第3話

 重く垂れ込めた雲のせいで、夕暮れの空には瞬く間に夜のとばりが降りる。足元に降り積もった桜の花びらが、ピンクからモノクロームへと色を変えた。

「ありがとうございました」

「素敵でした。とても良かった」

「次の公演も楽しみにしています」

 劇場となった教会の入口に立って観客を見送る時間は、なかなか終わらなかった。さとみも多くの人から握手を求められ、緊張で汗ばむ掌を何度もスカートで拭った。少し離れたところでは、洸が若い女の子たちに囲まれている。慣れていないのは丸わかりで、明らかに戸惑った様子で、助けを求める視線を何度もこちらに投げて来る。そんな洸に、いなす様な笑顔を送って、葵がさとみの肩を抱いた。

「あのラストシーンは、やはり洸じゃなきゃ駄目だったかも。さとみちゃん、見る目があるわ」

 隼人と同じようなことを言う。

 最後の場面、花を包み守ろうとする魔法使いの手が背景に映し出される。束の間、洸の驚くほど繊細で美しい指は、命尽きようとする魔法使いの想いを一枚の絵に変えた。

「さとみちゃんは、私が気付かなかった洸の才能を見抜いたのね。」

 ちょっと悔しいけど。そう言って葵はウインクして見せた。

「さとみんも先生も酷いよ。さっきから何度もSOS送ってるのに」

 漸く女の子たちから逃げ出して来た洸が、魔王の姿のまま恨めしそうにぼやいた。

「こっちだって一杯一杯だったんだから、助けられないって」

 言いながらさとみは洸を眺めた。舞台用のメイクを施され魔王の衣装に身を包んだ洸が口を開くと、一気に普段の朴訥ぼくとつな青年に戻ってしまう。それが妙に可笑しかった。

「伊藤くん、お疲れ様でした」

「とても良かったわよ、洸」

 二人にそう言われて、洸は少し照れたように鼻の頭を掻いた。

「ありがとうございます」

 小さく頭を下げた後、洸はふと辺りを見回した。

「隼人は?」

 仲良しの姿が見えないのが不安なのだろう。そう言えば、幕間に話してから隼人の姿を見ていない。

「お客さんに紛れてるのかしら?」

 言いながら広場を見渡していた葵が、あっと声を上げた。視線の先に目をやった洸の顔から表情が消えたように見えて、さとみも慌ててそちらに顔を向けた。

 こちらに向かって歩いて来る隼人の隣には、真っ白なスプリングコートを羽織った女性が一緒だった。誰だろう。帽子とサングラスで顔を隠してはいても、その白い姿は淡い光に包まれているように見えた。

「葵先生、お久しぶりです」

 サングラスを外し、女性が葵に頭を下げた。

「……冬月結子ゆうこ

 驚いて敬称を付けるのを忘れた。目の前にいるのは、四年前のセンセーショナルな映画デビューの後、瞬く間にトップ女優に上り詰めたスター、冬月結子その人だった。

「結子ちゃん。来てくれたの」

 声を上げた葵が慌てて口元を押さえ、周囲に目を配った。振り向いた者がいないのを確認して、ほっとしたように手を下ろす。

「洸が出演するって聞いたから。久しぶりね、洸」

 そう言って結子は、洸に笑顔を向けた。

「結子、さん」

 ぎこちなく呼びかけた後で固まってしまった洸の隣に、隼人が立った。

「場所替えた方がいいようだ。既に気付いてる人がいる」

 見ると幾人かが、こちらを見てひそひそと話している。「冬月結子じゃない?」という声も聞こえた。

「分かった。中に入ろう」

 葵がそう言い、さとみたちは教会の中に戻った。

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