第8話
住宅地から離れて林の中の道を暫く進むと、礼拝堂が見えて来る。建物は古く質素なものだ。屋根の上の十字架がなければ、誰も教会だとは気づかないだろう。
カオスの本公演は不定期だが、毎年クリスマスには教会でチャリティー公演が行われる。洸が小学生の時に亡くなったという彼の母が平岡の古い友人だったとのことで、クリスマス公演が始まってから、もう二十年が経つのだと聞いた。洸が背景画を描いている関係もあり、此処にもいくつかの舞台道具が置かれたままになっている。
入り口を避けて車を停め、二人は奥の建物に入った。中は薄暗く、板張りの廊下は歩くと軋んだ音を立てた。ダイニングには何回かお邪魔しているが、アトリエに入るのは初めてだ。室内のいたるところにパネルやキャンバスが置かれ、様々な画材が散乱している。入り口近くの壁には、数枚の綺麗な風景画が立てかけられていた。右下にはKohのサイン。洸は絵描きなのだと、改めて思った。
明滅する蛍光灯がジジッと音を立てる。
「換えないとなあ」
洸はそう言いながらパネルを抱え、部屋を出て行った。
奥の方に、イーゼルに載ったままの大きなキャンバスが見えた。無造作に置かれた他の絵画とはどこか違う、白い布が掛けられた大きな絵。その横には絵筆とパレットが置かれており、描きかけであることが
何が描かれているのだろう。妙に気になって、さとみは誘われるように絵の前に立った。布に隠されたキャンバス。白い布は何を守っているのだろう。強い磁力を感じ、さとみは布に手を伸ばした。好奇心というより、怖いもの見たさに近い感覚だった。指が布の端を掴む。このまま力を入れたら……。
「さとみん、電気消しといて」
外から声を掛けられて我に返った。危ないところだった。自分は何をしようとしたのだろう。洸のプライベートに踏み込んで、どうするつもりだったのだ。さとみは急いで入口へ走り、蛍光灯のスイッチを切った。
玄関を出ると、屋内とは打って変わって明るい日差しが降り注いだ。額に手を翳して見上げた初秋の空に、古ぼけた十字架が浮いていた。
「昼にかかっちゃったから、何か食べようか。ラーメンでいい?」
パネルを車に積み終え、洸が言った。さとみが頷くと、洸は「こっち」と言って勝手口から中に入った。先日お茶を飲んだ食卓の椅子にさとみを座らせ、カウンターを廻って台所に入って行く。綺麗に片づけられたダイニングテーブルの端に、紅いオルゴールがポツンと置かれているのが見えた。
暫くして、キッチンカウンターの向こうから、いい匂いが漂って来た。
「おまたせ」
塩味のインスタントラーメンの上には、炒めた野菜が乘っていた。
「さとみんが小さな身体でちょこまか動き回ってるのを見ると、ハムスターを思い出す。昔飼ってたんだ。もう死んじゃったけど」
何と返していいのか分からなくて、さとみは黙ってラーメンを
「美味しい」
野菜が入っているだけで、こんなに美味しくなるのだろうか。実家暮らしで包丁を持ったこともない自分に比べて、洸はちゃんと自立しているのだと思った。
「ねえ伊藤くん」
絵について聞きたかったが、後ろめたさから言い出せず、さとみは別の話題を口に出した。
「前から訊こうと思ってたんだけど、この教会には何故ご本尊が無いの?」
「
一瞬固まった洸が、少しの間を開けて箸を置いた。
「ああ。キリスト像のこと」
テレビで見る教会には十字架に磔になったイエスの像があり、ステンドグラスを通して差し込む光がそれを彩る、そんなイメージが強い。けれど何故かこの教会には、オブジェとしての十字架やイエスの像が無い。代わりに礼拝堂の奥の壁に十字の窪みがある。光を吸い込むように黒く塗られたそれは、自らの存在を主張することなく、ひっそりと只そこに在った。
「実は、
少し畏まった表情で、洸が話し出した。
「大昔、この地を大寒波が襲って、凍えた人々が教会に集まったんだ。司祭は留守で、数人の修道士たちが対応に当たった。薪は残り少ない。人々は修道士と共にキリストの像に向かい、ただひたすらに祈りをささげた」
指を組み合わせ静かな声で語る洸の姿は、聖職者に見えた。優しさの中に凛とした厳しさを感じ、さとみは黙って耳を傾けた。
「夜が更けるにつれ吹雪は益々ひどくなり、人々は寒さに震えた。体力の無い者から順に倒れていき、降り積もる雪と同じ、冷たい塊となった。夜がすっかり更けた頃、漸く神父が教会に戻った」
ここで洸は一息ついた。さとみの眼を真っ直ぐに見て、言葉を継ぐ。
「中の
さとみは、その視線に縛られたように動けなくなった。
「だから、此処には『ご本尊』がないんだよ」
洸が微かに笑う。吹雪の音と、薪がはぜる音が聞こえた気がした。
「嘘だよ。そんな筈ないだろ」
ラーメンの汁を啜り、洸が言った。
「プロテスタントの教会には、もともとイエスの像なんか無いんだよ。ついでに言えば、司祭・神父はカトリックの役職で、うちの親父は牧師だ」
そう言えば、プロテスタントは
「悔しい」
どんぶりで顔を隠して上目遣いに洸を睨み、さとみは、そう言うしかなかった。
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