第6話「変わりたいって思った日が、変わるのに一番いい日だよ」
「小桃ちゃん!」
俺は
幸いなことに小桃ちゃんの走る速度は遅く、すぐに追いつくことができた。勝手に触れたら怒る女子も――だなんて、言っていられる場合じゃない。俺は小桃ちゃんの手を掴んだ。
「ひゃ!」
小桃ちゃんは驚いて悲鳴を上げたが、そこで立ち止まってくれた。
「ごめん、俺があそこで踏み込んだ質問をしたのがダメだったよな。でも灰ノ宮さんの言い方ってないよ。気にしなくていいから……」
小桃ちゃんはこちらを振り返ったけれど視線を地面に落としたままなので目が合わない。彼女の両目からはぽろぽろと大粒の涙が溢れていた。
「……泣きたいときは泣いていいと思うよ」
「うん……」
小桃ちゃんは俺の胸に縋りついて泣く。幼少期によく泣いていた閑をあやすイメージで、小桃ちゃんの頭を撫でた。
「私ね……ずっとコンプレックスだったの……」
『信者枠』として入学したことが、だろう。指摘はせずにそのまま聞く。
「だって、本当に信仰している人と違って、洗礼を『利用』してるわけだし……。勉強できないのは本当だから……」
「うん、うん」
「でもね、私……本当はずっと変わりたいの……! 胸を張っていられるようになりたい……!」
それは、彼女の心からの吐露だった。それを俺に打ち明けてくれた。力になりたい。
俺は小桃ちゃんの両肩に手を置いた。
「小桃ちゃん」
小桃ちゃんは目元をぬぐいながら顔を上げる。真っ赤に腫れた目で、ようやくこちらを見た。俺もしっかり目線を合わせて言う。
「変わりたいって思った日が、変わるのに一番いい日だよ。今日から変わろう」
小桃ちゃんは目を見開く。
「でも……どうしたらいいのか分からないの。勉強は頑張ってるつもりだけど、成果は出てないし……」
「そ、それは俺も
期待はずれな思いをさせてしまっただろうか。それでも小桃ちゃんは首を振る。
「ううん、ダメじゃない。畔くんとだったら、頑張れる気がするから……」
***
二日目の日程を終えて送迎バスで清花の前まで戻ってくると、校門前で解散ということになった。
「今日から始められることを思いついたぞ」
バスを降り、俺は小桃ちゃんに話しかける。
「それは――ずばり、早めに寝ること!」
「えっ?」
小桃ちゃんは聞き返す。
「もっとこう、参考書に取り組んでみるとか……そういうことじゃないの?」
「今日はもう疲れただろ。集中しにくい状態でやっても効果ないと思うんだよな。だから、明日に備えて早く寝る! それで、明日の朝に頑張る」
「明日の朝?」
「そう。小桃ちゃんさえよければなんだけど、朝早めに登校して勉強会しないか?」
「なるほど! 名案だね」
集合時間を決め、そこで小桃ちゃんとも今日は解散ということにした。
同じ家に帰るのだし、閑と合流しよう。
「おーい閑ー」
「畔。おつかれ」
だいぶ人もまばらになって、閑はすぐに見つかった。閑はぐっぱと手を握る謎の動きをしてみせながら目の前までやってくる。
「じゃあ俺たちも帰るか」
閑は頷く。そのとき、不意に背後から声をかけられた。
「鵠沼さん」
俺と閑は声のした方へ同時に振り返る。そこに立っていたのは、なんと理事長様だった。だいぶ年若く見える黒々とした髪の彼は、まだ先代の理事長様から交代して年数が浅いという噂を聞いたことがある。確かに「名門校の理事長様」と言われて想像するような厳かな雰囲気の人ではない。
「あ! 理事長様、こんにちは」
「こんにちは」
俺が少し緊張しながら挨拶をすると、閑も続けて会釈する。
「そうだ、二人とも鵠沼さんですよね。畔さん、今時間ってあるかな?」
「はい。閑、先に帰ってるか?」
「自習室で待ってる」
「……だそうです」
「分かりました。立ち話もなんなので、畔さんは来てください」
俺は理事長様に案内されて、理事長室に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。学園生活はどう? って聞こうとしただけなので」
それは入学前に交わされた約束だった。女子用の制服の着用許可や、お手洗いなどの男女別にルールのある場所の立ち入りの取り決めなど、あらかじめかなりしっかり相談に乗ってくれた。だから、偉い立場の人に対する緊張感はあっても、恐怖感はない。俺は少し肩の力を抜いた。
「はい。ぼちぼちって感じですかね」
「それならよかった。嫌な態度を取ってくる人は周囲に居ませんでしたか?」
「あー……まあ、殆どの人は常識の範囲内の接し方をしてくれます」
「おや。誰かと喧嘩でも?」
「あの……灰ノ宮さんが……」
俺が言いづらそうに口籠っていると、ああ、と理事長様は思い当たるような反応を示した。
「灰ノ宮瑠璃羽さんですね。そういえば少し噂は耳にしたことがあります。彼女、成績は優秀なんだけどね。つらく当たられたりしましたか?」
「まあ、そうですね。俺だけだったらまだ、異分子に対する拒絶なのかなって思えるんですけど……」
錬成会のなかで灰ノ宮さんが小桃ちゃんに対してどのような言葉を投げつけたのか説明した。
「……なるほど、それはいけないですね。担任の先生にも伝えておきます。まあ、『信者枠』と呼ばれるような措置を取っていた学校側にも責任はあると思いますがね……」
「でもそれは、理事長様――喜多川先生が理事長になる前の話なんですよね?」
「そうですね。やはりその制度は廃止にして正解だったような気がします」
どうやら、歴史ある清花も時代に合わせて変化しているようだ。
「少し話が逸れちゃったかな? お手洗いや着替えなどには不便してないですか?」
「大丈夫です」
「ズボンタイプの制服が必要になったときは、購買で問い合わせてくださいね」
「はい。冬はそうするかもしれないです」
「他に何か相談があれば乗りますよ」
灰ノ宮さん関連はもう話したし、他に相談できることがあるとすれば……。
「そうだ。朝、友達と勉強会をしたいんですけど。自習室や図書室だと、会話はできないですよね? 教え合ったりするために話せる場所で勉強したいんですけど、どこかちょうどいい部屋ってありませんか?」
「いい心がけですねぇ、勉強熱心な人は応援したいな。普通教室の廊下を挟んで向かい側にある特別教室は分かりますか?」
「はい。移動教室で使ったりする部屋ですよね」
「そこなら朝は誰も使いませんので、話し合いながら勉強をするならおすすめですよ」
「ありがとうございます! じゃあ、さっそく明日から使わせてもらいます」
「――鵠沼さんは、ミスマーガレットを目指しているんでしたっけ?」
不意にそう切り出され、俺は少し驚いた。
「理事長様の耳にも入ってました?」
「先生は意外と生徒を見ていますよ」
「ははは……ありがたいことですね……。そうなんです」
「理由は、聞いてもいいのかな?」
俺はその輝かしい栄光の座を目指す理由の、心の中でぐるぐると絡み合う複数の要素を一つずつ解いて取り出す作業を迫られた。大丈夫、これは自分を見つめなおす機会だ。早めに明確にしておくべきなんだ。
「まず、ミスマーガレットに選ばれると、提携先の大学の中から好きなところに推薦で行けるって聞いたので――俺の学費が浮けば、双子を育ててくれている両親が助かるかな……っていうのは、あるんですけど」
理事長様は口を挟まずに聞いていてくれる。
「でも、一番の理由はそれじゃないんです」
「その一番の理由というのは?」
「――優勝って、カッコイイから! です!」
思い切って本心を口にした。笑われるだろうか? 顔色を窺うと、理事長様は確かに笑っていたが、それは呆れや嘲りなどではなかった。
「いいね。優勝、目指そうよ」
「はい! なので、まずは勉強を頑張ろうかと……」
「じゃあ、私から渡せるチャンスについて話そうかな」
「チャンス……ですか?」
思いがけない方向へ話は向かってゆき、俺はピンと来ずに首を傾げた。
「良い成績を讃えるひとつの指標として、『ミサでの聖書朗読』があることはもう知っているね?」
俺は頷く。
「入学式、始業式は生徒会長。クリスマスミサ、卒業式はミスマーガレット。というのが恒例のパターンなんだけどね。他のタイミングで行われるミサの聖書朗読の担当者には、明確な決まりはないんだ。そのとき手が空いていそうな人を――主に成績のいい順に声をかけて当たる。そんな感じで決めているね。そこで、ですよ。五月末に、『学園の日のミサ』があります」
『学園の日のミサ』というのは、山手清花学院の創立を記念する日の行事だ。
「ちょうどいいタイミングで、五月の半ばに中間試験があります。そこで……高等部一年の生徒の中で、一番総合成績が良かった人を『学園の日のミサ』の聖書朗読担当者に指名します」
「……ということになったんだ」
帰り道、俺は理事長様と話したことをかいつまんで閑にも聞かせた。
「理解のある人で良かったね」
「そうだな。でもなー、今から勉強を頑張っても一位はなぁ……」
「アベレージマンには厳しい」
閑の言う通り、俺の成績は全教科ほぼ平均点くらいだ。他の教科と比べると体育がちょっと高い程度で、お世辞にも成績優秀とは言いがたい。
「頑張るにしてもやり方を考えないとな。どうすればいいと思う?」
それを私に訊くの? と閑は表情で答える。
「アドバイスお願いします、閑さん。藁にも縋りたい思いなんだよ」
「私を藁呼ばわりとは失礼な。勉強できる人に教えてもらうのがいいんじゃない?」
「勉強できる人のアテがないんだよ」
そう口に出して言ってみて、茨咲さんはどうだろうと思い浮かべた。彼女の口ぶりからして、相当頭がいいに違いない。こんなことになるならLINEを聞いておけばよかった。あいにく連絡手段は持っていない。
「でも」
ふと閑は立ち止まる。俺もそれに合わせて歩くのを止めた。
「畔がミスマーガレットを目指してる理由。大学の学費免除だけじゃなかったんだなって」
「あー、うん。いいだろ?」
優勝ってカッコイイから。理事長様に話したことを閑にも伝えていたので、そのことを指しているらしい。
「いいと思う。畔はいつも他人のために頑張ってるから、自分のための目標ができたなら嬉しい。私も、応援する」
「ありがとう。閑なら応援してくれるだろうなって、ちょっと期待してた」
「もっとありがたがってもいい」
「はは~閑様~」
俺は閑をさするとご利益のある観音様かのように頭を撫でて崇め奉る。
「くるしゅうないわ」
閑もなんだか満更でもなさそうな顔をしていた。
***
翌日、約束通り小桃ちゃんと勉強会をするために早めに家を出発した。普段は低血圧で死ぬほど寝起きの悪い閑は、昨日早めに寝た、とピースしながらついてきた。
まずは教室で荷物を置いて、それから特別教室に向かおう……と支度をした。いつもは賑やかな一年花組の教室も、この時間だと誰もおらずとても静かだ。小桃ちゃんもまだ到着していないようだった。ノートと教科書などをまとめて抱え、教室を出た途端――俺は誰かとぶつかった。本当に急なことだったので避けることもできず、相手は後ろに転んで尻もちをついた。
「ご、ごめん! 気づかなかった! 大丈夫か?」
慌てながら相手の様子を確認すると、彼女が見知った人物であると分かった。
「あれ? 美魚川さん……?」
美魚川さんはツインテールの髪を揺らしながらゆっくりと立ち上がる。目を引くミントグリーンのカーディガンが爽やかだ。
「……? 畔?」
「そう! 本当にすぐ会えたな」
「制服姿の畔だね」
「美魚川さんこそ。あれ、リボンタイの色、青なの?」
俺はついつい相手のファッションに興味津々になってしまって訊ねた。本来ならば一昨日の捻挫のこととか、先に訊くべきことがあったのに。けれど美魚川さんは何も気にしていないかのような調子で淡々と答えてくれた。
「そう、男子用の制服にセットになってるネクタイ。僕も畔と同じ。採寸のときに青いリボンでもいいですか? って聞いたの」
「そうなんだ。なんで? とか訊いてもいい感じ?」
美魚川さんはくす、と微笑んで言う。
「青いリボンのほうがかわいいから」
それは、実に俺が好きな受け答えだった。
「俺と同じだな」
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