にょろ

第7話

 劇場の暗幕をくぐった途端、そこは異世界に変貌へんぼうする。目の前にあるものは全て、実態のない天然色の影に過ぎない。おびただしい隠喩メタファーにより不定形に膨れ上がった虚像。歪められた核は、やがて原型を留めなくなり、隠微で美しいものに生まれ変わる。散りばめられたマクガフィンと、リキッドライトに色付けされた光の中で主客は逆転する。虚像こそが本質としてそこに君臨するのだ。


──『にょろ』を探しています。『にょろ』を知りませんか

──それは何だい。ウナギかい? ドジョウかい?

──違います。『にょろ』は……。

 一人の若者が、『にょろ』という何かを探している。出会う人が正体を訪ねても、若者の答えは掴みどころがない。しかし人々は何故か皆、その不可解な存在に心を惹かれ、探し始める。どこを探しても、それは見付からない。見付からないが故に『にょろ』という得体の知れないものが、静かに人の心を侵食していく。

『にょろ』に取りかれた人々は、緩やかに狂い始める。信じていた何かの裏切りに気付き、救いようのない絶望と共に戦慄の沼へと足を踏み入れる。

──『にょろ』を見ませんでしたか?

 若者は、愛しい者を語るように、その名を口にする。

『にょろ』とは何だろう。誰も知らない筈のそれが、いつの間にか絶対的な恐怖の対象として認識されていく。人々はそれを追い求め、一人、また一人と、這い出せぬ罠に落とされていく。

 若者は問いかける。呪いの言葉のように。

──『にょろ』を知りませんか?

 屍という足跡を残しながら、若者は『にょろ』を探し続ける。

 暗転。


 カオスでは次の公演の準備が進んでいた。前回の『魔王』は、いわば新人脚本家の発表会のような位置づけであったが、今回のテント芝居は本公演である。舞台装置も大掛かりで、出演者の人数も多い。演し物は、平岡仙太郎作『にょろ』。演出・平岡葵、主演は笹村隼人である。

 稽古場である倉庫の中程に暗幕を張り、奥側に舞台セットが組まれている。入り口側は裏方用の場所で、大道具小道具の準備に大忙しだ。厚いカーテンを通してセリフが聞こえて来る。それに被る葵の厳しい声が、裏の空気まで緊張させた。葵は妥協を許さない人だ。その指示は的確で揺るぎがない。古株の役者たちに比べて年齢が若いにも関わらず「葵先生」と呼ばれる所以ゆえんだ。役者たちも、かなりピリピリしている。昨夜は隼人が、彼らしくない剣呑けんのんな感じで誰かと電話しているのを見かけた。

 顔を上げると、次の幕で使う背景画のパネルが壁一面に貼られている。トリックアートにより非常に立体的な舞台背景は、光の当たり具合で様々な顔を見せた。

「さとみん、四幕の小道具が入ったダンボール取って来てくれ」

 遠くから声が飛んだ。役が与えられなかった俳優たちは、すべて裏方にまわる。それぞれのトップの指示のもと、手足となって働くのである。皆で力を合わせて公演を成功させようという熱気が感じられた。

 カオスには役者志望の若者は沢山集まるが、脚本家志望で入ったのは今のところ、さとみだけだ。カオスの芝居は「平岡脚本ありき」であり、そこに討ち入ろうなどという度胸のある者はいないのである。さとみに、葵の従妹であるというコネが存在することは否めない。当然、なかなか皆と馴染むことは出来なかった。特別な存在として気を置かれる日々を過ごすうちに少しずつ、本当に少しずつ、さとみは受け入れられていった。前回の公演で認められたなどとは決して思わない。全員の頑張りがあったからこその成功だ。未熟な自分を厭うことなく受け入れてくれている仲間たちへの感謝の気持ちを込めて、さとみは裏方仕事に精を出していた。

「……重い」

 ダンボールはかなり大きかった。手で持てない重さではないのだろうが、小柄なさとみにとっては難儀なんぎな代物だった。台車は出払っているようで見当たらない。仕方なくヨタヨタと歩き出した時、箱がふと軽くなった。中腰のまま見上げると、ダンボールを軽々と持ち上げる洸の姿があった。

「カニが歩いてるみたいだった。どこ持って行くの?」

 意外にたくましいのに驚いた。二歳下の洸を隼人が子ども扱いするので、さとみもついつい同じように接していたが、考えてみれば大道具を扱うのだから力があって当たり前だ。

「ありがと」

 洸の背中がいつもと違って見えた。

 背景のトリックアートは洸が構図を描いたものだ。繊細かつ漠然としたイメージを立体に落としていく洸の才能を、葵は高く評価している。まさか役者として使われるとは思ってもみなかっただろうが。

「さとみん、パネル取りに帰りたいんだけど、車出してくれる」

 戻って来た洸が言う。彼は車の免許を持っていない。動くときはもっぱら自転車だ。役に立てるのが嬉しくて、さとみは急いで立ち上がった。

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