魔法使いの弟子

古村あきら

魔王

第1話

 いい匂いのコロンが欲しいと思った。視界に入る光景と耳に届く音、そして肌に感じる空気。それだけでは足りない。もう一つ、鼻腔びくうから脳に入り込み陶酔とうすいを誘うような、そんな匂いが欲しいと思った。




 昔、若い魔法使いが人間の娘と恋に落ちた。

 魔族と人間は相容れぬもの。娘は魔法使いに懇願こんがんした。

──私といたいのなら、お願いです。どうか魔法を捨ててください。

 魔法使いは悩んだあげく、魔法を捨てて娘の家に婿入りすることに決めた。しかし魔法使いは魔王の跡取りであったので、許しを得るべく国へ帰ることになった。別れを悲しむ娘の涙を涙壺なみだつぼに受けて、魔法使いは言った。

──この涙壺が一杯になるまでに必ず戻って来るから。どうか信じて待っていておくれ。

 二人はそっと抱き合い、そして魔法使いは遠い国へと旅立った。

 照明が、背景が、絵本のような世界を形作る。抱き合う二人は影絵となり、揺らめいて消えた。


 強いライトが舞台から客席に向かって照らされ、こちらからは何も見えない。その間にセットを入れ替え、ライトが切り替わると第二幕が始まる。出入り口のカーテンの横に立って舞台を見ていた青木さとみは、隣に人の気配を感じて視線を動かした。

「大入りじゃないか。立ち見まで出てる」

 暗転の間に入って来たらしい笹村隼人が、背を屈めてさとみに耳打ちする。さとみは小さく「うん」とだけ答えて、客席に目をやった。

 演目は『魔王』。さとみが初めて脚本を務めた、いわばデビュー作だ。大学三年生の時に、従姉である平岡葵の夫、平岡仙太郎が主宰する『演劇集団カオス』の研究生となってから、さとみは二年間脚本の勉強をしてきた。仙太郎の脚本と色合いが違うのを、見る人がどう感じるか不安でいっぱいだったが、意外にも回を重ねるごとに観客の数は増えていった。

 今日は千秋楽。客層は、いつもと少し違って演劇界の著名人の顔も散見される。さとみの頭にポンと手を置いて、隼人は内緒話をするように続けた。

「しかし、こうがこんなに舞台で映えるとは思わなかった。さとみんの眼力は凄いよ」

 主演の魔法使い役である伊藤洸は、実は役者ではない。舞台背景の書割を担当する大道具、絵描きである。本来なら看板俳優である隼人が演じる筈のものだが、さとみの強い希望によって洸が抜擢された。

「今まで稽古の時に代役をやってくれて演技が上手いのは分かってたけど、主役張れるとは思ってなかった。見事なもんだ」

 隼人の声は、やけに嬉しそうに聞こえた。

「ずいぶんめるのね。ライバル登場かも知れないのに。……あ、ごめん」

 無神経な言い方だったと反省したが、隼人は気にする素振りも無い。

「素直な感想だ。それに、さとみん、覚えとけ。ライバルってのは『好敵手』って訳すんだよ」

 隼人は、さとみの髪を軽く掴んで手を離し、カーテンの向こうへ戻って行った。


 第二幕が始まる。そこは魔族が住む国。魔王の宮殿にある謁見の間には、薄闇の中、怪しい光が生き物のように蠢いていた。

 舞台では、床にひざまずき頭を垂れた魔法使いを丸い光が照らしている。突然、対角にスポットライトが当たり、魔王の禍々しい姿を浮かび上がらせた。牡鹿の角を生やし闇のように黒い装束を纏った魔王が、大股で舞台を横切り若い魔法使いに近付く。足元から恐ろし気な影が伸びた。

 錯視により巨大に見えていた魔王が、舞台の際で人間の大きさになった。魔王は長いマントを引き摺り、魔法使いの周りをせかせかと歩き回る。

──ああ、何てこったろうね。魔王の後継ぎが人間に婿入りだなんて。情けない。死んだおっかさんが草葉の陰で嘆いてるよ。今夜にも化けて出て来やしないか、あたしゃ心配でならない。

──ち……父上、どうぞお許しください。私は彼女を愛しているんです。

──彼女には家族がいないんだろう? だったら嫁に貰えばいいじゃないか。魔女はいいぞ。ほうきに乗って空を飛べるし、大鍋で作ったシチューだって美味い。トカゲを入れるのが嫌なら鶏肉だってかまわないさ。あたしは鶏肉も好きだからね。料理が苦手なら市販のルーを使ってもいいんだよ。クレアおばさんの……。

──父上。

──そんな顔をしないでおくれよ。結婚に反対しているわけじゃない。ただ婿入りというのが……。ああ、分かったよ、好きにすればいい! いや、駄目だ駄目だ。後継ぎは必要なんだ。庶子はみんな同い年だから、きっとめるんだよ。面倒くさ……いや、由々しき事態だ。どうしたもんかね。くじ引きにするか、じゃんけんか。ああ、頭が痛い。


 魔法使いは、やっとのことで魔王の許しを得て、娘が待つ村へと帰路につく。

──空飛ぶ馬車で送ってやろうか? あっという間に着くよ。

──いえ、私はもう魔法を使わないと決めたので。

──そうかい。なら仕方がない。気を付けてお行きよ。今度二人で遊びにおいで。トカゲの入ってないシチューをご馳走するから。

 マントを翻して背を向けた魔王が、思い出したように振り向く。

──あ、蛇は入ってても大丈夫だよね。

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