ラジオ:時崎明子
窓を開ける。街灯に照らし出された雨粒が線の群れになっている。湿気った空気がざらざらと部屋の中に侵入して、スライムみたいにうずくまる。小さな声で、外に向かって新曲のフレーズを歌う。歌は雨に打たれてすぐに失速して、地面を流れて消えた。
それを見届けたら窓を閉める。ラジオを持ってベッドに入り、小さくかける。落ち着いた男性のDJの声。
「――『かまびスト』、今日のゲストはシンガーソングライターの
「それが、よく分からないんですよ」
「と言うと?」
「食欲とか性欲があることって、当たり前じゃないですか。だから、その根源的な意味なんて考えない。もちろん、意味付けは出来ますけど、それと実感って乖離してると思うんです。それと同じなんです」
「まるで最初からある欲望ってことですか?」
「作ることが好きなのは物心ついたときからだから食欲的で、徐々に音楽が中心になっていったのは性欲的ですね」
「なるほど」
「作りたいのは、歌いたいのは、本能ってことですね」
「本能のミュージシャン、時崎明子!」
「そう言うと何かとっても特殊は人みたいですけど、選ぶものの違いはあっても、誰にもそう言う本能みたいな動機でやりたいと思うことって、あると思います。
んん、と短く橘木は考える。
「僕は喋ることがそうかも知れませんね。若い頃とか、自分の部屋で『ひとりDJ』やっていましたし」
「『ひとりDJ』、いいですね。喋る本能ですね」
「本能のDJ、橘木あきと!」
「もちろん、単にやりたいエネルギーがあるだけじゃ作品になりませんから、その先は色々あります」
「技術とか、環境とか、そう言ったものですか?」
「それと、人もあります」
「人ですか」
「出会いは作品に大きく影響します」
「と言うと?」
「これは、そのままです。自分と作品に影響を与える人と、あとは他の作品とかですね、に出会えるかどうかが大事です」
「出会い、ですね」
「そうです。きっと誰もが思い当たる節があると思いますよ」
時崎がやわらかく笑う声。そこには言葉への自信が匂う。
「……では、次に伺いたいのが、ギター一本で全国を行脚したと言う伝説の演奏旅行についてです。名前はあるんですか?」
「何とかツアーとかみたいな名前はないですけど、私の中では『旅ライヴ』と呼んでます」
「どうしてしようと思ったんですか?」
「武者修行です。悲しい想いをきっとたくさんするって最初から思っていたのですけど、その中でどれだけの人に届けられるかを試したかったんです」
「悲しくなる予定だったんですか?」
「何の知名度もないギター弾き語りが、ひょっこり現れて、足を止めてくれる方が奇跡だと思ってました。ある程度自分の作品に自信はありましたけど、それでも、……いや、言い訳を最初に用意したんですね」
「実際はどうでしたか?」
「ほぼ予測通りの結果で、でも残りのちょっとが、すごくよくて、よかったよ、って声をかけて貰ったり、CDを買ってくれたり、一番のときは人垣が出来ました。熱い拍手を貰って。そのときのことは一生忘れないと思います」
「『旅ライヴ』を終えて、心境はどう変わりましたか?」
「ドライなことを言います。曲は殆どの人には届かないと知りました。でも、一部の人にはしっかり届く。そしてそれでいいんだと思うようになりました。でもね、橘木さん、曲を作りたいと思うことと、それを届けたいと思うことには、少し開きがあるんです。それでも私は届けたいと思う気持ちがあったのでこういうことをしました。そこが一番変わったことかも知れません。今は、作りたいと思うことと、届けたいと思うことが繋がっている実感があります」
「それって大変革ですよね」
「そうですね。迷いがもうない、と言うと嘘ですね。迷いながらも軸足の場所が変わったような感じです」
「なるほど。またやりますか? 『旅ライヴ』」
「しません。あのときの感動を濁らせたくないので」
「ではここで一曲お送りします、時崎明子で『
鼓動が強く速い。
私よりずっと前に進んでいる人がいるのは当然だ。……時崎明子に出来たのだから自分にも可能なのかも知れない。それは思い上がりかも知れない。作りたいことと届けたいことの間の乖離を繋ぐ前提として、時崎明子には最初から届けたいと言う気持ちがあった。私の前に立ちはだかるのはそれに反する気持ちだ。そこが違う。私がずっと抵抗しているのは、だからだ。届けたい気持ちがない訳じゃないのはもう認めた。だけどそれを封じる気持ちの方がずっと強い。悪く評価されるのが怖いのだと思う。「旅ライヴ」で殆どの人に冷たく扱われても、残りのよかったところを持ち帰ることが出来る時崎明子は強い。曲を否定されたら、私が否定される。自らを晒すなんて出来ない。私には飛び越えられない。
曲の途中でラジオを切る。部屋がしんとする。胸の中の主張が、急に虚しく響く。声がする。
「本当の気持ちを認めなよ」
手で振り払う。
蓋をずっとして来た。あらゆることを理由にした。だけど、違うのかも知れない。私の中の「届けたい」想いが育って来ているのかも知れない。蓋を封印を圧迫する程に。もしくは、曲自身が「誰かに聴かれたい」と叫び始めているのかも知れない。
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