第2話


 村までの道のりは長く、多くの時間を費やさねばならなかった。疲れ切った魔法使いが漸く村に辿り着いた時には、二年もの月日が経っていた。

──ただいま。帰ったよ。どこにいるんだい?

 娘の家には火の気がなく、数少ない家具には埃が積もっていた。魔法使いは棚の上に涙壺を見付け、手に取った。涙壺はとうに一杯になっており、縁から溢れた雫が彼の手を濡らした。

──どこへ行ったんだい、愛しい人。姿を現しておくれ。

 その時、家の前に人の気配がした。娘が戻って来たのだと思い、魔法使いは急いで扉を開ける。

──え?

 しかし、そこに彼が見たのは娘ではなく、武装した大勢の役人の姿だった。村人たちが遠巻きにそれを見ている。

──邪悪な魔法使いめ、神の名のもとに召し捕ってくれる。神妙に縛につけ!

 何が起きたのかも分からないままに、魔法使いは縄で縛られ、牢屋に入れられた。

──なぜ私が捕えられるのですか。彼女はどこにいるのですか。

 魔法使いの問いに、役人は意地悪く笑って告げた。村人の密告により、娘が魔女として捕えられたこと。そして火あぶりにされて命を失ったことを。

 照明が、音響が、目まぐるしく切り替わる。驚愕、混乱、悲哀、そして怒り。魔法使いの叫びと共に舞台が真っ赤に染まり、地響きにも似た轟音が空気を震わせた。

 慟哭どうこくの暗きほのおが、魔法使いの足元から立ち昇った。炎は多頭の蛇のごとくうねり、四方に放たれた。後から後から燃え上がる蛇が生まれ、すべてを焼き尽くしていく。悲しい叫びが尾を引き、赤黒い蛇が舞台を埋め尽くす。

 やがて村は全て灰燼かいじんに帰した。

 我に返った魔法使いは、自分がしてしまったことに慄き、恐怖する。村には幼い子供も、娘の友人たちもいた筈だ。すべてが灰になった。恐れも憎しみも嫉妬も、そして優しさも思いやりも。何もかも。

 焼け野原に崩れ落ちた魔法使いは、岩陰に小さな花を見付ける。今にも枯れそうな白い花に、彼は娘の面影を見た。

 ポケットの涙壺に手が触れた。背景のトリックアートに照明が当たる。クリスタルガラスの中の弱々しい光の揺らめき。魔法使いは、僅かに残ったそれを花の根元にそっと注いだ。背景画がパズルのピースとなって崩れ落ち、幻灯機の映像のように小さな花が浮かび上がる。降りそそぐ光の粒。枯れかけた花は頭をもたげ、弱々しい白い花弁を微かに開いた。

 二度と使わないと誓った魔法の力で、彼は小さな花を包んだ。誰にも見えないように。誰にも摘まれることがないように。

 そして、魔法使いは村を去った。


 人間を愛し人間になろうとした魔法使いは、次第に病んでいく。悲しみと憎しみと、己が犯した罪の大きさが彼を苛む。魂は煩悶はんもんし、懊悩おうのうの渦に呑まれていく。

 暗闇の中で、砕け散った硝子の破片が舞う。幾度も繰り返されるモチーフ。破片は雨の雫となり、風に煽られ地に落ちることなく舞い続ける。雷光が映し出す影が、人ならぬものへと姿を変えていく。

 ある夜。とうとう、優しい魔法使いは魔王となった。


 苦しみ嘆く洸を、さとみは美しいと思った。彼を主役に選んだのは正解だ。

 最初は定石通り隼人が主役に据えられ、台本ほん読みが始まった。けれど、さとみは違和感を覚えたのだ。魔法使いを構成する素材の質感が微妙に違う。原因をはっきり認識できないまま違和感は大きくなり、さとみを苦しめた。

 洸を選んだ理由は何だったのだろう。絵具にまみれた服を着た素朴な若者に、自分は何を見たのだろうか。その時のことを、さとみはよく憶えていない。けれど、さとみは強引に主役の交代を要求した。困り果てた仙太郎の顔と、怒りに赤くなった葵の顔が思い出される。さとみは一歩も引かなかった。自分の書いた戯曲の主役は、洸しか考えられなかった。


 時は過ぎた。闇に包まれた世界からは希望が消え、人々が悲しみの中にひっそりと息づいていたその時、世界を救うべく立ち上がった者がいた。

 一点の染みもない純白に輝く背景を持つ勇者が、魔王と対峙する。あまりにも清らかな純粋無垢の存在。放たれる光の矢の煌めきは限りなく強く、魔王は次第に追い詰められる。

 小さな花を踏まぬよう避けた一瞬の隙があだとなり、魔王は勇者に撃たれる。

 流れる血が地面を黒く染めていく。正義の名のもとに放たれた紅い炎が瀕死の魔王を襲う。薄れる意識の中、魔王は小さな花に手を伸ばす。守るように、慈しむように、花を包もうとした手は、やがて力なく地に落ちた。

 勝利の雄叫びが辺りを埋め尽くす中、小さな花は炎に包まれて消えた。


 明るく白い光が舞台を照らす。流れる音楽が小さくなったタイミングで、さとみは顔を上げ客席に目をやった。割れるような拍手が耳に届く。役者紹介。主演・伊藤洸、演出・平岡葵、脚本・青木さとみ。自分の名前が紹介され、さとみは再び客席に向かって頭を下げた。

 演劇集団カオス春季公演『魔王』は、ここに千秋楽の幕を閉じた。

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