第10話

 すぐ横を人が通った。隼人だ。さとみは後を追ってシャッターをくぐった。

「ついて来るな」

 低い声でそう言われて足が止まる。振り向いた隼人は眉間に皺を寄せ、戻れと言うようにあごを上げた。すぐに踵を返して二人の客の前まで歩いていく。どうしよう、警察を呼んだ方がいいのだろうか。そう思ってポケットを探ったが、こんな時に限ってスマホは鞄の中だ。取りに戻る間に何かあったらと思うと脚が動かず、さとみは立ったまま隼人の背中を見ていた。

 男が身体を揺すりながら何か喋っている。内容までは分からないが、ぼそぼそした嫌な感じの声だ。側にいた女が隼人の腕を掴んだ。

「隼人の子供なんだからね。責任取ってよね」

「え?」

 何を聞いたのか、理解するのに時間がかかった。

 真剣な声だった。まさか隼人が。隼人が、あの女を妊娠させたという事だろうか。そんな、まさか……。同じ言葉が頭の中をぐるぐる廻る。

 隼人の笑い声が聞こえた。

「言っただろう。俺はやってない。誰か他の男の子供だろう」

 とんでもないセリフが聞こえた気がした。これはクズ男の言い分だ。でも、やってないって?

「憶えてないって言ったくせに!」

 女がヒステリックに叫ぶ。

「逃げようってのか、兄ちゃん」

 男が隼人の襟元を掴んだ。その手を強く払いのけ、隼人は女に向き直った。

「だったら産んでみろよ。DNA鑑定して本当に俺の子だったら、認知でも結婚でもしてやるよ」

 妙に冷静な声だった。冷たく、あざ笑うような。

「ふざけんな!」

 男が再び隼人の襟を掴み、拳を振り上げる。さとみは声を上げそうになって口元を押さえた。

 音のない時間が過ぎた。ふと、振り上げられた拳が動いていないことに、さとみは気付いた。凶悪な男の表情が微妙に変化する。男がゆっくり腕を降ろすのが見えた。

「今日のところは勘弁してやる」

 どこかで聞いたような捨て台詞を吐いて、男は歩き出した。女が隼人から顔を背け、駆け足でそれを追う。何が起きたのだろうか。両手で口を押えたまま立ち竦んでいるさとみを、隼人が振り返った。

 ぞっとした。

 振り向いた顔は、さとみが知っている隼人のものではなかった。刺し貫く様な眼差しの奥に、冷たい殺意を見た気がした。

「さとみん、まだいたのか」

 笑顔になった隼人が駆け寄り、さとみの頭に手を置いた。子供をなだめるように髪を掻き回し、顔を覗き込む。

「心配ないよ、怖い人は追い返したから。……泣くなって」

 泣いてなんかいない。そう言おうとして、指に落ちた雫に気付いた。怖かった。友達が、遠い所へ行ってしまった様な気がして。

「どうした隼人、何かあっ!」

 駆けてきた洸が、ぎょっとしたように立ち止まった。隼人が「違う違う」と言って両手を振り回す。

「涼花さんが、隼人が大変だって知らせてくれたから。大丈夫か、さとみん」

 洸の顔を見た途端なぜか安心して、また涙が溢れた。

「隼人、お前」

 洸が真顔で隼人に詰め寄る。何か言うとしゃくりあげてしまいそうで、さとみは声が出せなかった。

「隼人」

 ごめん。違うの。

「お前、葵先生に言いつけるぞ」

 その言葉で冗談だと分かり、さとみは吹き出した。笑った筈が、泣き声のようになる。隼人が困った顔で頭を掻いた。

「分かったよ。ちゃんと説明するから。そうだ。今から三人で飯食いに行くか」

 さとみは黙ったまま頷いた。

「じゃあ、うち来る?」

 洸が言う。

「お前ん家、ラーメンしか無いじゃん」

「何か取るよ」

「やった。俺、うなぎがいい」

「奢るとは言ってないからな」

 二人の会話を聞きながら、さとみは漸く涙をぬぐった。

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