第9話

 稽古場に戻ると丁度、目の下に隈を作った隼人が出て来たところだった。

「洸、替われ~」

 幽霊のような顔でそう言うと、隼人は洸の背中に覆い被さった。側にいた劇団員の水口奈緒が紙コップを並べ、三人分のコーヒーを淹れてくれる。優し気な丸顔の奈緒は少し年上の女優で、いつも細かい気遣いをしてくれる人だ。

「奈緒さん、ありがとう」

 暖かいコーヒーが入った紙コップを受け取って、さとみは隼人に目をやった。

「さとみん。従姉のねえさんに、もう少し優しく指導するようにアドバイスしてくれ」

 憔悴しょうすいした様子の隼人が、がっくりと頭を垂れる。

「大変そうだね」

 他人事のような洸の言葉に、隼人が顔を上げた。肩に顎を乗せ、口元だけで笑う。

「そうだ、洸。ダブルキャストにしよう」

「冗談じゃない」

 逃げようとする洸の背中にお化けのようにしがみ付き、隼人はずるずると引きられた。

「それは良い考えね」

 張りのある声が聞こえ、暗幕が開いて鬼演出家が顔を出した。隼人も洸も途端に動きを止める。

「……冗談よ」

 立ったまま動かなくなってしまった洸を見て、葵が楽しそうに笑った。



「さとみん、チケットさばけそう?」

 ある日の稽古終わり。小物を片づけていたさとみは、劇団員の柳沢倫子みちこに声を掛けられた。仙太郎のネームバリューのおかげで公式チケットもかなり売れるのだが、多くないとはいえ劇団員のチケットノルマも存在する。

「なかなか。私、友達少ないから」

 おじさんばかりの小さな会計事務所で事務職という名の雑用係をする以外、劇団べったりのさとみは、大学時代の友人とも疎遠になっている。

「さとみんが出るわけじゃないもんね。『魔王』の時は売りやすかったんじゃない?」

 倫子は今回のヒロインの一人である。『にょろ』のヒロインは三人、彩涼花、水口奈緒、そして柳沢倫子。主人公の若者に想いを寄せる者、敵対する者、そしてパラレルに歩む者。いつもは仲良しで一緒にいることの多い三人だが、稽古中は少々緊張感が感じられる。

「逆よ。前回は無料で配ったの。お金貰う勇気がなくて」

 謙虚けんきょねえ。と倫子が笑う。女優だけに笑顔に華があるなと、さとみは思った。

「売って来てあげようか?」

 ついでのように軽い口調で倫子が言った。

「いいの?」

 驚いたさとみに、倫子は上手にウインクした。長い睫毛が上下する。

「お客さんが買ってくれるのよ。気にしなくていいから」

 倫子はホステスをしている。キャバクラではなく少々高級な店で、客と話を合わせるのに教養も必要なのだそうだ。哲学的な難しさのある平岡作品は、ハイクラスの客たちのプライドを良い感じにくすぐるらしい。そういえば隼人も毎回、かなりの数のチケットを捌いてくる。「隠れナンバーワンだから」という言葉も、あながち嘘ではないのかもしれない。こちらの客は学生から主婦、OL、キャバ嬢など様々だ。

「隼人もね」

 倫子が笑う。

「たくさん売っては来るんだけど、お客さんの感想は大体『難しすぎて分かんな~い』とか『隼人が格好よかった』とかだから、拍子抜けしちゃうのよね。まあ文句言っちゃいけないんだけど」

 それだけ言うと倫子は、さとみからチケットを受け取って去って行った。


「さとみん、チケット捌けそうか?」

 一瞬デジャブかと思ったが、今度は男の声だ。

「うん。倫子さんが引き取ってくれた」

「そうか。良かったな」

 相変わらず顔色の悪い隼人が、さとみの頭に手を置いた。この人は、職業柄なのだろうか、少々スキンシップが多い。稽古場では、男女問わず肩を組んで話をしているのをよく見かける。思い返してみれば、新人の研究生が勘違いして何人かでさや当てが発生したことがあった。あの時は葵が収めたのだったろうか。

「洸は?」

 この人はいつも洸を探している気がする。洸もそうだ。本当に仲良しなんだと、さとみは微笑ましくなった。

「何笑ってんだよ。……あ」

 言いかけて隼人は目的の人物を見付けたらしく、髪を掴みかけた手を離して走っていった。


「さとみん」

「チケットは大丈夫です」

「え?」

「あ、……ごめんなさい。何でしょう」

 条件反射のように答えてしまい、さとみは慌てて後ろを振り向いた。表情を曇らせた涼花が、さとみの耳元で声を潜める。

「隼人にお客さんなんだけど、何か、ちょっとやばい感じで」

 とりあえず呼んで来るね。と言って涼花が去った後、さとみはシャッターの陰から外を伺い見た。夕焼け空の下に派手な服装の若い女と、少し年嵩の人相の悪い男が立っている。反社のイメージそのままの男の腕に青黒い刺青が見えた。

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