第20話
「懐かしいわ、『太陽の東・月の西』。私、末娘の役をやったのよ」
納戸から探し出した台本を捲りながら結子が言った。台本の隣には美しい表紙の原作本が並んでいる。
「監督がそれを見て、私を映画に出したいって言ってくれたの」
結子の人生を変えたものは、これだったのか。さとみは本を手に取り、ページを捲った。娘のイラストに結子を重ね、イメージしてみる。素直で可愛らしくて愚かで、そして強い芯のある女性。
「おじさんは猛反対したわ。『騙されてるに違いない』って。当然よね。夢みたいな話だもの」
結子は台本を閉じ、テーブルに肘をついて指を組んだ。
「業界に詳しい平岡先生が色々調べてくれて、嘘じゃないって分かってからも、全然聞く耳を持ってくれなかった。芸能界なんてとんでもない、クリスマスの舞台で十分じゃないかって」
記憶を辿るように視線を宙に泳がし、結子は寂し気に笑った。
「断らなきゃいけないんだって思った。映画女優は憧れだったけど、こんな身体の自分が成れる筈がない。そんなの分かり切ったことだもの」
反対の理由は、まさにそれだったのだろう。正視に耐えないほどの傷跡。女優としてやっていけると誰が思うだろうか。傷付き、
「監督は簡単には引き下がってくれなかったから、諦めてもらおうと思ってケロイドのことを話したわ。信じなかったから目の前で脱いで見せた」
口元が歪むのが見えた。少女の希望を打ち砕く
「監督は何も言わなかった。一緒にいたおじさんの方が驚いてたわ。こんなにひどいとは思わなかったって。おばさんにしか見せた事なかったから」
洸の父も、もちろん火傷の事を知っていた筈だ。けれど実際に見なければ、あの悲惨さは分からない。つい先ほど見たものが脳裏によみがえり、さとみは肌が粟立つのを感じた。
「監督はおじさんと暫く話をした後で帰って行った。すべて終わったと思った。でも、彼はまた別の日に訪ねてきたの」
驚いたことに、傷跡のことを知っても監督が考えを変えることはなかったのだという。気持ちが揺れ動く中、結子もまた小さな希望に手を伸ばそうとした。
「何度も夜遅くまで話し合った。本当に、数えきれないくらい」
交渉は難航した。洸の父親は頑として考えを曲げず、結論が出ないまま季節は替わった。穏やかだった家の空気はどんよりと重いものに質を変え、家族からは次第に笑顔が消えていった。隼人はふさぎ込むことが多くなり、洸は度々もの言いたげに結子を見詰めた。
「なぜ理解してくれないんだろう、おじさんは、なんて頑固者なんだろうって思った。隼人も洸も、どうして味方になってくれないんだろうって」
春からずっとテーブルの上にあるオルゴールを手に取り蓋を開ける。取り残された音が弱々しく鳴るのを聞いて、結子はふと優しい表情になった。
「今になって思うの。もしかしたら、おじさんは寂しかったんじゃないかって。ううん、おじさんだけじゃない。隼人も、そして洸も」
妻を、母を亡くした家族は、身を寄せ合って互いの体温を感じるように生きてきたのだろう。洸の父は結子を手放したくなかっただけなのかも知れない。愛する者に先立たれた彼らは、これ以上家族が欠けていくことに耐えられなかったのではないか。
「弟たちに辛い思いをさせてまで望んじゃいけない事なのかもしれない。そう思うようになった。教会で働いて、チャリティー公演の舞台に立って、それで満足すべきなんだ。それが私の幸せなんだ、そう思おうとした。でもね……」
結子の声が震えた。息を吸い、吐き切るように言葉を継ぐ。
「私、どうしても諦め切れなかったの」
監督はとうとう洸の父を説得し、結子は杣木監督の元へ行くことになった。家を出たのは翌年の春、桜の花びらが舞う風の強い日だったという。
「洸は十五歳になっていたんだけど、子供みたいに泣いて。隼人は部屋に
五年ぶりに会ったときは、ちょっと緊張したわ。そう言って結子は肩を竦めた。
「あの時おばさんが生きてたら、やっぱり反対したかしら」
答えを探すかのように空中の一点を見詰めた後、組み合わせた指に額をつけて、結子は暫く目を閉じた。亡くなった洸の母。もし彼女が生きていたら、結子の背中を押しただろうか。
彼女もまた結子を案じたかもしれない。物語に出て来る母親のように。
「でも、やっぱり私は、白熊を信じたと思う」
顔を上げた結子は、さとみではない誰かに告げるようにそう言った。笑った顔に、彼女の利かん気な一面を見た気がした。
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