第14話「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」
「え? 畔もここで降りるの?」
「うん……もしかして家、めっちゃ近い?」
あれよあれよという間に俺の家の前まで歩いてきてしまった。
「それで……聖海ちゃんの家は?」
「五軒先のマンション……」
「……マジ?」
なんととんでもなく近くに住んでいることが判明してしまった。これでよく登下校で出くわさなかったものだ。
「えっと……僕の実家、遠いから。一人暮らししてるの。このへんは治安もいいって聞いたから」
「なるほどね……確かにベッドタウンだし、色々とアクセスもいいよね」
「そう。……なんかさすがにびっくりかも。用事があったら訪ねてくれてもいいから」
そう言う聖海ちゃんはいつも通りの涼やかな顔を崩さない。彼女がびっくりしている表情は見たことがない気がする。
「さすがに一人暮らしの女の子の家に押しかけたりはしないよ……防犯はしっかりね」
「うん。じゃあまたね、畔」
「またね」
手を振り合って別れ、俺は家の中へ入った。
「ただいまー」
ぱたぱたとスリッパの音がして、母さんが降りてきた。
「おかえり畔。帰り、危なくなかった?」
綺麗なお姉さんですねと褒められることが定番になっている我が母は、就寝前のハーブティーを片手に俺を出迎えた。美意識の高い人なので、寝るのも俺より早い。それでも俺の帰宅を待っていてくれたのだから嬉しく感じる。
「バイト先の友達と一緒だったから」
「そうなの。友達の家、近いの?」
「なんと五軒先のマンションらしい……」
「すごい近いね。さっき閑もお風呂出てきたから、畔も早めに入りなさいね」
「はーい」
自室まで上がって手早く荷物を整え、すぐさま風呂に入る。湯船に浸かりながらここ最近のことを思い返していた。
私立山手清花学院に入学してから、いろいろなことがあった。
入学初日、小桃ちゃんを助けた。灰ノ宮さんに因縁をつけられた。茨咲さんや聖海ちゃん、雪姫ちゃんと出会った。
小桃ちゃんに告白されたり、灰ノ宮さんとの和解を果たしたりした。
他者や社会の大きな流れからしたら、俺の毎日なんて平坦でありふれたものかもしれない。それでも、自分にとっては重要な出来事の連続だ。
ミスコン優勝を目指すと決めて、勉強を頑張っている。魔法みたいに急に成績優秀になったりはしないけれど、ちょっとずつ授業の内容にも分かるところが増えてきたし、苦手意識は改善されつつある。これからも続けていけば、きっと100点も夢じゃない。現に灰ノ宮さんのような100点を連発する人も居るのだ。俺と灰ノ宮さんは同じ人間だ。灰ノ宮さんにできるなら、きっと俺にもできるはず。実際どうであるかよりも、「きっとできる」という気持ちで腐らず努力を続けることが大事だと思う。
「……そういえば、明日は学園の日なのか」
***
朝練も残り僅かとなったその日、灰ノ宮さんとの二人三脚の練習に励んでいた。
「かなり息ぴったりだよな!」
「ええ、わたくしもそう思いますわ」
灰ノ宮さんは額の汗を拭いながら微笑む。プライドの高さは、裏返せば目標を達成する喜びを強く感じる気質でもあるらしい。二人で真剣に取り組むその誠意を感じ取ってくれているなら、俺も嬉しい。
「このクラスの中で一番早いペアは俺と灰ノ宮さんだな。最初に組みたがらなかった奴らを見返してやろうぜ!」
「ええ、燃えますわね」
そういう熱いところも嫌いじゃない。
「そういえば鵠沼さんは理事長杯リレーにも出るのでしょう? そちらの練習は順調ですの?」
「うん、順調。このあいだ放課後に全体練習をしたときにも花組は連携ぴったりだったよ」
「まぁ、頼もしいこと。他のクラスはどうなんですの? どのクラスが強敵なのかしら?」
「どうかな……。けっこう花組が一位本命って感じだけど。あ、でもいつも揃わないクラスがあって……」
そのような話をしている途中で、吉田さんから話しかけられた。
「お話し中ごめん。美の先導者である鵠沼先生にお聞きしたいのですが……」
「なんだその肩書き? とりあえず言ってみ?」
「鵠沼先生的に、体育祭に向けて日焼け対策とかありますか? あったら教えてほしいな」
「それ俺も聞きたい!」
吉田さんと組んでいる二人三脚のペアの男子……野島さんも手を挙げながら訊ねてくる。
「よし、では日陰に入りつつご説明しましょう」
俺たち四人は木陰の下に移動する。
「まず日焼け止めだけど……みんなは使ってる?」
「おれは一応」
「使ってない」
「使ってますわ」
灰ノ宮さんがどんな日焼け止めを使っているのか気になるが、たぶん一般的な高校生がホイホイ真似できるような代物ではなさそうなので後でこっそり聞こう。
「使ってない人はまず使うところから始めよう。で、おすすめの日焼け止めなんだけど……まぁ、低刺激って書いてあるタイプが無難だな」
「はーい鵠沼センセー、低刺激のやつって効果も薄いんじゃないんですか? エスピー……なんとか? がいっぱいついてるやつがいいんじゃないんすか?」
「いい質問だな野島さん。SPFっていうのは日焼け止めの効果の持続時間の目安を示しているんだけど、SPF1につきおおよそ20分で計算されるんだ。SPF30なら10時間、SPF50なら16時間くらいってことになるな」
「へえ。じゃあSPF50の日焼け止めを朝つけて出かけたら一日持続するってことじゃん」
「理論上はそうなるけど、汗で流れたり、手を洗ったりしているうちに日焼け止めも落ちちゃうから一日しっかり万全の状態で持続することはまぁないな。途中で塗り直すのが大事ってこと」
「えー、めんどくさい……」
参考までに聞いてみたいというだけで、野島さんはそこまで乗り気ではないのだろう。
「絶対焼きたくない! ってわけじゃないならほどほどでも。ガチで対策したい人は三時間おきに塗り直そうねってことだな。おすすめの日焼け止めリストはLINEで送った方がいいよな? 吉田さんは後でLINE交換しとこう。で、日焼け止め以外の対策としては……アフターケアの話になるな」
「アフターケア? 日焼けした後の対策ってことだよね?」
吉田さんは質問者なだけにかなり興味津々で聞いてくれる。
「そう、どんなに事前に日焼け止めを使っていても、やっぱり太陽の下で過ごしていたら肌はダメージを受ける。だからアフターケアをおすすめしています。簡単なのだと屋内に入ったら早めに水で冷やすとか、熱がこもっていそうな部位があるなら氷を当てるとか。風呂上がりのスキンケアを丁寧にやるのも大事だな」
「なるほど……事前の準備だけしゃなくて、アフターケアで冷やすのも大事なんだね」
「日焼けは軽めの火傷みたいなもんだからな」
「そっか……そう言われると気をつけなきゃって思うかも。ありがとう、鵠沼さん」
「いえいえ。……灰ノ宮さん、補足があれば何かコメントをいただけると嬉しいんだけど、どう?」
急に話を振られたので灰ノ宮さんは少しだけ驚いたが、咳払いをしてすぐに付け足した。
「そうですわね。種目に出場している間は無理ですけれど、客席に居る間は日傘をさすのがよいと思いますわ」
「おお! それはいいアドバイスだ。俺も日傘持ってこよっと」
制服が夏服に変わったら日傘で登校しようと考えていたが、ずっと屋外に居る体育祭では日傘が必須だろう。
「一応会場である総合運動場には客席に屋根がありますけれど、完全に日射しを防げるわけではありませんし。地面からの反射光もありますから、持っていて損はないと思いますわよ?」
「そうなんだ。灰ノ宮さんも物知りなんだね」
「はいはい灰ノ宮センセー! 反射光って何すか!」
「それはですね……」
俺の見立て通り、賢い灰ノ宮さんの説明は分かりやすかった。吉田さんたちを交えた日焼け対策の講義は盛り上がり、和気藹々と話しながら朝練を終えて教室に戻ることとなった。
「灰ノ宮さんの説明分かりやすかった! ありがとう」
吉田さんから素直にお礼を言われると灰ノ宮さんも満更でもなさそうに笑顔を返す。
「いえ、このくらいのことでしたら」
教え上手な灰ノ宮さんから勉強を教わったらもっと身につくだろうか? でも小桃ちゃんとはまだ和解できていないようだし、俺と灰ノ宮さんの個人的な関係としても踏み込みすぎな気もする。今は時期尚早なのだろう。けれど、いずれは灰ノ宮さんとも一緒に勉強できる日が来たらいいな、とほんのり思っている自分が居た。
「この後灰ノ宮さんは大役だろ? 頑張ってね」
「そんなに大袈裟なものではありませんわ。でも、いいんですの? そんな悠長なことで。あなたが目指している場所なのではなくて?」
「はは……いずれは俺の役目になる予定だから、覚悟しとけよ?」
灰ノ宮さんは上品に笑って女子更衣室へ入っていった。
「鵠沼さん、何の話?」
俺と灰ノ宮さんのやりとりを聞いていた吉田さんが首を傾げている。
「それは――」
「鵠沼さん」
そこにやってきた人物に少し緊張しながら俺は振り返った。
「理事長様! おはようございます」
俺を呼び止めた声の主――理事長様こと喜多川先生は、爽やかな笑みを浮かべながら俺たちにひらりと手を振った。
「皆さんおはようございます、今日は学園の日ですね。鵠沼さんは、聖書朗読の件は残念でしたね」
「いえ……急に一位になるのは難しかったです。でも、勉強は頑張ってますよ! 次はもっといい成績とります!」
俺はぐっと拳を握るポーズで宣言してみせる。
「はい、期待していますよ。ところで先程の様子が見えたけど、灰ノ宮さんとは打ち解けたんですか?」
「実はそうなんですよ」
「いいですね。ちょっと心配してたのでよかった。それではまた後ほど」
***
その後俺たちは汗ふきシート談義に興じつつ制服に着替え、さっぱりとした気分で講堂へやってきた。今日は学園の日で、ミサが執り行われる。錬成会でもミサは経験したが、全校行事となると人数の規模が全然違うのでまた新鮮だ。
高等部一年花組の区画に着席すると、隣には先に到着していた小桃ちゃんが座っていた。
「おはよ、畔くん」
「おはよ、小桃ちゃん。席交換しよっか。小桃ちゃんは通路側の方がいいよな?」
「うん……ありがと」
聖体拝領のために席を立つ小桃ちゃんと座席をチェンジする。
「畔くんは、どう? 体育祭の練習、順調?」
「それなりにね」
「さっき、吉田くんたちと楽しそうにお話ししてたよね。灰ノ宮さんが居ると、私は会話に参加できないから……」
小桃ちゃんの気持ちを考えると無理もない。けれど、ずっとギクシャクしたままだと不便なこともあるだろう。少なくともこの一年は同じクラスなのだ。避けてばかりはいられない場面もあるはずだ。
間もなくして照明が落ち、ミサが始まった。式の流れ自体は錬成会と同じで、異なる部分といえば聖書朗読の範囲くらいだろう。
灰ノ宮さんは壇上に呼ばれ、朗読台の前に立つ。これだけの人数の視線を受けても、彼女が動じることはない。すぅと軽く息を吸い、灰ノ宮さんの朗読が始まる。
「『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。』※ ……」
不思議だ。錬成会のときの灰ノ宮さんの朗読は、内容が全然頭に入ってこなかった。なのに、今日は彼女の読み上げる文章がすっと理解できる。
あの日から――錬成会で灰ノ宮さんが小桃ちゃんを攻撃したときから、灰ノ宮さんとは決別していがみ合うしかないのかもしれないと思っていた。定期試験で負けたら、彼女の聖書朗読を憂鬱な気持ちで聞く羽目になるのだろうとも。
しかし実際、俺は晴れやかな気持ちで灰ノ宮さんの声に耳を傾けている。彼女がたゆまぬ努力で得たその輝かしい地位を讃えようとすら思えるのだ。
「……『祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。』※」
つつがなく朗読を終え、灰ノ宮さんはお辞儀をして壇上から降りた。
ミサを終え、全校生徒は各々の教室に戻るために列を成して階段をのぼっていった。高等部一年花組の教室の前までやってくるとようやく人込みは落ち着き、談笑が混じり始める。
「親沢さん」
よく通る声で小桃ちゃんを呼び止めたのは、灰ノ宮さんだった。隣に居た小桃ちゃんは、さっと俺の後ろに隠れる。代わりに俺が灰ノ宮さんを見ると、彼女もまた緊張した様子だった。周囲の人々も、灰ノ宮さんの動向に注目している。小桃ちゃんが対話を拒否していると灰ノ宮さんも切り出しづらいだろう……俺は助け舟を出すことにした。
「小桃ちゃん。きっと大丈夫だよ」
「でも……」
「もし悪い話だったら、俺が責任もって灰ノ宮さんをぶっとばしてあげるから。とりあえず聞いてみない? 灰ノ宮さんが話したい相手は、俺じゃなくて小桃ちゃんみたいだから。向き合ってあげてほしい」
「……わかった……」
俺が身体を退かせば、小桃ちゃんは灰ノ宮さんと向かい合うかたちになる。小桃ちゃんは不安げに両手を胸の前で握りしめて、灰ノ宮さんの次の言葉を待った。
「あの……」
灰ノ宮さんの声が上擦っている。がんばれ、俺は心の中で応援した。ばっ、と衣擦れの音。灰ノ宮さんは――勢いよく頭を下げた。
「――ごめんなさい!」
周囲は静まり返る。灰ノ宮さんにとって、この謝罪はとてもとても勇気の要ることだっただろう。恥ずかしさもあったに違いない。それでも責任感の強い彼女は、人前で小桃ちゃんを傷つけた代償を支払うために、自ら人前というタイミングを選んで頭を下げたのだ。
小桃ちゃんは戸惑いを隠しきれずにいた。すぐに返事ができるわけでもなく、ただ灰ノ宮さんを見ている。
「……親沢さん。再三に渡ってあなたを貶めたこと、謝らせてください」
見守る観衆の中には茨咲さんも居て、廊下の壁にもたれかかって腕を組みながら様子を伺っていた。
「え、と……」
小桃ちゃんは困ったように俺を見上げる。でも、灰ノ宮さんへの返事は小桃ちゃんからするべきだ。許すか許さないか、決めるのも小桃ちゃんだ。俺は無言の視線で促した。
「……灰ノ宮さん……」
小桃ちゃんは恐る恐る口を開く。
「……もう、ひどいこと言わないって約束してくれる?」
灰ノ宮さんは顔を上げる。安心からか、彼女はへにゃへにゃとした微笑みを浮かべていた。
「はい、勿論」
───────
※日本聖書協会.聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき.2007,(新)292p.
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