第12話

 泊まるつもりはなかったが何となく帰りそびれて、さとみは食卓で洸とお茶を飲んでいた。湯呑に描かれた魚偏さかなへんの漢字を辿り、読み仮名を確かめていく。

「ねえ、聞いてもいいかな」

 湯呑を目の高さに持ったまま、さとみは洸に訊ねた。

「男の人って、そんなもんなの?」

「何が?」

 飲みかけた湯呑をテーブルに戻し、洸が首を傾げる。

「さっき笹村くんが言ってたじゃない。惚れた相手じゃなきゃ、……って」

 隼人を疑ってしまった自分を恥じながらも、今一つしっくりこない。刷り込まれた固定観念のせいだろうか。

「さあ、人によるんじゃないかな。隼人は、きっとそうなんだろう」

 洸はそう言った後、綺麗な指で前髪を掻き上げ、そのまま視線を下げた。

「ふうん」

 そうなのかも知れない。スキンシップも、女性の家に泊まることも、隼人にとって他意はないのだろう。舞台の上で疑似恋愛をし、稽古場で雑魚寝する。そんな隼人にとって当たり前のことを、他者は歪めて受け取ってしまう。

 ふと洸が顔を上げ、さとみを見詰めた。

「女の人はどうなの?」

「え?」

 反対に質問されて、さとみは動揺した。

「だから。好きな相手じゃなくても、そういうこと出来るもんなのかなと思って」

「そんなわけ無いじゃん!」

 即答してから、さとみは口ごもった。本当に、そうなのだろうか。

「……と、思うけど」

 自信がない。というより、さとみは経験がないので分からない。

 小説や映画では、作者の性別により描き方が変わる。男性も女性も、一方的に相手の性を動物的だと認識している。自分は頭や心で感じ、相手は本能で感じるのだと。そんなもの、無知による勝手な思い込みにすぎないのではないか。

 考え込んでしまったさとみを見て、洸は笑った。

「さとみんって、左脳で物を考えるタイプ?」

「左脳?」

「うん。理屈で割り切って答えを出そうとする方なのかなって」

 おもむろに腕を伸ばし、テーブルの端に置かれたオルゴールを引き寄せながら、洸が言う。そうなのだろうか。融通の利かない生真面目な思考回路。芸術には右脳が大切。そんな言葉が思い出され、ちょっと残念な気持ちになる。

「俺も、そうなら良かったのに」

 そう言って洸は、また目を伏せた。

 こんな風に話をしたのは初めてかもしれない。真面目な話と言えば演劇の、もっと具体的な話ばかりだった。少しだけ違ったのは、教会の逸話について聞いた時だろうか。いや、あれは冗談だった。さとみを引っ掛ける為の。

 オルゴールの紅い蓋を開けると、可憐な音が一音だけ鳴った。

「寂しい音だね」

 ささやくように洸が言った。

「置き去りにされて、泣いてるみたいだ」

──この声だ。

 唐突にさとみは気付いた。ひんやりと甘い声質。優しさの奥にある、どこかストイックな息づかい。さとみが望んだ、魔法使いの声。

「伊藤くん」

 湯呑を持つ手が震えた。

「何?」

 洸が微笑む。長い前髪から覗く優しい眼差しに、勇気を出して訊ねる。

「主役に選んだこと、怒ってる?」

 言葉を間違えたかもしれない。洸は怒ることなどないだろう。けれど。

つらかった?」

 あの配役は彼が望んだことではない。優しい洸は断れなかっただけだ。さとみの願いを叶えようとして、彼は舞台に上がったのだ。演技経験ゼロの状態からの主演、どんなに怖かったことだろう。あの時、何故その気持ちを思いやることができなかったのか。

「辛かった。とても」

 そう言って洸は小さく笑った。

「でも貴重な経験が出来たと思う。舞台でライトを浴びて芝居をして、脳の眠っていた部分が目覚めたような気がした。さとみんには心から感謝してる」

 洸は他人を傷つけないけれど、上辺だけの社交辞令を口にすることもしない。本心だと思っていいのだろうか。

「俺は画家になりたいと思っている。まだ描きたいものがよく分からなくて、悩むことも多いんだ。あの舞台は素晴らしいインスピレーションをくれた」

 美しいものを描きたいと思う。そう言った洸の真摯しんしな視線が、さとみを少しだけ泣きたくさせた。

 洸がオルゴールのゼンマイを巻き、再び蓋を開ける。

「母さんが好きだった曲なんだ」

 そう言って洸は、耳を澄ますようにまぶたを閉じた。

 優しい音色が響く中、静かな時間が過ぎた。窓に目をやると、暗くなった窓硝子に部屋の様子が映り込んでいるのが見えた。目を閉じた洸の横顔。彼は、こんな顔をしていたのだろうか。

「ねえ」

 さとみは言った。

「見せて欲しいものがあるの」

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