帝国再興記~Gartschlands Gloria~

陸海 空

第1部:帝国の希望

序幕

 雲一つ無い満月の夜の事である。

 男は一人、広い部屋の中心に血まみれで立っていた。男の身長は3メートルを優に超えるほどの大男であった。そして、筋骨隆々としたたくましいその肉体の全身には黒い鎧を着込んでおり、角や棘などの禍々しい装飾とあちこちに飛び散っている血は月の光を受けて鈍く輝いていた。

 男の立っている部屋は縦に広く、中央に赤い絨毯の敷かれた部屋にはきらびやかな装飾品や彫刻で溢れている。それだけではなく、天井は色鮮やかなステンドガラス張りとなっていた。その内装は、如何にも高貴な者のみが入室を許される部屋といった様相であった。

 立ち尽くす男の背側に大きな扉があり、彼の前方である部屋の奥にシンプルではあるが優雅さを醸し出す椅子が1脚あることが、その部屋が玉座の間であることを表していた。

 男は椅子へ向けて歩きだす。鍛え上げられた筋肉と鎧の重さを感じさせる鈍い音が踏み出す毎に部屋に響くと、彼の鎧の隙間からは勢いよく鮮やかな血が吹き出し、口から苦悶の吐息が漏れ出した。それでも重々しい足音を部屋に響かせる男は椅子の前まで歩くと、まるで崩れるかのようにそこへと座り込んだ。彼が座り見上げる椅子の上の天井はステンドガラスはなく大理石のような石造りあり、椅子の横には帳が平行に広がっていた。


「娘よ…」


 ほの暗いその椅子の上から放たれた男の声は、彼の屈強な体つきに似合わない痩せ細った老人のように嗄れている。その声から男の肉体は既に限界を超えて、彼の命さえ薄らぎつつあることを感じさせたのだった。

 すると、男の声に促されたのか帳の裏の暗闇から1人の少女がゆっくりと姿を現した。


「はい」


 少女は深紅のドレスを身に纏っていたため年より大人びて見えるが、手足が細く肩幅から何まで小さいその姿はまだ5、6歳といったところである。

 その少女は、自分を娘と呼ぶ男に震えた声で短く返事をすると、疲れ果てた父親の元へと力強い足取りで歩み寄った。だが、その足取りに反して少女の肩は震え、瞳には涙が溜まっていたのだった。


「私は、もう駄目なようだ。歳の割には頑張ったがな……」


 椅子に座る男は傷つき弱ったその体の底から振り絞ったかの如き細声で自身の娘である少女へと語りかけた。そのか細い声は、無理に明るく必死に娘の悲しむ顔を払おうとする父親の言葉にだった。

 だが、男の息も絶え絶えの言葉や緩んだ兜の隙間から僅かに見える苦悶混じりの笑顔に、彼の側に立った少女は俯きその肩を悲しみに震わせた。


「また……私を……1人にするの?」


 俯く我が子から放たれた不安と悲しみ満ちた弱々しくか細い声に、男は言葉を失った。悲しむ娘にどう言葉をかければいいのか解らない男は、己の父親としての不甲斐なさに溜め息をつこうとして咳き込んだ。

 男が咳き込んだ反動で顔を俯けると、彼は胸の底に溜まった不快感が込み上げ、口の中に吹き上げたのである。それを必死に押し込もうと兜越しに手で抑えるも、兜前面の隙間から血が溢れ、その父親の苦しむ姿に少女は顔を上げた。大切なものを失う恐怖に怯える娘の表情は男の父親としての心を大きく傷つけ、彼は思わず彼女から視線を反らしたのだった。


「善き隣人に恵まれなかった。さだめと言うには過酷だな。だが私は……」


「あなたは……また私を1人にするの!」


 胸の底に溜まった血を吐ききった男は、己の情けなさとそれをどうにもできないことに力無い口調で言い訳を始める。

 だが、男の弱った言い訳は娘からの孤独に対する恐怖と悲痛に満ちた叫びによってかき消された。その叫びを前に、男は俯いて娘から避けていた視線を彼女に向けた。

 兜越しで影となって隠れる瞳は見えないながらも、父親からの視線を受ける少女は握り締めた拳を震わせながら男へ歩み寄った。彼女は瞳に涙を溜めながらも必死に堪え、弱り今にもその命を消しそうな父親の側へ立ち、彼と向き合った。自分の前に立つ娘のその姿に、男は再び溜め息をつくと拳を強く握り締め彼女の瞳を振り絞った気力で強く見つめ返したのである。


「私の娘なら、わかるだろう。私は退けぬし逃げてはならぬのだ」


 男のその一言に、少女は目を見開いた。そのまま自分の父親へ言葉を掛けようとした彼女だったが、開けた口からは言葉が出なかった。どれだけ考えても言葉にならない思考を前に、彼女はやがてうつむき溢れ出そうになった涙を堪えるように唇を噛んだ。


「君だけでも……生き残れ。そこの杖はもって行け。それだけは……あの蛮族どもにくれて……やるには惜しい……」


 男は部屋の隅に立て掛けられた1本の杖を震える手で指し示し、少女へと語りかけた。彼の指差す先にあったその杖は、宝石で彩られてあるが玉座の間にある物にしては随分控え目な銀の杖であった。

 父親の言葉に少女が頷き杖の元へと向かおうとすると、男は自分の前から去りゆこうとする少女へと手を伸ばした。

 だが、男の手は空を切り、少女が杖を手に取って戻ろうとしたときには扉の外から何かが弾けるような音と大人数の男の怒声が響いたのである。


「どうにも時間が無いようだ。何も言わずにとにかく逃げろ」


 男は拳を握りしめ呟くと、椅子の肘おきの横に付いてる宝石の一つに手を伸ばし軽く回した。すると、杖の立てかけてあった場所の近くの壁が音をたてて動き出した。そこに現れた隠し通路は少女が這いつくばってようやく通れるほどしかない小さなものだった。

 開いた通路を一瞥した少女は、歯を食いしばり父親の元へと戻ろうとした。

 だが、少女のその歩みを止めるように手をふると、男は死に体に鞭打って立ち上がり部屋の扉の元へと歩み出した。その姿を前にした少女は、杖を握る手の震えを必死に抑えつつ、悲しみと涙を堪らえようと強く瞳を閉じると、男に深く一礼して隠し通路に小さな体を押し込んだのだった。


「こんな父親ですまなかった……それでも、私の娘でいてくれてありがとう……」


 鎧が擦れ、地響きのような足音と共に少女の耳元を男の声が流れていった。それと同時に隠し通路の扉は閉まり、大きな爆発音と無数の怒声の残響が通路の中にこだましたのだった。その父親の最後の声に少女は一瞬身をよじり、視線を下げ少し止まると既に閉じた扉を見つめた。

 だが、絶望と不安、理不尽への怒りが涙とともに溢れ出すと、少女はその身を再び前へと進ませたのである。


「いつの日か。絶対に」


 漏れ出した心の声に驚いた時、少女の角と杖がぶつかり鈍い音が広がった。

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