第8話「いつか聞くから、待ってろよ」

 恐らく自分の真横の壁を蹴って威嚇される、という経験は灰ノ宮さんにはなかったのだろう。俺もないけど。ドラマやアニメに例えるなら、顔の真横の髪に銃弾を飛ばして「いまのはわざと外してあげたのよ?」と脅すシーンのようなものだ。

 茨咲さんは大人しくなった灰ノ宮さんを見据えた。その目は恐ろしく据わっていた。茨咲さんのあんな表情を見るのも初めてだ。


「お前黙って聞いてりゃ勝手なこと言いやがってさぁ。いちいち突っかかってうるせぇんだよ!」

「あ、あわわ……い、茨咲さん言葉遣いがよろしくなくってよ……」


 灰ノ宮さんの抵抗は無視される。


「鵠沼になんの恨みがあんのか知らねぇけど、そんなでけぇ声で騒いでたら周りの奴だって迷惑するしあたしもイラつくんだよ、分かるだろ?」


 確かに結果用紙の前に集まっていた他の生徒たちも迷惑そうな顔をしている。自分の考える正しさを信じる灰ノ宮さんにとって、これは口を噤まざるを得なかった。怯え、呆れ、そういった負の感情を浮かべた目に、灰ノ宮さんは囲まれていた。

 灰ノ宮さんが口を閉じたので、茨咲さんは更に畳みかける。


「言っとくけど人間の価値を成績で測ろうとかアホみてぇだし、お前の成績がいいことはお前の態度と性格が悪いことへの免罪符にはなんねぇから!」

「な……」


 灰ノ宮さんは反論しようとしたが、周囲の視線が茨咲さんの発言に同意していたために、それは叶わなかった。

 静まり返っていた廊下は徐々にひそひそ話が始まったり、その場を立ち去る者があったりと状況が収まりつつあったが、階段の下から生徒指導課の先生が駆けつけてきた。


「コラー! 喧嘩するんじゃない!」


 先生が灰ノ宮さんと茨咲さんの目の前まで辿り着くと、間髪入れずに茨咲さんが灰ノ宮さんを指さした。


「灰ノ宮が鵠沼と親沢をいじめてました!」

「なっ!? 言い方が悪いですわ! 茨咲さんだって壁を蹴ってわたくしを威嚇しましたわ!」


 灰ノ宮さんも負けじと茨咲さんを指さして告発する。

 生徒指導課の先生は二人と周囲の様子を見比べてため息をつく。


「二人とも職員室に来なさい!」


 完全にお説教コースだ。灰ノ宮さんと茨咲さんは互いをにらみ合いつつ、しぶしぶ先生の後をついていった。




 午後の授業が始まる直前になってようやく二人は教室に戻ってきて着席した。俺は隣の席である茨咲さんになにか声をかけようとしたが、チャイムにかき消された。

 五限目を終えて俺は茨咲さんに少し声のトーンを落として話しかけた。


「茨咲さん、さっきは庇ってくれてありがとう」


 そう伝えると、茨咲さんは首を傾げて答える。


「いや……? あたしが不愉快だったから言っただけだし~」


 庇ったつもりはない、と言いたいらしい。それにしては「灰ノ宮が鵠沼と親沢をいじめてました」と告げ口していた気がするが。


「そういうことにしとくけど……。でも、人の価値を成績で測るなって言ってる茨咲さんも俺に『勉強できない人には教えてあげない』とか言ってなかった? その割に茨咲さんの点数もそんなに……すごい上位ってわけでもないし……」


 あんなことを言うのだから、茨咲さんはさぞ成績がいいのだろうと……聖海ちゃんの12位くらいの位置には居るのかと思っていた。しかし茨咲さんと俺との順位差は15位しか変わらない。

 茨咲さんは含みのある笑みを浮かべた。赤いアイシャドウが印象的だ。


「本気出してないんじゃ、って言ったのは鵠沼の方でしょ~?」

「まさか……」

「全教科ぴったり70点にするなんて、すごいと思わない~?」


 確かに茨咲さんの点数は全教科ぴったり70点だった。そのくらいの学力の人だったとしても、設問の配点を計算してわざと点数を合わせる……なんて酔狂な真似はしないだろう。


「狙って全教科70点にしたのか……!?」


 だとしたら、実際はもっとずっと上の点数を取れるはずだ。俺は茨咲さんのことが少し恐ろしくなった。


「あたしはね……『お前のせいで傷ついた』って、加害者扱いされたくないだけなんだよね」


 茨咲さんはぽつりとそう零した。それは聞き逃してはならない、重要な言葉だと察することができた。点と点はまだ繋がらないけれど、俺が茨咲さんよりもいい成績を取ることができたら聞き出せるはずだ。そうする義務なんかない。だけど、茨咲さんの言葉は、「助けて」と言っているように思えたのだ。


「いつか聞くから、待ってろよ」

「楽しみにしとく~」


 そう答えた茨咲さんはすでに、いつもの調子に戻っていた。


***


 放課後になると、小桃ちゃんが俺のところへやってきた。


「畔くん、今日も空いてる? 一緒に勉強したいな」

「もちろん」


 荷物をまとめて特別教室へ入る。部屋の照明を点けると、机の上のクリアファイルが目に入った。


「誰かの忘れ物かな?」


 クリアファイルを手に取り、落とし主の情報がないか確認する。さすがにクリアファイルに名前は書いていないが、透明なファイルの中身は花の種の袋のようだった。


「花の種持ち歩いてる人って居るか……?」


 うーんと頭を捻っていると、閑が放課後勉強会に合流してきた。


「来てると思った。私も参加していい?」

「閑ちゃん! うんうん、一緒に勉強しよ!」


 閑と小桃ちゃんはこの勉強会を通して仲を深めたようだ。閑も自分から積極的に友達を作りに行く方ではないので、俺としても喜ばしい。


「なぁ閑、花の種を持ち歩いている人ってどんな人だと思う?」


 唐突に訊ねられ、閑は何秒間か沈黙して考えた。


「……園芸部の人とか?」

「うちの学校って園芸部あるんだったっけ?」


 我が山手清花には数多くの部活動があり、元女子校という特徴からか文化系が大半を占めている。反面部活への入部は強制ではないので、所属人数が少なく存在が知られていない部活も多いらしい。


「詳しくは知らないけど。うちのクラスに園芸部の人が居るから、その人かも。さっき月組が移動教室でここを使ってたし」

「知り合いなの? 名前分かる?」

「ちゃんと話したことはないけど、涼白すずしろさんって人だよ。屋上庭園で活動してるんじゃない?」

「分かった。俺ちょっと行ってくるから、二人は先に勉強会始めてて」


 俺はクリアファイルを手に屋上庭園を目指して階段をのぼり始めた。屋上庭園なるものが存在していることは知っていたが、なかなか実際に行く機会はなかったので少しワクワクしている。というのも、山手清花の屋上庭園は遠くから校舎を眺めたときに一番目立つ場所なのだ。ドーム状にガラス屋根が取り付けられたその場所は行き交う人々の目を引く。中から見たらどんな景色なんだろう、と思いながら俺は辿り着いたドアを開けた。

 ドアの向こう、屋上庭園は思わず息をのむ圧巻の景色だった。初夏の新緑は空間全体を覆い、道端ではそうそう見かけないような形の葉をつけた木々が生い茂っている。ちょうど見頃なのか、白やピンクの薔薇がアーチを伝って咲いていた。近づくと瑞々しい香りがする。


「目的を忘れるところだった……」


 場の空気に圧倒されて植物鑑賞をしてしまった。俺は気を取り直して奥へと進んでいく。ある程度進んだところで、前方からパチ、パチ、と音が聞こえてきた。何かを切っている音……剪定だろうか? 俺はゆっくりと草木の向こうを覗き込んだ。

 そこには、なんだか黒っぽい女の子がしゃがみこんでいた。黒っぽいシルエットの印象は、学校指定の黒いジャケットを着た背中、ボブカットの黒髪のせいだろう。この人が涼白さんなのか?


「あのー、すみません」


 俺が背後から話しかけたのでびっくりしたのか、彼女は反射的に振り向きながら立ち上がった。その頭は屈んでいた俺の胸のあたりに直撃する。


「ぐえ」

「あっ……! ご、ごめんなさいっ、急に立ち上がったりして……!」


 女の子は謝りながら俺から離れようとするが、何かが引っかかって途中で動きが止まった。見ると、彼女の毛先が俺のブラウスのボタンに引っかかってしまっていた。


「あ、えと、えと、すみません、えっと……そうだ、ちょうど剪定用の鋏を持っているので! これで切れば……」


 彼女は迷わず自分の髪に剪定ばさみを当てようとした。


「待って! そんな慌てなくてもほどけるかもしれないし!」

「で、でも、お手を煩わせるのは……」

「せっかく綺麗な髪の毛なのに、こんなことで切っちゃったらもったいないよ!」

「えっ……」


 それまでブラウスのボタンに注がれていた視線が、はっと俺を見上げた。顔を上げた彼女の髪の隙間から覗いた肌はとても白く、そのコントラストに少し驚かされた。そうやって俺が止まっていると、彼女の瞳からははらりと涙がこぼれ落ちた。


「え……!? ご、ごめん、俺まずいこと言った!?」


 女の子は剪定ばさみを地面に置き、空いた手で涙をぬぐった。


「いえ……そうではなくて……あなたは綺麗って言ってくれるんですね、わたしの髪を……」

「……なにかあったの?」


 女の子は、言うか言うまいか迷っている。そこで、俺は彼女が手放した剪定ばさみを拾ってボタンを縫い付ける糸の方を切った。すると髪とボタンの絡まりは解ける。


「えっ……! そんな……!?」

「あーあ、ボタン外れちゃったなー。お詫びに俺の要求を一つ叶えてもらおうかなー」

「えっ、な、なにを要求されるんですか……?」


 女の子は怯えた表情になる。彼女に向かって、俺はちょっと笑って見せた。


「今、君が言おうか迷っていることを洗いざらい告白してもらおうか!」

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