さて、歌いますか
朝が来て、学校へ行く。授業中は作曲のことは考えない。二つのことを同時にすることは苦手だ。音楽を聴きながら勉強するとかも出来ない。必ず音楽の方に集中してしまう。昼休みはいつもと同じように他の人の曲を聴く。千明と挨拶をした以外は誰とも喋らずに一日を終え、まっすぐに家に帰った。帰れば曲の続きが出来る。電車に早く走れと念じ、家路も急いだ。
玄関のドアを開けるとママが熱唱する声が聞こえた。
ダイニング行くとテレビがついていて、歌番組をやっている。キッチンにいるママがそれに合わせて歌っている。
「ただいま。早いね」
ママの後ろ姿に声をかけると、ママは料理の手と歌を止めて振り返った。嬉しそうな顔。
「この番組が見たくてがんばって定時に上がったの」
華やぐママ。すぐに歌の続きを歌い始める。だけどそれじゃ私がピアノを弾けない。今日だけはどうしても弾きたい。ママの笑顔に切り込むように声を出す。
「ママ、私、ピアノが弾きたい」
ママは再び歌うことをやめて、だが表情を曇らせることはしない。
「えー。私はこの番組と歌いたい。あと一時間くらいだから、丁度ご飯が終わるくらいまでだし、譲ってよ」
嫌だ。胸の中でそう言葉にして、多分顔もそうなっていて、だけどママは全く怯む様子がない。家ではいつも私が優先だ。だから今日もそうであるべきだ。だって新曲が生まれようとしているんだよ。こんな大切なときはない。……いつも私が優先だ。ママが仕事を調整してまで観て歌いたい番組なんてなかなかない。一時間。その中には食事も含まれている。
「分かった。番組が終わったら私の番ね?」
「もちろん」
ママの歌声を背景に、帰宅の一連の作業を終えて、ダイニングテーブルに就く。ママの背中が見える位置だ。懐メロ特集らしく、知らない歌と知っている歌がモザイクになって届く。ママは全部の歌を歌う。CMになった。
「ママ、歌好きだよね」
「夏夜もね」
「ママは歌、作らないの?」
ママは振り返る。
「こんなにいい歌が世界にたくさんあるから、私が作る必要はないかな、って思うよ。夏夜はどうして歌を作るの?」
私はママの視線を受けて、自分のそれを逸らす。逸らして、もう一度ママを見る。
「作りたいから。世界にどれだけいい歌があるかは関係ない。私には作りたい衝動がある」
「衝動?」
私は頷く。
「何か嬉しいことがあったときとかに、走り出したくなったりしない? そう言う感じ」
「目的がある訳じゃないのね」
「発表するとかは全然考えてない。そこのところは自分でもよく分からないんだ。ただ作りたいから作ってる」
ママがテーブルに来て座る。私の斜め前。ママなのに私は薄く緊張した。
「変かな」
ママは首を振る。
「全然。創作の衝動ってきっとそう言うものなんだと思う。功名心とか名誉欲とかがないなら、その方がピュアなんじゃないかな。世の中の殆どがお金を中心に回ってるじゃない? そう言う純粋な作品が生まれるって、素敵よ」
「ピュア、かな」
ママは穏やかに笑う。
「そう思うよ。何せ、私が世界で一番、夏夜の歌を聴いてるからね」
「聴いたことがあるのは世界で二人しか、私以外にはいないけどね」
「それに歌好きに育ったのは、ママのせいでもあるし」
ママはウインクをする。
「どうして?」
「ずっとママの歌を聴いて育ったじゃない。今でこそ夏夜の方が歌ってるけど、子守唄から何から私が歌ったのよ?」
CMが明ける。ママが立ち上がる。
「さて、歌いますか」
ママはキッチンに戻って料理をしながらテレビに合わせて歌う。音程はしっかりしているし、いい声だ。ママはピアノも弾ける。それなのに自分では作曲をしないと言うのが不思議だ。
ママは歌いながら調理を進めて、ダイニングに麻婆豆腐とサラダとご飯を並べた。パパは遅いらしい。食べ始めたらさすがに歌うのをやめたけど、テレビは付けっ放しで、食事の後は後片付けをしながらまた歌い始めた。私も手伝って、知っている歌は一緒に歌った。定刻通りに番組は終わった。
ママはテレビを切る。
「お待たせ。お腹いっぱいになったわ」
「ありがとう」
ピアノに就く。
深呼吸を一回したら、新曲を弾く。ヘッドホンではない生の音で聞く「月の涙」に、我ながら鳥肌が立った。手直しをするべきところはいくらでもあるだろう。だが、命がちゃんとある。
煮詰めるように、直しをしては弾き、歌ってはまた直すを繰り返す。延々とそれをして、今日の創造性を使い切る。この感覚が出たらそれ以上は進めない。だから、ここまで。
終わりに、今日出来上がったものを通して弾いて、それを録音する。
汗びっしょりの体で、麦茶を一杯飲んだら風呂に入る。頭の中では曲がぐるぐると回っているが、声にはしなかった。
部屋に戻り歌詞を書く。だが、あまり書けずに今日はそこで終了として、早々に床に就いた。
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