声
階段が長い。
他の人にとって、私の曲は命があるのだろうか。訊けば分かることだ。曲を聴いて貰って、感想を貰えばいい。だが、既に私の曲を知っているママやパパにだって、訊けない。
絶対に酷いことは言わないと分かっている。だがきっと私は表情とか声音とかから真相を読み取ろうとしてしまう。そこに僅かでも曲への否定的な想いがないか検閲してしまう。そうする自分が嫌だし、それ以上に評価に晒されることが嫌だ。いつかは誰かに聴かせないといけないなんてことはないし、ずっと私のものであっていい。胸が重い。階段が長い。
出口のある方向は分かっている。そこに向かえないのがもう一つの気持ちによるものだって、分かっている。
小さな芽のような、光のようなそれは、胸の真ん中の辺りにもうずっと前から居座っている。決して直視したくない。認めてはいけない。鍵のようなものだから、小さくても受け入れた瞬間にもう元には戻れなくなる。今日も無視しよう。まだ想いの影を踏んだ程度だ。今ならまだ大丈夫。ほら、足を上げて、部屋に向かおう。元の私になろう。
階段を上り切った。鼓動が駆けている。封じるべきものを封じた、部屋の床にへたり込む。
封じた筈の気持ちが胸を内側からノックする。
「僕を忘れるなんてことは、出来ないのに」
私はいやいやと首を振る。
「私は作れればそれで満足なの!」
耳を塞ぐ。でも声は聞こえる。
「僕と向き合ってよ。今すぐ」
「嫌だ。私は私のやりたいようにやる」
「僕だって夏夜の一部だって、分かっているでしょ?」
「見なくていいものもある」
「いつかは向き合わなくちゃいけないことだよ」
声はさも当然と言った風だ。
「でも今じゃない」
「夏夜が無視するから僕が育つんだよ? 分かってる?」
「そんなこと知らない」
声の主がため息をついた。
「夏夜は本当は望んでいるんだよ」
「そうなのかも知れない。だけど、直視したくないの」
「見たくないだけで、ある、ってこと?」
「嫌だけど、そう」
「そこだけ分かってくれているなら、今日はもういいよ」
声が遠ざかって、消えた。
「分かってる。だけどやりたくないんだ。いつかそのときが来たらちゃんとやるから。でも今じゃない。今は作曲に集中したい」
口ではそう言ったけど、体を襲った疲労で、とてもピアノを弾けない。ベッドに横になる。曲を作るようになってしばらく後、声が主張をするようになった。ただ一つのことを求める声が、家にいてピアノを弾いたり録音をしたりしない時間に、曲のことを考えたときに聞こえることが始まった。いつもじゃない。同時に自分自身が声の主張を実行することをひどく恐れていることが分かった。だから常に議論は平行線で、少しは分かっていると言うことを見ると、声は引く。……いつか声の主張を全うすれば、声は消えるに違いない。
頭を抱える。
「人に聴かせて、評価されることを私が望んでいるなんて」
言葉が部屋の壁を、こん、こん、こん、と跳ねて胸に戻る。静かだ。窓の外では雨は降り続いている。一階の二人はテレビを見ているだろう。でもここは静か。今ここで息を引き取ったら、曲達は誰にも聴かれることなく消えてゆく。それで本当にいいのだろうか。いい、と思っているからそうしている。だけど、声に言われるまでもなく、そうじゃないことを考えている私がいる。でも、箱にしまって隠している――
「夏夜、起きなさい。お風呂」
ママの声で起こされた。いつの間にか眠っていた。
夢を見なかった。
ママはもう部屋から出て、階段を下りる音が聞こえる。
まるで時間をワープしたみたいだ。もう一つの私の想いと戦った痕は確かにあるが、痕であって生傷ではない。体がちゃんと私のもので、心とのズレはない。鼓動も穏やかだし、全身の力が程よく抜けている。肌が少しだけ湿っている。
コアラがじっとしているのは、ユーカリの葉っぱの毒素を解毒しているかららしい。ナマケモノも似たようなものだとか。同じことが私に起きたのだろう。外から入った毒じゃないから、自家中毒か。
風呂に入る。裸でもピアノを弾けるし歌も歌える。私そのものに付帯する力だ。湯船に浸かって新曲を歌う。……今日はこの感じで終わろう。
風呂から上がると、ママとパパはテレビをBGMにおつまみとビールをやっていた。誘われたが断って、部屋に戻る。
英太からラインが来ていた。
『「いちじく」ってマンガ知ってる? めっちゃ面白い!』
今日の処方は上手く当たっているみたいだ。返信を打つ。
「知らない。今度読んでみる」
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