ライヴ会場のざわめきの中で
日が明けて金曜日は朝から雨だった。葉月は今日も来ていたけど雑談しかしなかった。千明と挨拶をした。
授業を終えたら傘を差して橋を渡り、駅前に待ち合わせている英太のところに向かう。私の大学圏内に生活圏内の人を招いたのは初めてだ。
最初に何と言おうか。「ようこそ私の大学へ」私が所有しているみたいで変だ。「遠路はるばる」そんな堅い関係じゃない。「今日はライヴだね」そんなことは最初から分かっている。決まる前に待ち合わせ場所に着いた。
英太はまだいなくて、傘を差したまま銅像のように立つ。スマートフォンを確認しても着信も何もない。まだ五分前だからいなくても問題はない。
イヤホンをしようとして、外の音が聞こえないのはよくないと思い直して、雨を見る。
雨粒はどれひとつとして同じものはないのに、まるでひとつの塊のように扱われる。音楽も同じなのかも知れない。全体でひとつの生き物で、それぞれの粒が必死にオリジナリティを発揮しようとしているが、音楽そのものはその総体として動いている。だから粒に意味がないなんてことはない。ひとつひとつの粒ががんばるから全体が動くのだ。だが、粒は全体のためなんて考えていない。それでいいんだ。大きく視点を開き過ぎずに、むしろ近視眼的に、まるで点がスパークするように、やればいい。全体が動くのは結果に過ぎない。でも全体に影響するのには最低限、発表はしなくてはならない。
「夏夜」
見れば英太だ。傘を持っていない。
「傘、入る?」
「助かる」
「じゃ、行こっか」
「おう」
橋を渡ってキャンパス内の会場に着くまでの間、ずっと英太は「いちじく」の面白さについて語り続けた。失恋に対しての処方は、マンガだけで十分だったのかも知れない。
会場の入り口で受け付けに座っていた二人の内、一人は恭子だった。
「夏夜、こっちこっち」
「恭子、軽音だったっけ?」
「やや関係者ってこと。隣は彼氏?」
「ううん。友達」
「そっか。じゃあここに名前を書いてね。無料だよ」
「ワンドリンクとかあるの?」
「ないよ。喉が渇いたらそこの自動販売機をどうぞ」
名前を書いて、英太にも促して書かせて、会場に入る。中はまだ明るく、赤飯の小豆の割合くらいに人が空間を占めていて、ステージでは何人かが機材の調整をしている。椅子が並んでいて、シッティングでの参加になりそうだ。英太はずんずん前に進んで、ど真ん中の前から三列目に陣取る。その隣に私は座る。
「ライヴ初めてじゃなかったっけ?」
「どうせ観るならいい席がいいじゃん」
まだ開演までは時間がある。雑音が混じり合って私達が話すことを閉じ込めてくれそう。
「雪子のことは、どう?」
「え。今?」
「今。どうなの?」
「毎日思い出すよ。でも、雪子がやってたことって、冷静に考えれば酷いことだったな、って最近思うようになって来た。だって、彼氏六人だよ? 俺の割合十六パーセントってことでしょ? 俺は全員を百パーセント愛するってことは、やっぱあり得ないことだと思う。それに、それ以上に、俺のことペットだって夏夜に言われて図星の顔だったんだよね。ペットって何だよ。六番目確定って何だよ。それって全然俺のこと想ってないよ。かわいがっているだけじゃん」
ほお、と私は頷く。思った以上に自分で自分のことが分かっているみたいだ。英太は続ける。
「俺は真剣に恋してたのに、って思うと、惨めになった」
「手玉に取られてたんだよ。別れてよかったよ」
「でも、そう言う雪子の悪事と俺の恋は同時に成立出来る。だから恋心から見たら俺は恋人を失った男なんだ」
私は頷く。英太の肩に手をポンと置こうと思ったがやめた。
「だから薬がいる」
「いる。別れた理由はだから納得出来る。なのに理不尽に胸が痛い」
少しずつ人が座り始めた。私は声のトーンを少し落とす。
「恋心って、殺すものなのかな。それとも、薄めて溶かしていくものなのかな」
「やってみた。殺せない。どんだけ切り刻んでもすぐに元に戻る。薄めるしかないと思う」
「きっと、話すと薄まるのが早くなると思うんだ。だから、どんどん話して」
「分かった。でも、人が増えて来たから、また後がいい」
「そうだね」
英太が飲み物を奢ってくれると言うので、お茶を頼んだ。私は席で待ち、周囲を見回す。健二を見付けた。でもそれ以外に知っている顔はなかった。二人組の客が多い。外の湿気とは違う湿度が会場に浮遊している。それは熱気と言うには幼若で期待と言うには微弱で、かといってため息にしては弾力がある。
「はい、お茶」
「サンキュー」
受け取ったお茶をすぐに開けて飲む。喉を流れる冷たさが気持ちいい。
「夏夜って、ライヴとかよく行くの?」
「ううん。学内の出し物には半分くらい行くけど、街のライヴハウスとかは行ったことない」
「音楽はどんなのいつもは聴くの?」
「雑食だけどジャズは聴かない」
ふぅん、と英太は頷く。
「まだピアノ、弾いてるの?」
弾いている。めっちゃ弾いている。でも英太のイメージする、子供の頃のピアノの発表会とは違う。
「何で?」
「俺はやめちゃったから。音楽が向こうから流れて来るものを聴くだけに、それからはなった。でも、夏夜は違う感じがする。まだライヴは始まってないけど、演奏をする側の人と同じ感じがする」
私は少し黙って、ステージを見て、それから英太を見る。
「弾いてるよ。ピアノ」
「きっといい音出すんだろうな」
「まあね」
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