第19話
勝手口から入って台所を抜けると左手に玄関。右に延びる廊下の奥に納戸がある。アトリエを過ぎて浴室の前を通りかかった時、中から水音が聞こえるのに気付いた。古い建物だ、電気の次は水道が壊れたのだろうか。気になったさとみは扉を開け、脱衣所に足を踏み入れた。
「え?」
カチャリと小さな音を立てて浴室の扉が開いた。流れ出た湯気の間から白い手が伸びる。湯気が消えた後、目の前に現れたものを見て、さとみは息を呑んだ。髪から雫を垂らした冬月結子が立っていた。
「誰?」
震える声で結子が訊ねる。バスタオルを掴んだまま立ち竦むそれは、映画で見た裸の筈だった。けれど──。
「ああ。あなたは確か。さとみん、さん?」
怯えた表情が笑顔に変わる。しかし、さとみは声を出すことが出来なかった。この目で見たことを信じたくない。嘘であって欲しい。そう思った。
「ああ、これね。小さい時、火事に遭って」
悲鳴を押さえられたのが不思議なくらいだった。
「背中はもっと凄いのよ」
バスタオルを手に持ったまま、くるりと回って見せる。
言葉が出なかった。何か言うと泣き出してしまいそうだった。
「宝物を探しに来たの。洸に連絡したら、稽古で戻れないから勝手に入ってって言われて。玄関の鍵は昔と同じ場所に隠してあったわ」
食卓のテーブルで向かい合って、さとみは紅茶の赤い色を睨んでいた。
「お土産のケーキ、食べちゃいましょうか。たくさんあるから」
結子が冷蔵庫から取り出した白い箱には、有名なスイーツ店のロゴが印刷されていた。
「帰りかけてたんだけど、駅まで行く途中で雨に遭ってね。着替えに戻って来ちゃった」
何か返事をしなければと思っても、言葉が浮かばない。申し訳ないと思いながらも、さとみは黙って俯いていた。
「びっくりした?」
さとみは頷き、顔を上げた。
「ごめんなさい」
漸く、掠れた声が出た。まだ思考は
「気にしないで。……て言っても気になるか」
さとみの前にケーキの皿を置き、結子は屈託なく笑った。
「そうだ、見て。午前中いっぱいかけて、やっと見つけたの。宝物」
結子はバッグから小さな箱を取り出した。テーブルの上でそっと蓋を開く。
「もやし?」
入っていたのは、半透明の一本のもやしだった。結子の白い指が、それを
「
精巧に作られたそれは、まるで本物のように見えた。けれど、より繊細で、光の透過と反射がとても美しかった。透明な胚軸に乳白色の
「おばさんのお葬式で修学旅行に行けなかった隼人の為に、翌年の夏休みにおじさんが連れて行ってくれたの。想い出になる物を買おうねって言ってたんだけど」
洸の父は北海道で、亡き妻が好きだった曲のオルゴールを買った。そして子供たちは、これを?
「お店で一目惚れした洸が、どうしても欲しいって駄々をこねてね。おじさんは『何で、もやしなんだ』って言ってたけど、見てたら私たちも欲しくなっちゃって」
洸は、もやしを欲しがったのか。場景を想像すると口元が緩むのを感じた。
「やっと笑ってくれた」
結子はそう言って、ほっとしたような微笑みを浮かべた。
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