学校でイヤホンから流れるもの
次の朝、雨が残した水たまりを避けながら登校して、教室のいつもの席に座る。
気が付けば全員が「いつもの席」を持っていた。今日もそれぞれがそれぞれの「いつもの席」を順次確保している。私の隣も反対の隣もまだ空いている。だが来る予定の子がいるからその空席に座ることは出来ない。それでも、自分の席がちゃんとあるから問題ない。高校生のときのように、私の席があるのにまるでないようなことにはならない。
授業が始まるまで十五分ある。スマートフォンを出してイヤホンに繋ぎ、録音しておいた自分の曲を聴く。他の誰にも聞こえないように、限界まで小さい音量にする。
「おはよう」
顔の前で振られた手を辿ると、隣の席の
「おはよう」
私は言いながらイヤホンをしまう。
「夏夜って、いつも何聴いてるの?」
その質問には嘘の答えを予め用意してある。私はさも普通のことのように応える。
「ドマイナーなアーティストだよ」
「ふぅん。そうなんだ」
千明はあまり興味のなさそうな顔をした後に、目をくるりと回して、ぱっと花が開くような表情をした後、その花を萎れさせた。
「ねぇ、聞いてよ。この前彼氏と都立美術館に行ったんだけど、別々に回ろうって言うんだよ。変じゃない? 一緒に回るから楽しいのに」
私は首を傾げて考える。
「私は、彼の気持ち分かるな。自分のペースで鑑賞はしたいって気持ち」
あはは。千明が変なところに虫がついたみたいに笑う。
「やっぱり夏夜は夏夜だよね。そこがいい。ま、そうだよね、それぞれ考え方がある」
「付き合うって、それを一つずつぶつけることなんじゃないかな」
千明は額を小突かれたような顔をする。
「いいこと言う。そうだね。ぶつけ合ってみるよ」
千明は勝手に話を終えて授業の準備を始める。もう一回歌を聞こう。信念の歌「サニーバグ」がいい。
先生が教室に入って来たところで、イヤホンを外す。授業はちゃんと聞きたい。
授業が始まった。小学校の頃から数えたらもう一万何千回目の授業なのに、知らないことを話される。私が知っていることはきっと、この世界の何万分の一にも満たないのだろう。それなのに普通に生きて、暮らして、足りないと思うのは曲のことばかり。生きていくために知らなくてはいけないことはとても少ない。基礎的ではないことをどうして学ぶのだ。専門の力を付けるために大学に通っているけど、多分それ以上に知ることは私を、そして私の人生を面白くさせると期待しているところがある。それは私だけじゃなくて皆が共通して持っている期待のような気がする。
一時限目の授業が終わり、休憩時間には今の授業の要点をざっとまとめる。疑問点も整理しておく。試験対策ではない。学んだことをちゃんと血肉にしたい。
二時限目も同じ教室だったから急いで移動する必要もなかった。やはり知らない話が大半を占めていた。私にとって新しいことが先生にとっては常識なのだ。だが、逆もある。私の音楽を先生は知らない。それぞれの持つ不均衡が面白さを生むのだ。
昼休みは一人で過ごす。学食で簡単に食事を済ませたら、キャンパス内のベンチで音楽を聴く。自分以外の音楽だ。高校生の頃は影響を受けることが怖かったけど、今は影響を受けたいと思う。なるべく広く聴いて、琴線に触れたものを繰り返し聴く。耳コピしたり楽譜を手に入れたりして研究する。目的を持って聴くことはどこか作業的で、うんざりさせるところがある。だが、作業で聴いていようと関係なく、強い曲は私の奥まで届く。いいものはどう出会っても、いい。
ベンチから見る景色の中では、人は歩いているし、何かを喋ってもいる。太陽に照らされる輪郭もある。だが、音楽を聴いている私にとっては、目の前を通過する全てが意味を持たない背景になる。
その背景の一人が急に私に近付いて来た。地が図に錯視のように変わる。顔を見ると
「夏夜、金曜日、ヒマ?」
私は渋い顔を作る。
「合コンなら行かないよ」
恭子は首を振る。企みのある微笑。
「違うよ。軽音部のライヴ、新入生歓迎ライヴだったっけ、があるらしくて、
私は、それなら、と手帳を開く。
「一応場所と時間を聞いとく」
恭子は情報を私に伝えると、じゃ、またね。きっと来てね、と三人の輪に戻って行った。四人が歩いていく姿が背景にならなくて、視界からいなくなるまでイヤホンを付けなかった。音楽を摂取するのにはライヴは意味があるけど、うちの大学の軽音は半分以上がコピーバンドだ。それだったらオリジナルを録音で聴く方がいい。でも残りのコピーじゃないバンドは他では聴けないから、行ってみる価値があるかも知れない。人に聴かせるってどんな気持ちなんだろう。……怖くないのだろうか。コピーバンドなら他人の曲だからどう評価されても怖くはないのかも知れない。でもピアノの発表会は昔の他人の曲を弾くのに緊張した。それはそう言うレギュレーションだったからかも知れない。もっと自由に演奏していいところだったら、既製品をやるのは気楽なんじゃないか。それとも、曲を作るようになったからそう言う考えを持つのかな。
目を瞑る。息を吸って、吐く。
スマートフォンを繰って、自分の曲を流す。これまで聴いて来た音楽達には遠く及ばない。だが、私だけの音楽。世界で私だけが知っている。……私しか知らない。曲達は孤独なのだろうか。もっと熟したら、外に出たがるのだろうか。曲が私を通じて世界に出るなら、関門は私だ。そんな日が来るのだろうか。拳をぎゅっと握る。
時間だ。ベンチを立つ。背景に飛び込む。泳いだ背景は教室に着くまでずっと、背景のままだった。
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