始めるよ

 目覚ましの音。よく寝た感覚。今日は英太の日だ。思い出したら心臓が苦しくなる。窓を開ける。雲はちぎれちぎれにあるけど晴れている。昨日の雨の匂いが残っている。空の匂いと混じっている。深く奥まで吸い込む。僅かに胸の締め付けが緩んだ。

 階下へ行くとママとパパの話す声が聞こえる。何を言っているのか聞き取れないから声のするキッチンへ行くと、二人で並んで朝食の用意をしていた。私に気付かない。

「おはよう」

 二人は同時に振り向いて、それぞれに、おはよう、と言い、また料理に戻る。私は洗面所に行き、顔を洗う。歯を磨く。部屋に戻り着替えて、もう一度キッチンへ行く。二人は料理を終えて、ダイニングに並んでいる。ごはん、味噌汁、ハムエッグ、ブロッコリー。パパが、朝ご飯、食べるだろ? と座るように促す。私は自分の席に就いて、ママとパパの顔を交互に眺める。パパが胸を張る。

「今日は特別な日だと聞いて、ちょっと豪華な朝ご飯にしたんだ」

「ブロッコリーがあるだけだよね?」

「そのひとつまみが大事なんだ。さ、食べよう」

 三人で声を合わせて、いただきます、と言って、食べ始める。二人の気持ちは嬉しいけど、食べ過ぎると歌い辛くなるから、ブロッコリーは二つしか食べなかった。ママもパパも何も言わない。ごちそうさま、と器を下げたときに、パパが、夏夜、と呼ぶ。

「応援してる」

 ママが、私も応援してる、と続く。

 涙が胸から上がろうとする、でも泣いてしまったらいい歌が歌えないから、それを堪える。堪えるためには二人を見る訳にはいかない。私はシンクに視線を落としたまま、ありがとう、と言って、そのまま部屋に戻った。

 鏡の前に座り、そこに映った自分の顔に絡まった線のような気持ちを見出して、それを丁寧に一本にしてゆく。涙が零れる距離からずっと遠くなって、化粧をする。ごく簡単なものだ。夏夜、と窓の外からパパの声がする。見ればママと二人で私の部屋を見上げている。

「じゃあ、俺達は行くから」

「はーい」

 私は大きく手を振る。ママもパパも手を振る。二人はくるりと後ろを向いて歩き出す。

 ピアノを弾く。指慣らしのような、リハーサルのような。

 八時四十五分ぴったりに弾き終える。英太がうっかり外で聴いてしまわないように。

 残りの十五分、トイレに行き、麦茶を飲む。ソファに座って目を瞑る。心臓が苦しい、これからもっと苦しくなる。英太を迎え入れたとき、止まってしまわないか。だが、その瞬間を越えられたら、きっと何もかもが上手く行く。間違えることなく曲を弾いて、出来に満足する。届くかどうかは別の話だが。きっとそうなる。だからあと五分後に私の心臓よ止まらないで。

 耳の奥まで拍動が響く。あと何拍後に英太は来るだろう。

 チャイムの音。

 飛び起きて玄関に向かう。

 覗き穴から見えるのは間違いなく英太だ。ドアを開けようとして戸惑う。本当に大丈夫なのか、私の心臓。……考えてもここは突破する以外にないんだ。ノブに手を掴み思い切り押す。

 ゴッと音がして止まる。ドアが英太のおでこに当たっている。

「ごめん」

「いいよ」

「どうしてそんなに近くに?」

「気合いの分」

 心臓は止まっていない。だから大丈夫だ。

「ちょっと早い」

「出直そうか?」

「いや、いい。……どうぞ」

「お邪魔します」

 リビングのソファに座らせる。そこから私がピアノを弾く背中が見える。英太は神妙な顔付きで、背もたれに体を預けずに座った。私は英太とピアノの間に立つ。

「曲の説明とか、しなくてもいいかな。知りたかったら後で訊いて貰うってことで」

「それがいいと思う」

「じゃあ、早速始めるよ」

 英太が頷いたのを見届けて、ピアノに就く。椅子の位置も問題ない。ペダルの感覚もよい。息を吸って、吐く。

「『月と子犬』」

 中高音のフレーズをイントロの一つ目に、そこから低音が入ってフレーズが中音域に降り、アレンジされるイントロの二つ目。歌が始まる。

 これは英太の歌だ。「感情で恋して」「理性で別れる」雪子との別れの歌だ。だけどその先を勝手にイメージして書いている。主人公は人間の女に恋をすることをやめて、月に恋をする。必ず叶わない恋に身を焦がす、そして、「理性で恋をやめる」ところまで至る。

 主人公は英太であって、子犬であり、叶わない恋をする全ての人だ。歌っている今はそれが私になる。私が月に恋をするのだ。甘くない、むしろ辛いサビを繰り返し歌って、最後のコーダに入る。「さよなら、月」後奏でイントロと間奏で反復したフレーズをまた引っ張って来て、終わる。

 英太の方を向かない。次の曲の気持ちに切り替える。

「『サニーバグ』」

 短いフレーズをコードを変えて繰り返す。疾走するテンポ。フレーズが徐々に枠を外れて動き出す。アドリブのような時間、十分に踊り終える、歌。太陽の虫が飛び立つ。

「本当の姿になりたい」旅の中で色々な虫と出会い、心を分けて貰って、進む。振り返らない、真っ直ぐに前に進む。サニーバグはぶれない。ただ進む。進んでいる途中で歌は終わる。疾走し続けるメロディ、ジャン! と終止符を打ち、終わる。

 いい音が出ている。次の曲に行く前に一呼吸置く。サニーバグの余韻が消えるのを待つ。

「『オレンジ』」

 バラードのテンポで主にコードを並べるところから始める。夕暮れにオレンジに染まる部屋。そこにはあなたと私がいる。「あなたはいつまでもここにいていいって笑う」私は他のどこででも得られない、守られているような、自由を保障されているような、「ついうっかり、そううっかり、眠ってしまう」くらいに安心している。

 Aメロの後に短い間奏を入れて、またAメロ。次いでBメロ、サビ。世界はここだけで十分かも知れない。あなたはそこにいて、私はここにいる。またAメロ。「もうすぐオレンジの時間は終わる。だけどここはずっとオレンジ」そのフレーズで曲も終わる。

 少し長めに間を開ける、感覚的にオレンジの匂いが嗅げるか嗅げなくなるかのところで最後の曲を始める。

 アップテンポで、ギターのリフのような動きを右手が行う。パァンとオレンジの世界を破ってこの曲が前に出るイメージ。「私がいるか、いないかは、関係がない」またリフ。「私がどこに、向かうかだけが、意味がある」リフ。からすぐにサビに入る。「だから、きっと、いつか、この手が、きっと、いつか、届くよに」「今日も歌う」リフ。ピアノソロ。高速で指を回す、ヒステリックなソロ。そこから、一旦静かになって、次のメロディが始まる。「白い水平線にもうすぐ、陽が昇る。空は待っているのだろうか」ブレイク、サビ。後奏もピアノソロで、やりたいように動く。存分に弾き散らして、お腹がいっぱいになったところで終わる。

「『水平線』」

 鼓動がうるさい、だけど、もう痛くない。両手をだらりと垂らす。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。目を瞑る。英太の気配がしない。どうだったのだろう。口を引き結んで、立ち上がる。全身で一気に後ろを向く。

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