こびりついたものを洗うには
息を大きく吸う、カビの匂いを見付けた。ありもしないノスタルジーが掻き立てられる。反射的に自分の中に該当する思い出がないかを探す。……ない。どの思い出もセピアになんてなっていない。色は鮮やかで、それは現実よりも鮮烈かも知れない。私に保存されている思い出の数は、だがもっとずっと多いはずだ。シャッフルしたカードから一枚を引いたようなサンプルだけで、ないと言っていいのだろうか。それは違う。ノスタルジーに近付きたいのなら今の私の心から出来る限り遠い、だけど抱き締めたいような思い出を探すべきだ。寝返りを打ってラジオと反対側を向く。音が遠くなる。
記憶の糸に指をかけて、糸を切らないように丁寧に手繰り寄せる。
――
別れの日は突然決まった。いなくなるのは先生ではなく私で、父の転勤に従って転校することになった。泣いた。谷川先生と離れ離れになるのがどうしても嫌だった。だが、そんな抵抗など影響もなく、最後の日を迎えた。
「さようなら、夏夜ちゃん」
全開で泣く私に言いながら、谷川先生も泣いていた。納得はいかなかったが、谷川先生のためにもがんばろうと思った。
新しい幼稚園に行く日、ママがとっておきのことを伝える顔をした。
「次の先生も、谷川先生みたいよ」
谷川先生にまた会える。
私は期待とそれに裏打ちされた勇気でいっぱいになって幼稚園に向かった。
だが、指定された場所に行っても谷川先生はいなかった。私を驚かそうと思って隠れているのだ。始まりの時間を今か今かと待った。その間に、担任の先生と挨拶をすると言うことで呼び出され、初めましての先生と向き合った。
「こんにちは。夏夜ちゃん。僕が担任の谷川です」
こいつじゃない。思いながら、どう言うことかを血が引くように理解した。
違う。もっと前がある。
――ずっと幼い頃、パパが連れて来たお姉さんと一度だけ遊んだ。お姉さんが何者なのかは分からない。
いつもの公園に行った。ブランコをお姉さんが押してくれて、滑り台も一緒に滑った。どうしてかすごく楽しくて、私は興奮した。三人で手を繋いで歩いた。訳もなく走った。お姉さんは私のことを抱き締めてくれた。初めて会った人なのに、千年前から知っているような気がした。
輝く時間が終わるとき、私はパパに抱っこされていた。
お姉さんが私の頭を撫でて、夏夜ちゃん、と呼んで、じゃあ、またね、と小さく手を振った。お姉さんは私のことをじっと見ながら、一歩、また一歩と離れて行った。十歩離れたとき、お姉さんは泣いていた。泣きながら私に手を振った。私も振り返して、お姉さんが最後に、またね、と言って歩き出したら、もう会えない気がして、涙が出た。パパの胸に顔を埋めて、でもお姉さんを見ようと顔を向けるのだが、もうお姉さんはいなくなっていた。
仰向けになる。過去の私を慈しむように、両腕を抱く。音楽が聞こえる。胸の中にひとつのまとまりを持って浮遊する切なさと、並行してじんわりと胸の裏を染める温かみがある。だが、ノスタルジーと言うには記憶は生きていて、セピアになんて全くならずに今もある。今の私に繋がっている。全部が今の私に繋がっている。
両腕を広げて、大の字になる。
耳を澄ます。ラジオが帰って来る。男の歌が耳にまとわりつく。下手糞で、それでいて声が不愉快な形で特徴的だ。ベタベタしている。机を持ち上げようとして掴んだらそこに何かベタベタがついていたときのような気分になる。意識を切ろうにもそのベタベタのせいだろう、振り払えない。ラジオを消そうかな、どうしてこんな歌が電波に乗っているのだろう。首を激しく振る。粘着は取れない。脳に細い糸を巻き付けられて繭にされていくような感覚。だが、もう少し耐えれば曲は終わるはずだ。ベタベタや繭への怒りよりも動きたくなさが勝った。耳を塞いで待つ。
音を聞いてみたら、シチローの声がする。繭が溶ける。だが全部は取れない。こびりついた歌を早く洗わないと沁みになって残ってしまう。ラジオではもう洗えない。そう感じたら体が自然に動いていた。
ラジオを切る。
雨の沈黙が届く。雨でも洗えない。自分で洗わないといけない。
部屋の中を一周歩く。洗えるものなど最初から一つしかない。そんなことは分かっていた。部屋の絨毯の上に転がり始めたときからもう分かっていた。樹に言われたことを洗うのも同じだ。ベタベタもノスタルジー未満も虫も雨も、全部を洗う。
私はピアノに就く。
小さく息を吸って、Dmaj7を、最大の音量で鳴らす。波動が走り抜ける。私の中を通る。音が減衰していくに従って私の内側が洗われ始め、私が組み替えられていく。ピアノを弾く私になっていく。同じコードをまた鳴らす。四回音量のピークと減衰を繰り返す。
Dmaj7をもう一度、音楽の始まりとして鳴らす。
次はC#m。
そしてBm7。
右手が走り出し、イントロを奏でる。何度も練習した、今はもう手に付いている動きだ。そこから歌う。私が作った。赤い夜の歌に部屋が染まる、その色が逆流するように私が染まる。染まるからもっと歌が出る。
歌が終わる。後奏を好きなだけやって、締める。
目を瞑って余韻を嗅ぐ。胸が膨らむ。
二曲目はややこしい恋の歌。次は信念の歌。その次はオレンジの部屋の歌。……八曲目が終わって、手を下ろす。体が熱い、汗が流れる。私のはこれで全部。私から生まれた響きが全て溶けて、雨の気配が聞こえる。誰にも言っていない。表に出す予定もない。だけど曲を書いている。
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