ふつうじゃないから、ここに座ってる

 私は再び黙って、英太も黙る。視線だけが変わらずにお互いを焦がし続ける。沈黙が雪のように積もって、私達を埋めてゆく。耐えかねたように英太が口を開く。

「学校はどう?」

 どう、と言われても特別なことは何もない。

「ふつう」

 英太は、ふつう、とおうむ返しに口の中で呟く。その音が溶けて消える。消えたところから芽を出すように発声する。

「そっか。……て、思春期の娘じゃないんだから。他に何かないの?」

 私はまるで思春期の娘のようにムッとする。

「英太も私のパパじゃないよ」

 英太は張り付けられたような顔を一瞬する。

「それは、そうだ」

 私は小さく息を吐く。

「本当にふつうなんだ。悲しいこともない代わりに嬉しいこともない。日々吸収する知識も、それが日常だと『ふつう』だよ」

 英太は頷く。漏らしてしまった大事なものが何とか回収出来たかのように。

「確かに、その通りだ」

「英太はふつう?」

 英太はまるでたった今一度死んだみたいに真っ黒な顔になる。墓穴から這い出るゾンビのように首を振る。

「ふつうじゃないから、ここに座ってる」

 英太のふつうを奪ったものは何なのだろう。それは同時に私の中に水ヨーヨーを生んでいるものでもある。学校はふつうでも、今の私はふつうではないのかも知れない。

「お待たせしました」

 見れば、ウエイターがコーヒーを持って立っている。私達の返事を待たずにウエイターはコーヒーを私の前に置く。英太の分はなかった。馴染みのブレンドの香りが鼻に届いて、今さっきまで英太と繰り広げていたやり取りがいかに現実を歪ませていたかに気付く。

「すぐにもう一杯も出来ますので少々お待ち下さい」

 ウエイターは私と英太の中央に言葉を置いてカウンターに戻って行った。カウンターではマスターが英太のであろうコーヒーを淹れている最中だった。それが出来るまで待つことも考えたが、香りが素晴らしくて、胸のうらをチロチロと触れられるみたいで、英太に、ごめん、お先に、と断って啜った。

 美味しさには「新しい」美味しさと「いつも」の美味しさがあるが、このブレンドコーヒーはもちろん後者だ。「新しい」美味しさはともすると、初めましてであれば十分にその条件を満たすと言う側面がある。だが「いつも」の美味しさは繰り返し飽きさせない力がなくてはならない。それとも、その味が刻まれて、何度も求めてしまうように教育されるだけなのだろうか。

 カップを置く。BGMはクラシックの「パッヘルベルのカノン」、窓の外は夕暮れを越え始めている。向こうの席ではビジネスパーソンと自称しそうな男性がパソコンをいじっていて、その向こうではカップルが向かい合わせに座りながら手を握り合っていちゃいちゃしている。英太はまだ黒い。歪みの向こう側にいる。私達はコーヒー一杯分だけ彼岸と此岸の距離にいる。

「お待たせしました」

 今度はマスターが英太のブレンドを持って来た。色気を感じるほどにやさしく、コーヒーは英太の前に置かれた。黒い表面の照りが美しい。

 マスターは軽く会釈をして去って行った。英太もコーヒーに口を付ける。岩になっていた顔の上に「美味しい」の顔が重なる。私達がこの店を選び続けるのは、初めて来た店だからではない。固さは変わらないままだし、芯が震えたような気配もあるままだが、ひと口ごとに英太は少しずつ落ち着きを得ているように見えた。

 英太は息を吐く。話をするのをゴーギャンでにしてよかった。きっと英太も同じように思っているはずだ。

 私達は喫茶を目的とした客のように、黙って、コーヒーを飲み続けた。いずれカップは空になる。二つの空のカップが並んだ。本題に入らなくてはならない。英太も同じことを感じている顔をしている。私から始める訳にはいかない。ここだけは英太の言葉を待つしかない。そう思いながら、英太の目をじっと見た。

 英太が目で頷く。小さく息を吐いて、目を閉じる。

 私は待つ。

 時間が止まったみたいだ。胸の中の水ヨーヨーは勢いを失って、何でも来い、だけに統一される。

 英太が目を開く。瞳にはさっきまでなかった意志が灯っていた。

「あのさ」

 黒い淀みの中央に卵を置いたみたいに言葉が響いた。

 うん、と促す。流れ星が三つ落ちるくらいの間を開けて、英太がもう一度、あのさ、と言う。私も、うん、と繰り返す。

「あのさ、……すっごく言いにくいんだけど」

 英太は絞り出すように続きを言葉にする。

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