第16話

 椅子の上に残された雑誌を手に取り、さとみはページを捲った。もう少し手を伸ばせば理解出来そうな気がした。けれど、その『少し』は限りなく遠い。

 自分は未熟だ。殆ど無知に近いとすら思う。もっと勉強しなければならない。たくさん本を読んで、映画を見て、物事を観察して、人と話して。知識と、それを素材として昇華する力を得なければならない。

──たくさん学びなさい。

 仙太郎の言葉が胸に染みた。

 見開きのカラーページに杣木監督の新作情報があった。映画はこの夏、国際映画祭で作品賞に選ばれた。そして結子は主演女優賞を受賞したのだ。杣木耿彦と冬月結子の名前は、世界に知られる事となった。

 映画のワンシーンだろうか、髪をアップにした着物姿の結子の写真が大きく載っている。バックの桜吹雪が、洸の絵を彷彿とさせた。

「さとみん、雑誌買ったのか?」

 隼人の声だ。さとみは雑誌を机に置き、振り返った。

「平岡先生が置いて行ったの。夏号よ」

「ああ、『魔王』の時の」

 疲れた様子で椅子に腰かけた隼人の、眼の奥に自信が窺えた。葵の満足げな「OK」の声を思い出す。

「明日は一日家で寝てようかなあ。さとみんはどうするの?」

「うん。どうしようかなあ」

 あの絵を見てから、もやもやした気持ちが収まらない。もどかしい程に素直な洸の想いと、現実との乖離かいりを感じたからだろうか。

「さとみんが気に病むことじゃない。洸が自分で決着をつけることだ」

 いきなりそう言われて、さとみは驚いて隼人を見た。絵画のことを引き摺っているのは間違いないが、そんなに変だったのだろうか。傍からみて分かるほどに。

 傾けていたポットを置き、隼人は少し気だるげに椅子から立ち上がった。黙って立てられた親指に促されてテントの外に出る。隙間から漏れ出る光に二つの影が長く伸びるのが見えた。


「俺たち、兄弟のように育ったんだ」

 紙コップのコーヒーを飲みながら、問わず語りに隼人は話してくれた。

 結子と隼人は幼い頃、火災により両親を亡くしたのだそうだ。何もかも失った幼い二人の面倒を見ようという親戚はいなかった。施設に送られる事がほぼ決定した頃、近くの教会に住む牧師夫婦が里親として名乗りを上げた。

「姉貴が小学校に上がったばかりで、俺は、四歳ぐらいだったか。洸はもっと小さかったな。いつも俺たちの後をついて歩いてたっけ」

 幼い姉と弟は教会で、夫妻の息子である洸と一緒に大切に育てられた。洸の父も母も、二人に我が子と同じ愛情を注いでくれたのだと、隼人は言った。隼人の洸に対する態度の説明がついた。洸は隼人にとって弟なのだ。そして、きっと結子にとっても。

「亡くなったおばさんは、芝居が大好きな人だった。姉貴が劇に出たいって言ったら平岡先生に頼んでくれて、俺たちはクリスマス公演で子役として舞台に立つようになった。正式にカオスに入ったのは、高校生の時だったな」

 こう見えて芸歴は長いんだぜ、と隼人は笑った。

「姉貴は本公演にも時々出てたから、監督がどちらを見たのかは分からないけど」

 杣木監督に見出され、結子は映画の世界へと旅立った。十九歳の時だったという。

「姉貴が家を出て行くとき、俺たちは笑って見送ってやることが出来なかった」

 隼人は紙コップを口に運び、空なのに気付いて逆さに振った。

「姉貴が帰って来たのは、『魔王』の時が初めてなんだ」

 五年。とても長い時間だ。女優として認められるまで、ここに戻るつもりはなかったのだろうか。それだけの覚悟で結子は臨んだのか。

「ネットで姉貴の名前、検索したことある?」

 隼人の言葉に、さとみは目を伏せた。SNSには、結子の美貌と演技力を高く評価し絶賛する声が溢れていたが、同じぐらい多くのゴシップもまた存在した。魔性の女。映画界の権力者と寝るのだという噂。匿名掲示板にひしめく噂話は悪意に満ちていた。プロフィールを公開していないことに対する憶測だろうか、過去に対する言及もあった。風俗で働いていたとか、犯罪歴があるとか。明らかに捏造ねつぞうと分かるものすら容認されていた。まことしやかにささやかれる言葉と、そこから派生した根拠のない誹謗中傷の数々。匿名だというだけで、人はこれほどに酷い言葉を吐くことが出来るのだろうか。

「姉貴が、そんな世界で生きていくって決めたのなら、俺たちに文句を言う権利はない。でも、洸は」

 隼人は息継ぎをするように言葉を切り、口元を歪めた。

「洸は、とても辛かったんだと思う」

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