第12話「わたくしが見てきた鵠沼さんは、そういう人でした」

 体育祭についてホームルームで決めた翌日、さっそく体育の授業があった。着替えを終えると、花組の面々はぞろぞろと校庭へ向かう。

 ちょうど女子更衣室から出てきた灰ノ宮さんを見つけたので、一応声をかけることにした。


「灰ノ宮さん、今日からよろしく」

「…………」


 困ったな。ずっとこの調子で居られると俺もやりづらい。

 そんなことを思っていると、隣の月組の教室から涼白さんが出てきた。きょろきょろと周囲を見回す彼女と目が合う。


「あっ! 鵠沼さんのお兄さん、こんにちは」

「こんにちは涼白さん。俺のことは畔でいいよ。閑との呼び分けめんどくさいでしょ?」

「はい、ではわたしのこともどうぞ雪姫と呼んでください。これ、畔さんにお返ししようと思っていたんです」


 雪姫ちゃんは俺に向かって何かを差し出す。それは、初めて会った日に泣いてしまった雪姫ちゃんに渡した俺のハンカチだった。


「このハンカチ、元町のレース店のですよね? よく行くんですか?」

「うん、前を通りかかるとついつい眺めちゃうんだよ。繊細できれいだけど丈夫で、普段使いしやすいところが気に入ってるんだ」

「わぁ、分かります。わたしも好きなんですよ、何枚かハンカチ持ってます。これって林檎模様のレースですよね? わたし、このレースは初めて見ました」

「確か期間限定とかだったかな?」

「そうだったんですね。今も売ってたら買いたかったんですけど、残念。呼び止めちゃってすみません、またお話ししましょうね」

「うん、またね」


 雪姫ちゃんはぺこりとお辞儀をして月組の教室に戻っていった。


「ごめん灰ノ宮さん、お待たせ。行こう」


 成績の優秀さに自信のありそうな灰ノ宮さんを遅刻させるのはまずいだろう。黙ったままの灰ノ宮さんと小走りで校庭まで向かった。

 体育の先生から軽く説明を受けるとすぐに練習が始まった。


「灰ノ宮さん。俺とペアなのは嫌かもしれないけど、決まったものはどうしようもないし腹を括ってくれ。右と左どっちの立ち位置がいい?」

「……どっちでもいいですわ」


 俺は屈んで自分と灰ノ宮さんの足首を紐でくくる。


「よし。痛くないか?」

「ええ」


 クラスメイトたちは俺と灰ノ宮さんのペアをちらちら見ては何事か噂しているようだが、ここは気づかないふりだ。大袈裟に反応するほど状況は悪くなる。俺は分かっているつもりだが、灰ノ宮さんが騒いだらどうしよう。

 そんなことを思っていたのだが、灰ノ宮さんは意外と大人しかった。


「じゃあ肩組むぞ」


 俺は恐る恐る灰ノ宮さんの肩に手を当てたが、彼女はちょっとビクッとしただけで文句は言わなかった。もしかして男性に対して苦手意識があるのか……? 或いは免疫がないのか。なるべく意識させないように、すぐさま練習を始めた。


「まずは慣らすために少し歩こうか。外側の足を先に出すって決めておこう。掛け声に合わせて歩いて」


 灰ノ宮さんは俺の指示通りにする。最初こそもたついたが、しばらく歩いていると馴染んできた。


「……あの……」

「何?」


 不意に灰ノ宮さんから切り出され、俺は聞き返す。灰ノ宮さんは少し視線を地面に落としながら、もごもごと続けた。


「……わたくし、鵠沼さんにハンカチを返していませんでしたわ……」


 灰ノ宮さんに貸したハンカチというと、入学初日のことだろう。先程の雪姫ちゃんを見て思うところがあったらしい。


「あぁ、そういえばそうだったな」

「……なかなかお渡しする機会がなくて。ごめんなさい」


 俺はかなりびっくりしていた。あの灰ノ宮さんから謝罪の言葉が出てきたのだ。彼女の辞書に謝罪と反省の文字は存在していないのではないかと思い始めていたところだったので、あっけに取られてしまった。


「……別にいいよ。一枚減ったからって、洗濯のローテーションに困るわけでもないし」

「さっきの方にも貸していたのでしょう。二枚減ってますわ」

「細かいところ気にするんだな……」


 ある程度慣れてきたので、いよいよ走り始める。思ったよりもスムーズに上達していった。

 少し疲れたので休もうかということになり、木陰を探してそこに座った。その頃にはもう、俺と灰ノ宮さんを噂する者は居なくなっていた。

 そよ風に揺られて木々が微かな音を立て、木陰も揺れる。隙間から差し込む陽の光が眩しい。


「……これ……」


 灰ノ宮さんは体操着のポケットからハンカチを取り出した。俺が貸したものだ。


「持ってたの?」


 わざわざ持ち歩くほどなのかと問うと、灰ノ宮さんはへにゃへにゃと泣きそうな顔になった。


「だ、だって、ずっとお返ししなければと思っていたんですのよ?」

「えっ」

「だけど、あなたのことを……清花の生徒としては受け入れがたい、前例など認めませんと言った以上、引っ込みもつかなかったのですわ。初志貫徹せねばと頑なになるうち、クラスでも疎まれるようになってしまって……わたくし、どうしたらいいのか分からなかったんです……」


 言葉の途中で灰ノ宮さんの声は震え、青い瞳からぽろぽろと涙をこぼした。


「えっ……! あっ、えっと……! その手に持ってるハンカチを使うといいと思うんだけど……!」


 俺も灰ノ宮さんの様子につられてパニックになってしまい、微妙に的はずれな提案を口走る。


「それではいつまで経ってもお返しできませんわ!」

「じゃあもういいよ、あげるから使いな」

「…………殿方から贈り物なんて……軽々しく受け取れませんわ。返礼品に何を選べばいいのか」

「返礼品?」


 灰ノ宮さんの浮世離れした発言をなんとか読み解こうと努めてみる。つまり、懇意にしている家柄の男性から贈り物をされた場合の対処について言っているのだろうか。


「俺は社交界? のこととかよく知らないけど、灰ノ宮さんのイメージしてるようなことじゃないというか……そういうつもりじゃねぇから受け取りなよ。お返しも別にいらないし」


 それだけ押してようやく灰ノ宮さんは折れた。


「……ありがとう、ございます」


 差し出そうとしたハンカチを使って涙を押さえる。泣き顔を見られるのが恥ずかしいのか、紐で足首が繋がったままの灰ノ宮さんは俺に背を向けて少しの間泣いていた。


「……俺もさ。実は、灰ノ宮さんとは分かり合えるんじゃないかって、心のどこかで思ってたよ」

「え?」


 灰ノ宮さんは背を向けたまま問い返す。


「ハンカチを忘れただけでおろおろしたり、錬成会でカレー作りの勝負を仕掛けようとしてきたり。なんかかわいいとこあるんだよなって思ってたんだよ。だから、お互いの価値観が合わなくて今は衝突するけど、そのうち分かり合えたりする日も来るんじゃないかなって思ってた」

「……」

「まぁ、それはお前の小桃ちゃんに対するあの仕打ちですっ飛んだんだけどな。やっぱ歩み寄るのは無理かもって思ってたところだった」

「そ、それは……親沢さんがあまりにもアホだから……」

「アホって言うな、小桃ちゃんは頑張ってる」

「そう……」


 茨咲さんに言われたこと――成績の優秀さは態度が悪いことへの免罪符にはならない、という指摘を気にしているのか、灰ノ宮さんは強く言い返すことはなかった。


「クラスでの立場はまぁ……灰ノ宮さんが態度を改めればそのうち収まるだろ。それまで話し相手が居なくて困るなら、俺と話せばいいし。でも、小桃ちゃんにはちゃんと直接謝ってほしいな」

「……難しいですわ……」

「すぐじゃなくていいから、ゆっくり考えて。どんな言葉で小桃ちゃんに話しかければいいのか。お前は賢いんだからきっといいアイデアが思いつくだろ」

「……」

「なぁ、灰ノ宮さんはどうしてそこまで『清花の生徒として』ってやつにこだわるんだ? バカにしてるんじゃないよ。聞きたいと思ってたんだ」

「……それは、『そう言われたから』ですわ」

「誰に?」

「中等部の入学式のときにです。先代の理事長様のご挨拶で、そう仰っていました。『清花の生徒として勉学に励みなさい。そして、制服で歩いているならば、学校の外でもあなたたちは清花生の代表として見られます。名門に恥じない行動を心がけてください』……まあ、だいたいこのような話でしたわ」

「それを守ってるってことか。真面目なんだな」


 灰ノ宮さんの言動は清花の生徒としてふさわしいだろうか、とツッコミたくなったが、やめておいた。それは茨咲さんにキツく言われた部分だし、俺が追い打ちをかけることもないだろう。


「俺も似たようなもんだよ」


 頭上で木の葉が揺れている。


「……どういうことですの?」

「俺もさ。いわゆる『女装』って呼ばれるような格好をしてるだろ? だから言われるんだよ。『女の格好をして犯罪を目論んでいるんだろう』って。灰ノ宮さんにも言われた『女子トイレに忍び込んで盗撮カメラを設置する』とか、『女のふりをして女性に近づいて、ツーショットを撮ろうと言って身体に触る』とか。例を挙げたらキリがねぇな。とにかくそういう疑いをかけられることも多少はある。それって、他の誰か、一人二人やごく少数の変な奴のせいで、女装というファッションを楽しんでいる人全体が偏見の目で見られて、迷惑するってことなんだよ。だから俺はすごく気をつけてる。人助けや手当てや救急みたいなよっぽどの事情がないと身体に触ることはないし、発言もうっかりセクハラにならないように言葉を選んでる。『俺一人の行いのせいで、たくさんの人が好きなファッションを楽しめなくなる』なんて絶対に嫌だから」

「……そう……でしたの。いえ、そうでしたわね……わたくしが見てきた鵠沼さんは、そういう人でした」


 そういう風には思ってくれていて、認めたくないという気持ちが大きかったということなのだろう。


「まぁ、偉そうなこと言ってるけど俺もまだ未熟だからさ。うっかり配慮が至らないこともあるかもしれない。そのときはできたら、強く批判するんじゃなくて、やんわり注意してくれると助かる」


 遠回しに灰ノ宮さんの発言についてお願いをしてみた。強い口調で強い言葉をぶつけられたら、相手は内容を理解したり納得したりする前に心を閉ざしてしまう。それはもったいないし、灰ノ宮さんだって苦しくなる。きっとこの言い方でも、灰ノ宮さんには伝わっただろう。あとは俺の考えを受け入れてくれることを待つのみだ。


「そろそろ行こう。全体練習が始まる」




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