だから夏夜にいて欲しい

 元から答えは出ていたのかも知れない。

 英太は椅子に思い切りもたれて、天を仰ぐ。そのまま動かなくなった。

 私は黙ってそれを眺める。英太にとって一番いい選択は何か。それはダブルバインドのどちらからも逃げ切ることだ。そんな明確なことが分からない英太ではないと思う。あるとすれば、感情が勝ってしまって、正しい道を選べなくなっていると言うことだ。そう言う意味では今日の相談には価値があると言えるだろう。英太が魔界に堕ちることを止められそうでよかった。

 英太は天井を見上げたまま声を出す。

「感情で始めたことなのに、こんな理性的に終わるのか」

「そうだね、何だか非対称だね」

 ぎ、と音をさせて英太が元の姿勢に戻る。その瞳には決意が宿っていた。

「でも、受け入れるしかない」

 私は少しだけ頬を緩める。

「そうだね」

 よし、と英太が立ち上がる。

「もう決めたから、すぐに電話して来る」

「え?」

「雪子に別れるって、電話するんだ」

「今?」

「今しかない」

 確かに、父親ゲームから降りるためにも早いアクションは望ましい。だが、そこまで急がなくてもいいのではないか。かと言って、止める理由もない。そう考えている内に英太は店を飛び出して行った。

 残されてテーブルに一人。膨らみ、熱を持った空間は穏やかに萎み始めている。だが、私はまだ集中から完全には戻っていない。たった今のやり取りを反芻する。ちょっといらいらしてしまったけど、行くべきところに到達出来た。私は私を褒めてもいい。そう思ったら、胸の中がじんわりと暖まった。集中と暖かさが同時にあると、まるでさっき飲んだコーヒーのようだ。目を瞑ってその感じを味わう。

 ドアベルが鳴る。瞼を開く。英太がさっきよりももう一枚固い岩の顔で戻って来た。色味もくすんでいるが、目だけがギラギラとしている。座って、手を組み、私をじっと見る。だが何も言わないので、耐えかねて私が、どうだった? と訊くと、その目をさらに開く。

「何か怒ってて、ここに来るって」

「来る?」

 英太は素早く頷く。

「会って話さないといけないことだと思うって。それも一理あるなと思ったから呼んだ」

 呼んだ。どんな形であれ恋人同士が別れ話をするのに、会うことはおかしくない。だが。

「私は?」

「いてよ」

「何で?」

 私から大きな声がほとばしる。

「完全に部外者じゃない!」

「弁護士だって部外者だけど一緒に戦うじゃん。俺の仲間ってことで、頼むよ」

 英太は両手をぎゅっと合わせて拝む。ドブに突き落とすべきか。幼馴染みのよしみで最後まで付き合うべきか。私は英太をどれくらい大切に思っているのだろう。迷っていると英太はメニューを引っ張り出して私の前に置く。

「せめてものお礼に何か奢るからさ。好きなの頼んでよ」

 その作り笑いがあまりに作り笑いで、これから起きることに英太が心底尻込みしているのが見て取れた。英太には私の助けが必要で、その助けは私にしか出来ない。そう言う意味では部外者でもないのだ。……「俺の仲間」と言っていた。その真意はわからないけど、仲間と言うことで手を差し伸べてもいいか。

「しょうがないな」

 私はウエイターを呼ぶ。

「ご注文ですか?」

「ミルクレープ下さい」

「畏まりました」

 ウエイターが去るのを見届けてから英太が私の目を見直す。

「ありがとう」

「普通のことだよ。……それで、英太の意志は、別れるので間違いないんだよね?」

 英太は渋柿のような顔をする。

「本当は別れたくない。だけど、論理的に理性的には別れるしかない」

「気持ちが付いていかないってこと?」

 英太はゆっくり頷く。

「だってそうでしょ? 感情と理性の板挟みなんだから。でも」

 英太は顔に力を込める。眼力がそれに伴っていない。

「別れると決めたから別れる。後で泣く」

「分かった。そうなるように尽力するよ。で、もちろん父親に立候補もしないんだよね」

「しない。これは気持ちも付いていってる」

 英太は胸を叩く。本人は自信があることを示しているつもりなのだろうが、私にはその自信すら別れる気持ちと同じくらいに脆いものに見える。

「もし、父親に指名されたらどうするの?」

 英太は息を詰めたような顔。

「……断る」

「断れる?」

「だから夏夜にいて欲しい」

 拾われた子犬のような瞳で私を見る。そっとみかん箱に戻そうかな。だが私はそんなことはしないと子犬は知っている。ミルクレープが運ばれて来た。ミルクレープがここにあることが私の意志の証明で、子犬を最後までみる約束の形を成したものだ。

「分かった」

「恩に着る」

 ミルクレープはフォークに楽しい。プタタタタと切れていく。口に運べば甘くて美味しくて、こんな決戦直前でも味が分かることが不思議だった。

 英太の顔が真っ青だ。でも雪子を恐怖していると言う感じではない。自ら断ち切る恋の余命を想っているような、来たる修羅場の惨めさを想定しているような。英太は何も言わない。視線を緩慢にうろうろさせる。放っておいて、フォークを動かす。

 マスターに予め断っておいた方がいいのだろうか。これから別れ話をします。恐らく紛糾します。……喫茶店ならそんなことはよくあることかも知れない。乱闘とかしなければ別にいいか。乱闘する予告ってのも酷いが。予告するだけじゃなくて私達も雪子に備えなくてはならない。作戦を練ることも備えるだけど、エネルギーを蓄えることも備えるだ。ミルクレープはいいエネルギーになりそうだ。

「英太も何か食べたら? パワー出ないよ」

「食欲ない」

 英太の声が小さい。

「じゃあ尚更食べようよ」

 いいよ、と言う英太を無視して私はウエイターを呼ぶ。

「はい。ご注文ですか?」

 止めようと動き出す英太を放っておく。

「ミルクレープもう一つ下さい」

「畏まりました」

 ウエイターの笑顔がいつもより共謀的だった。私達のやり取りを何となく観察していたのだろう。だが、どうして私側についたのかは分からない。私と同じように決戦の前に腹拵えをすることを勧めたかったのだろうか。

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