第26話「お手柔らかにお願いします……?」

「――お兄さんって呼んでもいいですか?」

「……えっ?」


 予想だにしない雪姫ちゃんの発言に、俺は呆けた声を出すことしかできなかった。


「だめですか? ちょっと変でしょうか……」

「え、ええと。ダメってわけじゃないんだけど、理由を聞いても?」

「えっとですね。わたし、いま畔さんって呼んでますよね? あなたのこと、『畔さん』って呼んでる人、他にも居そうじゃないですか? どうでしょう?」


 俺は瑠璃羽ちゃんの顔を思い浮かべた。


「うん、居るね」

「『畔くん』や『畔』って呼んでる人は?」


 前者は小桃ちゃん、後者は閑や聖海ちゃんだ。


「それも居る」

「そうでしょう? 『お兄さん』だったら他の誰とも被らないと思って!」

「被るとなんでダメなの……?」

「おもしろくないじゃないですか!」


 世界征服の時点で薄々分かっていたことだったけれど、やはり雪姫ちゃんはちょっと個性的なのかもしれない。


「まあ、いいよ。しばらくは慣れないかもしれないけど」

「いろいろ試してみて、最終的にしっくりくる呼び方に決めますね!」

「お手柔らかにお願いします……?」


***


 そしてテスト当日、教室に到着すると既に張り詰めた空気に満たされていた。


「おはよー」


 なるべくいつも通りの挨拶をすると、何人かがノートから顔を上げておはようと返事をしてくれた。ささっと自分の席につく。全席がテスト期間用に離されていて、茨咲さんの机も遠い。そして当の本人はまだ来ていない。今回も予鈴ギリギリに登校してくるのだろう。

 テスト勉強は……かなり頑張ったと思う。聖海ちゃんにもたくさん教えてもらったし、小桃ちゃんに教えることで理解も深まった。前回のテストよりは上を目指せるんじゃないかと感じている。前日の睡眠時間も充分だ。


「あっ」


 読み通り、茨咲さんは予鈴ギリギリのタイミングで教室に現れた。相変わらず欠伸をしながら着席する。


「おはよう、茨咲さん」

「おはよ~鵠沼」

「テスト、頑張るからな!」

「……うん、がんばれ~」


 茨咲さんはやや塩な態度でそう返した。これは負けられない。

 勉強会メンバーの誰にも言ってはいなかったが、実は密かにこのテストで茨咲さんの壁を――全教科70点の壁を突破することを目標に頑張ってきた。


「席についてくださいねー」


 先生が教室に入ってきた。クラス中の生徒が一斉に参考書の類を鞄の中にしまう。


「教科書、参考書、ノート、ペンケースは鞄の中にしまってくださいね。シャーペンの芯が足りない人は今のうちに挙手! ……居ませんね? では答案用紙を配ります。合図があるまでめくらないように!」


 答案用紙が全席に配られる。一限の教科は俺の得意な国語だ。


「では、始め!」




 そうしてテストの日程は進んでゆき、最終日の数学を終えた。チャイムの音とともに答案が回収され、教室の中は解放感に包まれる。俺も凝り固まった肩を回し、大きく伸びをした。

 いつもより手短な帰りのHRを終えると、荷物をまとめた小桃ちゃんがやってきた。


「お疲れ様、畔くんっ。どうだった?」

「いやー疲れたね小桃ちゃん。手応えはまあまあかな……小桃ちゃんは?」

「えっとね、小桃はね、いつもより空欄が少なくできたかも! ちょっとは成績アップしてるといいんだけど……」

「きっと点数上がってるよ。この後何か予定ある? なければ学食で昼飯食ってかない?」

「賛成!」

「なにやら楽しげなお話が聞こえてきましたわ!」


 急に話に割り込んできた人が居たので驚いた。瑠璃羽ちゃんだ。


「学食でランチなのですわね? わたくしもご一緒させていただけませんこと?」

「いいよ」

「ふふ、嬉しいですわ! さっそく参りましょ!」


 小桃ちゃんがなにか口を挟む間もなく瑠璃羽ちゃんは意気揚々と出発してしまったので、慌ててついていくことになった。

 学食の中はテスト明けの全校生徒で賑わっていた。


「ところで瑠璃羽ちゃん、学食でのお食事の経験は」

「ないですわ」

「だと思ったよ。知らないと焦るだろうから先に説明しておくね」

「よろしくお願いします、畔先生」


 長蛇の列に並びつつ、食券システムと今日の日替わりメニューなどを説明する。


「あとサラダバーはセルフサービスなのでそのつもりで」

「心得ましたわ」

「畔くんはサラダバー推しだよね?」


 小桃ちゃんとは以前にも一緒に学食に来たことがあるので、そのようなことを問われる。


「野菜は大事だからな」

「畔くんらしいね」


 順番が回ってきて、俺たちはそれぞれの注文の品を受け取った。なんとか三人で座れそうな席を探し出す。


「よし、座れた。瑠璃羽ちゃんはおうちの予定とか大丈夫だったのか?」

「連絡は入れましたから大丈夫ですわ。学食の中なら安全だろうからお友達との食事会を楽しんできなさいと返信がありましたし」

「おお……色々と大変なんだな」

「そうでもありませんわよ? 冷めてしまいますわね、いただきましょうか」


 瑠璃羽ちゃんはまだほのかに湯気がたちのぼるできたてオムライスをスプーンですくって食べた。


「あら、なかなか美味しいですわ」

「ああ、そのオムライス旨いよな。ここの学食結構評判いいんだよ。なんでもむかしホテルの料理人だった方が退職後にここで働いてるとか……」

「それは本格的ですわね」


 そういうわけで学食のメニューは瑠璃羽ちゃんにはかなり安く、俺にはちょっぴりお高めな価格設定だ。


「瑠璃羽ちゃんはテストどうだった?」

「今回もいつも通りばっちりですわ。自信あります」

「だ、だよな~。俺も頑張ってるんだけど、いきなり瑠璃羽ちゃんレベルになるのは難しいよ」

「人には向き不向きがありますし、わたくしにはたまたま勉強が向いていただけかもしれませんわよ。まあそれでも、畔さんはミスマーガレットを目指していることですし。更なる努力は大事ですわね」

「だな」




 数日後、テストの結果が貼り出された。





1 灰ノ宮瑠璃羽 総得点498 国語98 数学100 理科100 社会100 英語100

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13 美魚川聖海 総得点480 国語97 数学96 理科96 社会95 英語96

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50 鵠沼畔 総得点366 国語87 数学63 理科70 社会72 英語74

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58 茨咲音夢 総得点350 国語70 数学70 理科70 社会70 英語70

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68 涼白雪姫 総得点310 国語100 数学28 理科51 社会64 英語67

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77 鵠沼閑 総得点276 国語65 数学46 理科47 社会61 英語57

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148 親沢小桃 総得点195 国語30 数学52 理科40 社会35 英語38

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「あっ!?」


 俺は思わず声をあげていた。50位、総得点366点。茨咲さんを上回っている……! でも……!


「数学だけ70点取れてない……!」


 あまりの悔しさに、その場に崩れ落ちるかと思った。なんとか体裁と姿勢を保つ。


「すごいっ、畔くんとっても成績あがってる! 小桃も目標達成したよ! ……畔くん?」


 はしゃいでいた小桃ちゃんは俺の様子に気づくと、心配そうにこちらを伺ってきた。


「どうしたの? 何かショックなことがあったの?」

「目標が……」

「畔くんは全部の成績あがってるし、国語も80点以上取れてるよ! 目標達成だよ?」

「そうなんだけどね……自分の中では全教科70点越えを目指してたんだ。だから数学の点数が足りてなくて……」

「そうだったの? 畔くんってばストイックだね。でも今は頑張った自分を褒めてあげようよ、すごいことだよ?」

「うん……ありがとね、小桃ちゃん」


 小桃ちゃんに宥めてもらいながら教室の中に入った。


「あら畔さん、今回はとっても努力したのではなくて? 素晴らしいことですわ!」

「瑠璃羽ちゃんも……ありがとう」


 瑠璃羽ちゃんも俺の頑張りを褒めてくれる。優しいんだ、みんな。けれど自分で決めた目標を達成できないのはすごく悔しかった。茨咲さんにもテストを頑張ると言ったし、負けられないと思った。総合点は勝てていても、全教科70点越えの目標は達成できなかった。あと少しだったはずなのに。

 席につこうとすると、隣の茨咲さんは枕を抱きかかえて通常運転だった。


「茨咲さん」

「なーにー?」

「テスト、あとちょっとだったんだけど。勝てなかったよ」

「あ~。見たよ。惜しかったね~」

「うん……」

「でも、頑張ったんだね~」


 茨咲さんもそう言ってくれるのか。ちょっと意外だった。


「一応あたしより総合成績いいし、鵠沼の勝ちってことにしてあげてもいいよ?」

「いや。約束は約束だから。次こそ数学も超えてみせるよ」

「……へぇ? 頑張ってね」


 茨咲さんは枕の上で頬杖をついてにやりと笑ってみせた。


***


 その日の放課後はバイトで、出勤した俺はさっそく仕事にとりかかっていた。すぐさまドアのベルが鳴って、咄嗟に振り向く。


「いらっしゃいま……あ、茨咲さん」

「やほやほー。颯爽登場音夢さんだよ~」


 俺が案内するまでもなく茨咲さんはいつものお気に入りの席に着席した。


「鵠沼」


 座るなり茨咲さんはメニュー表も開かずに俺を呼び止めた。


「はいはい、もうお決まりですか?」

「まだ紫陽花ゼリーポンチってある? 六月限定だったっけ?」

「あ、まだあるよ。好評だったから延長になったんだ、今月末まで。材料なくなったら終了だけど」

「じゃあそれで」


 厨房に戻ってオーダーを伝えると、あまり待たずに完成する。上に載っているバニラアイスが溶けないうちに、俺は少し足早にサーブしに向かった。


「お待たせしました、紫陽花ゼリーポンチです」


 紫陽花の名に相応しい紫色のゼリーがグラスにたっぷり入ったゼリーポンチは見ているだけでも癒される。サイダーがしゅわしゅわしている様子が涼しげだ。


「あんまり待ってないけどね」

「レモンシロップをおかけしますか?」

「よろしく」


 シロップの容器を手に取り、零さないように気を付けながらグラスの中に注ぎ入れる。すると紫色のゼリーはレモンの酸性に反応してピンク色に変化した。


「鵠沼、綺麗だね」


 茨咲さんはグラスの中をじっと見つめながらそう呟いた。窓の外は夕焼け模様で、太陽が水平線に溶けていく景色が美しかった。

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