第1章:たった1つの冷たいやり方

第一幕-1

 品川敬一は驚愕した。

 今、目の前に広がる光景がおかしい事を彼は理解した。敬一には幻覚や異常な妄想癖はなかった。彼は彼なりに考えるどこにでもいるただの大学生である。

 少なからず、敬一はアニメやゲームなどのサブカルチャーにはまってはいた。だが、彼の趣向も病的なものではなかったし、人より人生における良くない経験は多くても、精神的に病む程の悲観主義者でもなかった。


「頭が痛い……昨日飲み会なんてあったか?宅呑みなんてしてないしな……」


 頭を何度となく殴られるような酷い頭痛と全身を打ち付けたような痛みが思考を鈍らせるため、敬一は正確な判断ができなかった。だが、靄のかかった様な思考の中でも、彼は何とか昨晩の記憶を呼び起こし頭痛の原因を探ろうとしたのだった。


「昨日は…大学行ってバイトして……それで……それでどうしたっけ?」


 敬一の判断力は全身の不調を前にして鈍っても、不思議と記憶だけはしっかりとあり、はっきりと記憶を思い出す事が出来たのである。彼の昨日の記憶は、早朝から昼まで大学3年の講義を受けた後にアルバイトで深夜まで働き、疲れ果ててベッドに倒れこんだという大学生にしては味気ないものだった。


「何だ?妙に寒いな……またパンツだけで寝てたのか?」


 敬一の体からゆっくり痛みが引くにつれて、彼の全身には皮膚を刺すような寒さが感じられるようになっていた。だが、その寒さはエアコン独特の機械的な冷気ではなく、氷等の冷たい物を押し付けられた様な感覚に近いのである。


「おっかしいな……玄関の床で寝たのか、私?ベッドに倒れたのは記憶違いか。服だけ脱いで、歯磨きもしないで寝るなんてよっぽど疲れたのか……」


 寝起きの口の中が粘つく感覚や痛みの引いて体に感じる倦怠感から、敬一は昨日がそれ程に疲れる1日だったと納得した。

 そして、口の中の不快感を少しでも何とかしようと舌で口の中を舐めてみた敬一は、自分の口の中にふとした違和感を覚えたのである。

 敬一は自分の犬歯が変に長い事に気付いた。


「あれ……こんなに犬歯って長かったか?大体……えっ?」


 とは言え、敬一の感じた犬歯の違和感や倦怠感も、見上げた視界に突然広がる星々の輝く広い夜空と、穴の空いたガラス天井を見れば呆気にとられて忘れるだろう。

 自宅では確実に発生する訳のない状況に、敬一の理解は追い付かず、情報だけが流れ込んで彼の心は少しずつ恐怖を感じ始めたのである。


(えっ、外ってどういう事だよ!帰って来た時、妹は……アイツはいなかったし、そもそも私は空気扱い。合鍵持ってる友達なんていないし。だいたい寝てる奴を連れ出して外に放置とか常識がなさすぎるだろ!)


 訳のわからない状況に混乱しつつも体の倦怠感が引いたとき、敬一は反射的に急いで立ち上がった。それは、異常の渦中でもとにかく周りの状況を確かめたいという気持ちの表れである。なにより、彼の心には今の状況が知り合いの誰かしらがテレビ局か何かと仕掛けた悪質ないたずらの類という願いが溢れている。そのため、周りに誰かが隠れている事を願い確かめる為に彼は立ち上がったのだった。

 だが、敬一の思いと裏腹に、月の光が照らすその広い部屋には人の気配が無く、石造りの壁には大きな黒いシミが無数にあり、床には人の形を維持した鎧が10体以上倒れていた。


「何なんだよこれ……あれ?眼鏡が無いのにちゃんと見える!コンタクトレンズ着けっぱなしだったか?だとしても、何でこんなに夜目がきくんだ」


 月明かりが差すとはいえ部屋の中は薄暗く、本来見えないはずの周りの光景が見えることやその光景に、敬一は混乱し思ったことを全て口に出していた。その混乱の中で、彼は一歩後ろに引いた足で1体の鎧を蹴っていた。

 敬一は視線を間違って蹴った鎧へ思わず向けた。ゴシック様式のフルプレートアーマーは蹴られた衝撃でその身をよじらせると、脇腹を覆う装甲の隙間から何かがはみ出し外側へと流れた。赤黒くアンモニア臭を放つそれが明らかに腐敗しかけた内臓と理解できた時、敬一は理解できない現状と人型の死体か数多くあるということ、何より死の恐怖の前に呆然とした。


「あっ……うえぇ……しっ、死体!ほっ、本当に何なんだよこれ。何が起きてんのっ!」


 胃の中に何も入ってなかったのか、敬一の喉に胃液と唾液の混ざった物が込み上げてきた。それを必死に胃の奥に押し戻した後に、彼は惨状を前に驚きと恐怖の言葉を漏らしつつ、自分が全裸であることに気づいた。 

 突然の理解出来ない様々な事に思考が追い付かず、敬一は思わず足の力が抜けると、その場で座り込み星空をただ仰ぎ悲痛な言葉を漏らしたのである。


「いきなり何なんだよ……誰でも良いから冗談だって言ってくれよ……言えよ!脅かすにしても趣味が悪いぞ!」


 込み上げてくる嘔吐の感覚で目尻に涙滴を滲ませる敬一は、蚊の泣くような声で訳のわからない状態を前にただ呟くのだった。


「こんな事で泣かれては先が思いやられるわ」


 だが、部屋にたった1人と考えていた敬一に向けて冬の風のような冷たい声が突然響き、彼の嘆き吐き捨てるような感想を述べたのであった。

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