人生つまらなそう
手のひらに絨毯の毛の感触がする。息を吸い込んで、吐き出す。ゆっくりと瞼を開ける。ぼんやりと目に滲み込んで来た光が、すぐにくっきりとした形になる。
それは天井に据え付けられたシーリングだった。ひとつ、ふたつ。いっぱい。シーリングには黒い点がその膨らみを中心に散っている。虫だ。たくさん死んでいる。走光性は私には想像もつかない程に強靭に虫の行動を支配しているのだろう。そんな本能に身を任せると言うのはどんな気持ちなのだろう。抵抗すると言う発想はあるのだろうか。その余地があるのだろうか。
シーリングの中に入ったとき、虫達はどう感じるのだろう。求めていた光に到達した、本能を満たしたと喜ぶのだろうか。それとも、本能とは別の次元で自分が抜けることの出来ない罠に嵌ったと諦観するのだろうか。最期のフライトを終え、黒い点になるまでの短い間、何を想うのだろう。
出口はあるのに。
それなのに死の光に向かう。
だからきっと、走光性を満たすことには恍惚を伴うに違いない。
黒い点の一つ一つに悦楽と死が重なり合って沈殿している。
私がいつか虫達を黒い点としてではなく見る日が来るとしたら、それは掃除のときだ。天井からシーリングを水平に下ろす。中は覗かない。慎重に床に置いたら、掃除機でひと思いに吸い込む。そこにどんな虫がいるのか認識するよりも早く、ひと絡げに、黒をなくす。それでも少しだけ見てしまう。目から胸に飛び込んだ黒は、しばらく沁みのように残るだろう。不快さではなく、命の足跡として。
窓の外から雨の気配が淑やかに流れ込み、部屋の中までも「雨の日」にする。しんしんと体に降り積もる冷気を感じて、寝返りを打つ。だが、肌寒さは変わらない。
起き上がりたくない。ここが最高という訳ではないが、ここに転がっていることに安定がある。だが、このままでは熱を出す。反対向きに体を転がす。冷感が増す。子供の頃だったらママがブランケットを掛けてくれた。パパが寝室まで運んでくれた。今はそれをされたくない。一人でいさせて欲しい。二人は帰って来ていないから自然と一人ではあるが、物理的にではなく、一人がいい。
もう一度仰向けになる。天に向いた表面積が最大になり、降り注ぐ冷たさが閾値を超えた。ぶる、と震えた。
諦めて、ソファでくしゃくしゃになっているピカチュウのブランケットを取りに起き上がる。急に高さを得た視界に軽いめまいがして、ふらつく。ふらつくが、そのふらつきを利用して一歩目を踏み出す。めまいは静かになっていき、三歩目には凪いでいた。
ブランケットを掴んで引っ張ったら、ピカチュウの顔が伸びてよりかわいくなった。このピカチュウはパパがゲームセンターで取って来たもので、取るのに幾ら使ったかは教えてくれなかった。大きくて、暖かくて、入れ替わりの激しいリビングのもの達の中で最長の五年、レギュラーの座を保っている。ずるずると引っ張りながら元の場所に戻る。
寝転がったらさっきの私の体温がまだ床に残っていた。ブランケットを被る。
耳を澄まして、音のない雨を聞く。その音は、真の沈黙よりずっと無音が柔らかい。耳を侵害しない。心のない声のように痛くはない。無音にひそむように、自分の呼吸を感じる。もう乱れてはいない。
大学のキャンパスは広大だが、学生の行動範囲は似通っているのかも知れない。曇り空がわんわんと響く昼休み、食堂への道を歩いていた。
向こうから近付いてくる人物が
「夏夜じゃん」
樹は高校の同級生だ。どうしてここまで広いのに出会ってしまうのだろう。樹は高校のときのヒエラルキーを今だに引き摺っている。ニヤニヤと笑いながらそばまで来る。
「私、今度、スキューバダイビングやるんだ。いいでしょ」
私も多分、引き摺っているのだと思う。
「そうなんだ」
「夏夜は何かやりたいこととかないの?」
樹は顔を斜め上に上げたまま話す。私は少し俯く。
「私は別に」
「ふーん。夏夜って、何もないよね。人生つまらなそう」
侮辱のジャムをたっぷりと塗られて、返事をすることも出来なかった。樹は勝利を味わうような笑いを浮かべて、私の横をすり抜けて去って行った。私だって。思っても言葉に出来ない。それは、勝てないから言えなのではなく、私が漏らしたくないから言えない。樹がしたと思っている侮辱と、私が感じている侮辱は違うものだ。
思い出したら鼓動が足速になって気持ち悪い。ブランケットの温もりと、外の雨に意識を集中する。少しずつ、落ち着いて来る。それでも胸の中に棘のある独楽のようなものが回り続けている。触れたらきっと痛い。いつか回転が止まることを待つしかないのだろうか。……今はそうするしかない。雨を聞く。
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