雨と空の匂い

真花

オタマジャクシを飲む少年

 霧の粒子が隣どうし手を取り合ったら雨粒になった。

 音はしない。だが、気配は確かにある。寝転がった絨毯の湿気の匂いを嗅ぎながら、私の耳に肌に、窓の外をじっくりと濡らす声が聞こえる。他の全てが既に洗われた後で、雨だけが世界を占めている。

 きっと公園のブランコは、誰も乗る人がおらずじっとしていて、その角から少しずつ雫を垂らしている。滑り台は斜めになった滑り面を少しずつの雨水がなだらかな滝となって流れ落ちている。砂場では砂が水を吸って泥になり、形を成し易くなっているが、その泥を丸める子供はいない。

 公園と外との境目にある花壇に咲くアジサイはこの雨を喜ぶのだろうか。

「降られた雨の分だけ、色が変わっていくのがアジサイだ」

 英太えいたが胸を張って教えてくれたから、私は大学生になっても土の酸性度で色が変わると言う科学的な説明を受け入れられないでいる。もちろん、子供の空想だったと言うことは分かっている。今、英太に同じことを問うたら科学的な方を述べるに違いない。それでも、私のアジサイは雨で色を変える。

 そのアジサイから十歩進んだところに小川がある。私達はその川をドブと呼んでいた。ドブの意味なんて知らずに、澄んだ、生き物のいる小川をドブ呼ばわりしていた。……雨が降っていてもドブの中に影響はなく、平穏だろう。そこにはオタマジャクシがいる。雨がカーテンになってより安全に、穏やかに泳いでいる。

「こうやって大人になって行くんだ」

 見てろよ、と小学生だった英太はドブにザバザバと踏み込んで行った。両手で作った柄杓を水からあげると、そこにはオタマジャクシが二匹捕えられていた。私は掲げられたオタマジャクシを見て、オタマジャクシを捕まえることくらいで大人になんかなれないと思った。

「見てろよ」

 英太はオタマジャクシを水ごと飲み干した。

「大人に一つなったぜ、俺は」

 英太は胸を張る。私には食道を滑って胃に落ちるオタマジャクシが見えた。二匹とも必死にもがいて、だがその抵抗は実を結ばずに消化液の海に放り出される。出口を探して懸命に泳ぐ。どれだけ泳いでも出口はなくて、かと言って飛ぶことは出来ない。次第に体は侵食される。私に映る二匹はもう絶命していた。

 英太は自信に満ちた顔で私に一歩近づく。

夏夜かよも飲みなよ」

 私はたじろぐ。

「嫌」

「同じステージに立とうよ」

「絶対に嫌」

「苦しくないよ」

 英太が手を伸ばして来た。反射的に突き飛ばした。英太はドブにバシャンと大きな音を立てて倒れた。それはまるで英雄の最期のように堂々とした倒れ方だった。オタマジャクシが波紋を描くように逃げて行った。英太を引き起こしたかどうかは覚えていない。

 ドブは今、雨の中。攫いに来る者も落ちて来る者もいないから、平和だ。それとも、他の英太があの日のようにオタマジャクシを食べようと水を乱しているのだろうか。……きっとそんなことはなく、平穏なはずだ。私達はドブでオタマジャクシを狩る幼さを過去に置き去りにして、今日を迎えている。オタマジャクシを飲み込むと大人になるとは、多分、英太ももう思っていないだろう。

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