな」

「三階から飛び降りる気だったのに!?」


 ヤツは今も鳴りを潜めていて、一向に出てくる気配がない。戦況は膠着してしまったらしい。


 大きな机とはいえ、高校生二人が足場として利用するには若干物足りない。そんなことよりも、問題なのは行事企画書をぶちまけてしまっていることだ。机の上に積み上げていた紙はあちこちに散らばっている。床一面が真っ白だ。


「あ~あ、行事企画書が……」

「これ後で片付けるのよね……」

「考えたくないな」


 まあ、半数以上がふざけたものなので罪悪感とか、書いてくれてる人に申し訳ないとか、そういった良心の呵責は一切ない。今日も可否を決めるにあたって確認していたわけなのだが『デスメタル大行進』だとか『全自販機セミの素揚げジュース化計画』だとか……というか計画ってなんだよ、行事を提案するもんなんだって行事企画書は……。行事の枠超えちゃダメだろ。


「全然動かないんだけど……。もしかして、もうソファの下にいない?」

「まあ、影に入っちゃったらそうそう動かないだろうな」

「それなら、今のうちに出ていけるんじゃ」

「いないもしれないんだろ? 行けるのか?」

「む、無理」

「だよな」


 居場所の把握はできているものの、散乱した紙をつたって別の場所に移動している可能性もある。


 そこにいるだろうと思ってはいるものの、実際は隣のソファの下に鎮座しているかもしれないし、もしくはテーブルの下かもしれない。なんなら、オレたちの背後まで既に迫っている可能性すらある。


 机から地に着いた瞬間、襲われれることも考慮しながら、案を練らねばいけない。


 ヤツに対して、物理的に高みの見物をしているオレは顎に手を当てる。


「ひとまず、あのソファにヤツがいるのか確かめよう」

「どうやって? まさか飛び込むとか言わないわよね」

「まさか。そんなことはさすがにしない」


 ブレザーの内ポケットから常日頃より忍ばせているボールペンを取り出す。


「コイツをソファの下に送り込む」

「変に刺激して襲ってきたらどうするの!?」


 里霧は声を荒げながらも言葉を繋ぐ。


「それに、ソファの下にいるのは確実でしょう? わざわざ確認するまでもないと思うけど」

「最後に見たのは間違いなく、あのソファの下だった。だが、今もそうとは限らない」


 用心をするに越したことはないだろう。


 里霧は致し方なしと見たのか、反論はせず口を噤む。


「よし、いくぞ……」


 屈んで、手のひらに置かれたボールペンを傾ける。


 細長い円柱である持ち手部分は重力に引っ張られて転がっていく。


 ころん、と音を鳴らして着地して、ソファ奥深くに侵入する。


「「…………」」


 見渡し、息を潜めて注意する。


 突然だが、本日の天気のお知らせ。今日は晴れのち曇り。つい先ほどまでは暖かな陽気が辺りを包んでいたというのに、今となっては寒々しいものとなっている。寒々しいといっても温かい毛布が必要というほどではない。


 太陽は隠れて日差しはすこぶる悪い。


 それだけなら良かった。何故なら、生徒会室にはしっかりと照明があったのだから。暗くても室内は明るいし、光が全体に行き渡る。ゴキブリが滞在できるのは闇の中は人間がいないことの証明、光の中は人間がいることの証明だ。そうやって、賢く生命力に富んだこの生物は人間との共存している。


 境界線と言えばいいのだろう。光と闇の境こそがお互いの生きる場所を分けているのだ。


 それを失えば、境界線を失ってしまえば――、


 その照明が落ちてしまえば、境界線は綺麗さっぱりなくなってしまう。


 かちっ。


 何かのスイッチが鳴る。


「きゃああああああああああ(あああああああああああ)」


 瞬間――暗転し、二人の叫び声が生徒会室を飲み込んだ。


「おい、ちょっと待て! なんでこのタイミングで照明落ちた!?」

「嘘でしょ!? これじゃあ余計に場所わかんなくなっちゃたじゃない!」

「しかもいつの間にか曇りになってるじゃねぇか! これじゃあ何も見えないぞ!」

「雷落ちてないよね! 落ちてなかったよね! なんで停電したの!?」

「雷は落ちてないけど、なんで停電したかは全然わからん! ブレーカーが逝ったのか?」


 突然の暗転に周囲一帯の状況は何もわからない。ソファの下にいるかどうかなんて生易しいもんじゃない。戦場はソファの下から生徒会室全域になってしまった。しかも視界不良ときたもんだ。


「これまずいんじゃないの。天気のせいで全然なにも見えない――――」

「里霧、あまり動くと危な――――ちょ、ま」


 転げ落ちた。二人して。


 こういうことがあった後の展開はお色気が用意されているものだろうが、それはまたの機会に。


 そんなことを言っている余裕なんてない。


 すぐ近くにヤツがいるのだから。


 カサカサ……カサカサ。


「里霧、大丈夫か?」


 カサカサ……カサカサ。


「一応、大丈夫……だけど」

 続けて。


「この状況、めっちゃヤバくない?」


 謎の停電により照明が落ちて、ヤツの潜伏場所不明に加えて視界不良、状況はすこぶる良くない。


 カサカサ……カサカサカサ。


「ひっ――――今、少し見えた!」


 カサカサ……カサカサカサカサ。


「そんな怖いこと言うなよ!」


 カサカサ……カサカサカサカサカサ。


「確認したいんだけど、私たちが見たのって一匹だったと思うんだけど!」

「そうだな! 一匹しか見てないな!」

「うっすら見えた感じだと何匹もいるような気がするんだけど……」

「そんなまさか、一匹だったって。何かの見間違いだろ? そんな二匹もいるわけ――――」


 言いかけて、オレは目の端で二つの影を捉えてしまった。


「…………いたな」

「だから言ったでしょ」


 この窮地にきて不撓導舟と里霧有耶は冷静になっていた。生徒会室にGがいるという、この状況にも慣れつつある。


 しかし、二匹目がいるかもしれないという事実が緊張感を増幅させる。この二匹目がモーションブラー現象によるものだと信じたいところではあるが、変に信じて本当は二匹でした、なんてことになったら泡吹いて失神する自信がある。


 ちなみに、オレは虫嫌いというわけではない。


「やっぱりこう、Gが怖いのって自分の領域にいるっていうのが大きいと思うんだよ」

「急にどうしたの? 恐怖で悟りでも開いたの?」

「こんなんで悟り開けたら、世界皆兄弟だ」


 本気の「なに言ってるの」が聞こえた。


「いつの間にかまた登ってる……」


 二人で転げ落ちてから、同じ位置で聞こえていたはずの声はそれよりも高いところから発せられていた。ひと一人分くらいの高低差がある。


 里霧が上でオレが下。


 ということは――


「やると思った」


 見上げたオレの顔には蓋をするようにして、足が置かれた。


 ほの暗い生徒会室の輪郭すら捉えられないほどに、完璧なまでに視界を封じられた。


あっぱれと言うほかあるまい。


 どのみち、この暗さじゃなにも見えないだろうけど。


「スカートの中を覗こうとするなんて小学生じゃあるまいし……」


 踏まれているので表情こそ分からないが、蔑みと呆れが入り混じった声だった。


 しかし、男子はどれだけ歳を取ろうとも少年なのだ。


 体が大きくなっても、様々な知識を蓄えても、無理難題で現実では再現不可能なものであったとしてもそれを追い求めてしまうのは全男子の本能なのだ。


 馬鹿だっていいじゃない、


 小学生と罵られてもいいじゃない、


 何故なら、そこにロマンがあるのだから。


 ――――ふとを。


 なに言ってんだ……。


「しかし、一匹いたら百匹いるっていうのは本当だな。一匹出てきたと思ったら、二匹目が満を持してご登場とは、困ったもんだな。こっちの都合も考えてほしい」


 そんなことを言っていると、三つ目の影が薄っすらと瞳に焼き付いた。


「きゃああ! え、え、ま、また増えた!?」


 里霧は「な、なんで!?」と声を荒げている。もう、涙目なんじゃないかと思う。


 暗くてシルエットしか見えないけど。


 腰を落として、両耳を抑えて、肘で膝を抱え込んでいた。


「もう無理無理無理無理」


 一度決壊した恐怖は際限が無い。


 押し寄せる波を抑えることなんて出来やしない。


 かく言うオレは仁王立ちだった。両腕を組んで。どうしてそんなに堂々としていられるかというと、二匹目が現れたとき、うち一匹はオレの腰まで一度上がってきていたからだ。そのときはヤツだとは気づかずに払ってしまったから、何もなかったのだが、「考えたみたらアレGじゃね」と気づいてしまったが運の尽きだった。要するに、行き着くところまで行かれてしまったため、精神無敵モードに突入した。


 ちょっとやそっとじゃ動じないほどにオレの許容範囲は格段に広がっている。


 なんて言っている間にも、ヤツらの影は増していく。


 ――――五匹。

 ――――十匹。


 ん?


 ――――二十五匹。


 あれ?


 ――――四十五匹。


 あれあれ?


 次第にどれだけ増えているのかも数えられないほどになって、もうそれは一つの渦のような形状になっている。ぐるぐると表現できるような、渦潮。決してあってはならない渦巻きがそこにはあった。


 後ろで蹲っている里霧はオレのブレザーの首根っこを掴んでいる。引き離そうと試みたが、両手で掴み直してきたので、もう、諦めた。


 それからオレは天を仰いだ。この絶対救われない光景から目を逸らすために。


 多分、純粋に祈ったのはこれが人生で初めてだったかもしれない。正月の初詣とか、本来であれば去年一年間の感謝だったり、新年の無事を祈るものであるが、オレが祈ったり願ったりすることといえば、


『宝くじが当たりますように』とか『ふざけた行事企画書を出してくる奴らが箪笥に小指をぶつけますように』とかそんな具合のものが大半を占めるが、今回だけはいくつも願うようなまねも、ましてや煩悩を満たすためではない、純粋な生存を祈って願っていた。


「おっ――――」


 原因不明の停電はなんの脈絡もなく終わりを告げて、パッと生徒会室を再び照らした。


 このまま停電したままの方が幸せだったのだと、このとき思い知らされる。


 時と場合によっては知らないほうがいい――――というのがまさに今日で今だったらしい。


「――――あっ」


 不意に、明かりが復旧したもんだから、オレは反射的に床に視線を落とした。落としてしまった。


 一面には地獄が広がっていた。


 まるで高熱を出しているときの夢のような、そんな絵面、光景。


 端的に言おう。ヤツらが生徒会室一面に、木目の床を真っ黒に染め上げていた。


 うねうねとした触覚を、煙のようにくゆらせて。


 最後の気力を振り絞って、後ろを振り返って里霧の様子を確認する。


 見てしまったのだろう。


 事切れていた。


 そして、オレの記憶はここで途切れた。


 あの黒いカーペットを忘れる日が訪れることは決してないだろうし、もう一度この景色に遭遇することもないと思う。一匹見たら百匹いると思え――――なんてよく言ったものだと感じた。


 百匹なんて生易しいものでは断じてなかった。


「こんな惨劇には二度と会いたくはない――」


 この一言がオレの最後の言葉になった。



――――――――

読んでくださり、ありがとうございます!

今後も続いていきますので、お付き合いいただければ幸いです。


この話は全4話分です!

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