第22話
第二十一章
マーが大阪でヘルプの仕事に就いて一か月ほど経った頃だった。
玲がデスクワークをしていると、マーが何か話したそうに近づいて来た。アンナは所用で出かけていた。
「あのう、黒澤さん」
思い切って近づいて来たのは感じていたが、アンナのことだろうか。
「どうしたの。言いにくそうね」
マーは頭を掻きながら、何かを口にしようとしている。
「ひょっとしてアンナのこと?」
マーは顏を赤らめてしばらく下を向いていたが、やっと口を開いた。
「ボク、彼女が好きです」
「ええ、そうでしょ。そう思っているけど、それで一体どうしたの?」
「あのう、ボクの気持ちを告白したいけど、どうすればいいのか教えてください」
わたしにもこんな初心な頃があったのかしらと玲は気恥ずかしくなった。
「そうね、正直に告白してみたらどうかしら? 一輪挿しの花でも渡して」
「一輪挿しの花? それ何ですか」
玲はマーを前に微笑んだ。
「女の人はね、好きな男の人からお花をもらうと、その花に託した男の人の気持ちがわかり、幸せを感じるのよ。だから何か告白する時なんかにいいと思うわ」
そう言って、玲はマーの表情を窺った。マーは何かを納得したように、頷き微笑んだ。
「一本の花よ、ガーベラでも、薔薇でもいいわ」
「わかりました。ありがとう。花一本なら安いので助かります。ちょっと出て来ます。直ぐに帰ります」
マーはペコリとお辞儀をして、足取り軽く出て行った。駅前にあるフラワーショップに足を運んで、薔薇を一本だけ買ってセロハン紙に包んでもらい、折れないようにリュックの中に大事そうに隠した。
翌日は事務所が休みだったので、マーは事務所に戻ったアンナに中之島公園にでも行かないかと誘い、OKをもらった。
次の日、二人は公園内にある薔薇園の前で待ち合わせ、黄色や深紅など咲き誇る薔薇を見て回った。
ベンチに腰掛けると、マーはリュックから一輪挿しの薔薇を取り出し、アンナに手渡して突然「好きです」と言った。
彼女は驚いてマーを見た。
「どうしたの、急に?」
「アンナさんが好きなんです」
渡された薔薇をベンチにそっと置いて、アンナはマーに向き直った。
「いきなりの告白ね。びっくりしちゃった」
「ボクの気持ちわかってくれましたか」
マーは食らいつくように見つめた。
どう言えばいいのかと一瞬迷ったが、ここははっきりとさせなきゃ。
「マー君のこともちろん嫌いじゃないわ。でも、好きだとかそういうのはちょっとおかしい。一緒に働いている仲間と思っている」
「ボクを好きじゃないの?」
悲しそうな表情が見つめている。
「そうはっきり確認されると、また変なことになるけど、あなたを同僚として見ているってこと。恋愛どうこうというんじゃないの」
マーはがっくりと肩を落としていた。
「黒澤さん、花一本で好きな気持ちが伝わるって言っていたのになあ」
「玲さんがどうかしたって?」
「お花一輪で恋が叶うって」
「玲さんがそんなこと言ったの? 何か変。マー君の誤解よ」
アンナは傍らに置いた薔薇をそっと手にとって香りを嗅いだ。
「男の人が好きな女の人に恋心を打ち明ける時の小道具として、確かに一輪挿しを使うことはあるわ。玲さんはそういう時にはそうするという一般的なことをマー君に教えたかっただけだと思う」
「ボクがあげた花、嬉しくないの?」
「そら嬉しいことは嬉しいけど、それと恋がどうこうというのはまた別の話よね」
「ボク、もう帰ります」
マーは憮然とした表情で立ち上がり、足早に去って行った。
玲からマーがふさぎ込んでいるのを耳にした古賀は、その夜仕事終わりに行きつけのゲート・カフェにマーを誘った。
天門橋筋商店街沿いの雑居ビル事務所を出て、二人はまだ酔客の少ない通りを歩いた。
古賀は事務所を出たあたりから二人の後をつけているような影を感じていた。
立ち止まり、煙草に火をつける振りをして、後ろを振り向くと、影も立ち止まった。
再び歩き出して、店のドアを押し開けた。
「いらっしゃい。また今日はお二人で」
ママが微笑んだ。
客がいないショット・バーの止まり木に二人並んで腰を掛け、古賀はハイボールを注文した。念のため、ドアから離れた方の止まり木にマーを座らせ、自分はマーを守るようにドアの近くの方に腰を下ろした。
ゲート・カフェは昼間喫茶店の営業をしており、夜でもソフトドリンクの注文が出来る。
マーはミックスジュースを注文したが、古賀と二人きりなので落ち着かない様子だった。古賀はドアの方が気になっている。
鉄製のドアは上半分が格子戸風の磨硝子なので、ドアの向こうに誰かが居れば、街灯で影が映る。次の瞬間影が動き、ドアの呼び鈴がカランと鳴り、ドアが開いた。
ママが「いらっしゃい」と声をかけようとドアの方に振り向いた瞬間、ドアの端から片手に握られた拳銃が覗いた。
パン! パン!
店内に二発乾いた銃声が鳴り響いた。
「キャー!」
ママが叫んだ時にはドアは勢いよく閉じられ、マーが止まり木から降りて頭を両手で隠し、震えていた。古賀は左腕を右手で押さえ、歯を食いしばっている。腕から血が流れ出ていた。
「まあ、血があんなに! 大丈夫?」
慌てるママが声を掛けた。
古賀は立ち上がり、ドアから外に飛び出したが、それらしい影は消え去っていた。
ハンカチの端を噛んで広げて腕に巻き、店に戻ってマーに声を掛けた。
「大丈夫やったか?」
マーは驚いたままの顔で頷いた。
二発の弾は一発が古賀の左腕を掠め、もう一発はカウンター後ろの棚に当たり、一部のボトルが粉々に割れ、中身が棚から床に零れていた。ママの額にガラスの破片が飛び、血がうっすらと出ていた。
古賀は直ぐに警察を呼んで事情を説明した。ママは切れた額に応急処置で絆創膏を貼り、箒を持ち出して割れたガラスを掃除していた。
「ママ、悪かったなあ。変な奴が後をつけているのには気づいていたけど、まさかこんな展開になるとは思わへんだ。ゴメン!」
ママは「気にしないで」と古賀に微笑み、こんなことを言った。
「わたし見たのよ。犯人の顔を。マー君にそっくりで一瞬目がおかしくなったのかと思ったわ。だってマー君はわたしの目の前に座っていたし、何でドアの向こうにもマー君が居るのかって!」
「まあ落ち着いてください。マー君って誰のことです?」
ママが警官に事情を説明している。
古賀はママの発言に驚きながらも、ある人物のことを想像せざるを得なかった。
ミンヤンなのか? でも何故ミンヤンが大阪に居て、兄のマーを銃撃するんや。
マーはママの日本語が断片的にしかわからず、アンナを呼んで欲しいと古賀に頼んだ。
アンナが駆けつけ、事情を中国語で説明を受けてマーも信じられない表情だった。
「何でミンヤンが俺を……!」
警官の応援部隊が店の中に入って行く姿を見て通りにいる野次馬が店の前に集まり、辺りは騒がしくなっていた。
近くに救急車が停まり、担架を持った救急隊員がカフェに入って来た。
古賀は救急病院に運ばれて治療を受けたが、幸い腕の急所は辛うじてはずれており、念のため病院に一泊することになった。
翌朝一番に赤間を呼び、古賀は事情を説明した。
「ミンヤンがマーを狙ったって? 考えられないな」
赤間が首を傾げた。
「でも、ママが犯人の顔を見てそう証言したんだ。ママが立っていた位置から一番良く犯人の顔が見えたんだろう。俺にはそんなにはっきりとは見えなかった。マー君を守るのに精一杯だったからな」
「それで俺はどうしたらいい?」
赤間が左腕を包帯で巻いている古賀に尋ねた。
「新しいプロジェクトで忙しいのは承知しとるけど、犯人は俺を狙ったとは考えにくい。やはりマー君絡みの事件やと思う。それに犯人がミンヤンそっくりというのがどうにも気になるんや。そやから、乗りかかった船ちゅうことで、警察と並行してこの事件を探ってもらえんやろか?」
赤間は喜んでやらせてもらうと返事した。
古賀は警察にマーの写真を渡して、この少年はマー・グアンピンと言うが、その双子の弟の陳ミンヤンがカフェの銃撃事件の犯人と思われる。ついては至急この少年をマークして欲しいと伝えた。
赤間は陳に連絡をとったが、応答がない。
これから春を迎え、漁も忙しくなるんだろうと思って暫くそのままにしていた。
四日後、関西空港でミンヤンらしい人物が手配の網にかかり、拘束されたとの連絡が古賀に入った。
古賀は赤間とマーを連れて空港の警察出張所に出向くことになり、関空に向かった。
出張所の取調室を覗ける部屋で、三人はその少年の顔を見たが、紛れもないミンヤンだ。
通訳を交えての会話をモニターさせてもらった。
「何の目的で日本に来ましたか?」
「銃は何処にありますか」
「二発撃っていますが、誰を狙ったのですか。あなたに双子のお兄さんがいますが、彼を狙ったのですか」
通訳が警察の質問を次々に中国語で尋ねたが、ミンヤンは下を向いたまま黙秘を続けた。
ある日赤間から古賀に連絡が入った。
その内容に驚きを隠せなかった。
何と、ミンヤンは既に死亡しているというのである。
じゃあ一体今警察で取り調べを受けている人物は何者なんだ?
古賀は赤間の情報に耳を傾けた。
赤間は亡くなった羅がミンヤンを預けた施設を調べるため、中国公安部から指名手配されている自分の代わりに、「赤間機関」という自らが率いる情報収集機関のエージェントを貴州省の施設に派遣した。
その情報収集の過程で、当時施設に勤務していた職員が見つかり、その元職員は親戚の伝(つて)でミンヤンをもらいに来た陳のことを覚えていた。
「陳という人はミンヤンの父の名前、すなわち羅承基という名前を聞いた途端、『やった!』と叫んで、何だか宝物を手に入れたような感じでした。それで、わたしは陳さんに尋ねてみたのです。『やった!』ってどういう意味ですかって……。そうしたら、『これからこの子はわたしにとって一生の目的を実現させるために使えるかも知れない金の卵なんだよ』と言ったのです。変なことをいう人だなあと思いました。わたしが聞いていたのは陳さんが原因で子供が出来ないけど、奥さんが是非欲しいという趣旨で子供をもらいに来たという認識だったのに、何だかその子が必要なのはむしろ陳さんの方だという感じでした。ちょうど羅承基さん、すなわちミンヤンのお父さんですが、妾を殺した容疑で逃亡された頃でした。今思うと、陳さんは奥さんと違ってミンヤンを自分の子として大切に育てようというよりは、むしろ尻に火が点いた公安部長の羅さんに対して何かをするためにミンヤンを利用しようとしていたのではないかと思います」
「羅と陳は友人同士やろ。その間に一体何の工作が必要なんかね?」
古賀が赤間に尋ねた。
「それはまだわからんが、とにかく陳は妻と一緒にミンヤンを養子として台湾に連れ帰った。ところが何かあってミンヤンが死んだ。同じ頃、妻も亡くなっている。二人とも何かの理由で同時に陳に殺された可能性もあると思う」
「何でまた金の卵が手に入ったと喜んだ養子と自分の妻を殺すかね?」
古賀が首を捻った。
「恐らく何らかの陳の秘密でも知ったせいだろう。それが何かはさらに調べる」
「では今警察にいるミンヤンは一体誰なんや」
「ミンヤンがまだ生きているということを台湾に居たわれわれに信じ込ませ、今の状況からしてマーを殺す刺客という二つの役割を果たすために大阪に送り込まれた全くの別人だ。恐らく整形か何かでミンヤンになりすましている。そいつのDNAとマー君のDNAを比較すれば、全く違うはずだ」
「よし、念のため調べよう」
古賀は警察に電話を入れて両名のDNAを至急調べることを提案した。
その結果は直ぐに出た。一卵性双生児ならDNAは全く同じはずなのに、マーと取り調べを受けている男のDNAは全く違っていた。
マーは銃撃のショックから抜け切れず、大事をとり、天門橋筋商店街近くの病院に検査のため入院した。
アンナはプリザーブド・フラワーを持って見舞いに訪れた。マーは思いのほか元気そうだった。
「顔色もいいわね。検査結果は?」
「もう少しかかるって。でも心配は要らないって」
「でも驚いたよねえ。大阪でもあんなことに出くわして」
トルファンでウイグル料理のレストランで起こった銃撃事件が頭を掠めた。
「マー君元気そうだからちょっとお話しようか。なかなか普段は忙しくって出来ないから。どう?」
「うん、しよう。何を話すの?」
「日本に来てからの暮らしのこととか、マー君を取り巻く色んなことを」
マーは少し考えてから口を開いた。
「ボクのように中国北西部の砂漠地帯に住んでいた人間は、日本に住むのに色々苦労しているのがこの仕事をしていて少しわかった」
「へえ、誰かそんな人に出会ったの?」
「うん、在日のウイグル人。ボクもそうだったけど、記憶を失って大阪の街を初めて歩いた時、すごく暑かった。日本の夏には参る。湿度が凄く高い。それに食事も違うでしょ?」
アンナはウイグル料理のメモを書いた手帳をバッグから取り出してみた。
あの時は大皿で色々な料理が運ばれて来た。肉だけが串に刺してあるシシカバブー、もやし炒め、スープ、きくらげ炒め、ジャガイモの炒め物、ヌードル、ナツメ、干しブドウ、スイカ、メロン。日本でもほぼ共通の食べ物だ。
「寿司や刺身、味噌汁など日本独特の食事のことでしょ、マー君が言いたいのは。それに食材が同じでも場所によって調理方法が違う食べ物もあるわね」
「食べ物は別として、一番応えるのは知り合いがいないこと。それがとても寂しいと在日の人は話してくれた。精神的なプレッシャーやストレスがすごいって……」
「やっぱりね」
アンナが頷いた。マーも大阪を独りで彷徨っていてわたしに出会う前、そんな気持ちだったのに違いない。あの時声をかけて良かったとアンナは改めて感じた。
「それと時間のこと。日本で暮らしていたら、故郷とは時間の使い方がまるで違う。日本人は約束した時間をきちんと守る人が多いと思う。故郷では、約束の時間に一時間遅れても平気、というか気にしない。それに仕事に対する責任感も違う。日本人は仕事をきちんとする上に、決まった時間内に成果を上げるのに力を尽くすものね」
「へえ、マー君はよく社会や文化の違いを意識し、感じているのね。マー君の仕事にはそういう意識はすごく必要よ。大分成長したわね」
マーは褒められて気が楽になっていた。
「普段は口に出さないからわからなかったけど、マー君が何をどう感じて日本で暮らしているのか、その一部でもわかったわ。やっぱりこんな風にゆっくり話し合うのはいいことだわ」
「お腹がすいたから、あのビニールシートのお店で何か一緒に食べませんか」
マーが誘って来た。
「いいのかしら、そんなことして」
「検査結果を待っているだけだから。もしそれでOKならどうですか?」
「うん。そうしましょう」
間もなく検査結果を知らせに看護師が入室した。
「問題ありません。もう帰っていいわよ」
「よかった!」
マーは荷物をまとめて早速退院の準備をした。
「さあ、わたしたちが初めて出会った街で食事しましょう」
アンナは持参したプリザーブド・フラワーを持って、マーと並んで通りを歩き始めた。
故郷に戻れなくなったマーのために、アンナは古賀に莫高窟の菩薩さまの画集を赤間の知り合いに送ってもらうように頼んでもらえないかとお願いした。
古賀は直ぐに手配し、二週間後古賀の手元にフルカラーの画集が届いた。
アンナは直ぐに画集をマーに手渡した。
「赤間さんにお礼の手紙を書いてね」
「ボク、日本語の勉強になるから自分で書いてみます。そのあとで具合の悪い箇所を直してください」
そう言うなり、マーは画集に見入った。
「この画集のためのブックエンドを買います。アンナさん、あとで買い物につきあって下さい」
「いいわよ。いいのを買いましょうね」
マーは画集を眺めながら頷いた。
「これで菩薩さまがいつもボクを見守ってくれる。何処にいても……」
赤間の知り合いからマーに美人窟の菩薩の写真が届いてから数日経った頃、古賀の携帯メールが鳴った。赤間からのメールだった。古賀はメッセージに見入った。
『緊急連絡。今香港に居る。これから中国を脱出する。ついては台湾からの日本入国について玲さんらの時と同じような日本当局の寛大な措置をお願いしたい。よろしくお願いする』
古賀は中国の厳しいネット規制が今のところ及んでいない香港発のメールで、情報収集の合間に敦煌の邸の処分をしに危険を冒して中国に出掛けた赤間が置かれている状況を察知した。
早速独自のルートを使って、赤間の日本入国の手配を開始した。
赤間から携帯メールとは別に届いていたヘルプ事務所へのメールを玲がコピーして古賀に手渡した。
『中国公安部が黒澤さんとアンナさんの逃亡を手助けしたとして、魏医師を逮捕した。こちらが手配し、公安の動きを探らせていたエージェントによれば、魏医師は公安の拷問を受け、既に指名手配されている小生が危険分子の日本人女性二人の逃亡に関わっていたことも掴み、小生逮捕に向かっている。その直前にここ香港に脱出した次第。これからタイペイに脱出するので、タイペイで連絡を待つ。香港と台湾は中国のネット規制外なのでメール連絡は可能。赤間より』
さすが赤間さんは神出鬼没の男や! 古賀が微笑んだ。
玲とアンナは自分らのせいで魏医師が逮捕され、拷問を受けたことにショックを受けた。
「本当に気の毒なことをしたと思います。わたしらが行かなければこんなことにはならなかったのに……」
食事中だった玲が箸を止めて言った。マーも悲痛な表情を見せた。
「魏さんは隣同士だから昔から凄く親切にしてくれた。父さんも、母さんも知ったら悲しむよ」
マーはタイペイの両親を思いやった。
「いっちゃん、魏さんは一体どうなるのやろ?」
玲が古賀に尋ねる。
「命を取られることはないと思うけど、どの程度国家に対する罪を問われるかで違ってくるやろな。魏さんの場合は、マー君のお父さんと同じく、支配階級の漢族が差別し、弾圧しているウイグル族に協力した罪に問われることになるやろな」
「救済を求める嘆願書は送れないの?」
「送れないことはないと思うが、公安には危険分子徹底追及のメンツがあって、送っても無視するやろ」
テーブルのあちこちで嘆息が漏れた。
意気消沈したみんなを前に古賀が言った。
「君らのせいやない。元々は俺の情報把握がええ加減やったせいで、マー君を敵の渦中に放り込んでしまったのが根本原因や。全ての責任は俺にある。それと俺は午後から関係者を回ったあと、赤間さんと接触するために直でタイペイに向かう。マー君が何かご両親に伝えたいことがあるかないか聞いといてくれ」
「わかりました」
互いに頷き合った玲とアンナは理事長室から出た。
古賀は午後遅くの便でタイペイに向かった。赤間とメールで連絡し合いながら、翌日の現地時間午後三時に古賀が宿泊する市内のホテルのロビーで落ち合うことになった。
時刻きっかりに古賀はロビーで赤間と再会した。
「いや、大変やったなあ。体ひとつでご帰還かい?」
古賀はそう言って赤間の向かいにあるソファに腰を下ろした。
赤間が低い声で囁いた。
「万一逮捕されたらスパイ容疑で国家反逆罪か何かで裁かれて、ヘタをすれば死刑にされちまう。俺もこの業界は長いが、そろそろ引退した方がよさそうだな」
「よせやい! あんたにそんなこと出来るはずないでしょうがな……」
二人は声を殺して笑った。
古賀の携帯に連絡が入り、赤間が乗る特別機は夜八時ちょうどに大阪に向けて飛び立つことになった。
古賀と赤間は午後十時半頃関西国際空港に着いた。
特別機なので二人は一般客とは違う通路から空港ロビーに出た。
バッゲージ・クレイムでバッグのピックアップ待ちをしていたら、赤間が古賀の肩を叩き、耳元で囁いた。
二人の目は向かい側でバッグを待っている男に注がれた。
「陳だ!」
二人はバッグを受け取り、陳がバッグを持って出口に向かう後を追った。
陳は空港ターミナルを出たところにある乗り場でタクシーに乗った。古賀と赤間も急いで次のタクシーに乗り込み、陳のタクシーの後を追いかけた。大阪方面に向かっている。
「あいつ大阪に何の用やろ?」
古賀が独り言のようにつぶやいた。
「商店街のバーでミンヤンに化けてマーを狙った男と関係することに違いない。もう相当日数が経っているのに、そいつから一向連絡がない。おかしいと思った陳がマー銃撃が失敗したに違いないとでも思い、自分で確かめに来たんだろう」
「ということは、またマー君が狙われる可能性はあるな」
「十分にな。ミンヤンが亡くなり、羅も殺害された。残る陳のターゲットはマー君ってところか……」
陳は大阪市内に入り、城見東の裏通りに入る手前でタクシーを降りた。続いてタクシーを降りた古賀と赤間は、その近くにマーの住むアパートがあることに気が付いていた。
「このままマー君を襲うつもりやな」
古賀が赤間を見た。
赤間は陳がジャケットのポケットから紙きれを出して、辺りを見渡しているのを舗道の陰から見ていた。
「誰かがマー君の住所を教えたんだ」
「いや、案外マー君自身かも知れんぞ。陳がキールンの羅の葬儀の時に、これからはミンヤンのお兄さんとも仲良くしたいなんて近づいて、住所を聞き出したのかも知れん」
古賀は携帯で事務所に居る玲を呼び出し、マーも一緒かどうか確認した。マーは事務所で書き物をしていた。とにかく今は安全第一だ。
「マー君には俺たちが着くまで事務所から離れるなと言ってくれ」
そう言って電話を切った。
二人は陳を観察しながら、後をつけて行った。
予想通り、陳はマーの住むアパートの階段を二階に上がって行く。マーの部屋は二階の六号室だ。
その前で辺りを見渡しながらそっとベルを押した。何回か押して反応がないので、陳は暫く二階の廊下辺りをうろついてから階段から下に降りて何処かへ去って行った。
「また戻って来るかも知れないぞ」
古賀はもう一度玲に電話を入れ、マーを今夜は事務所に泊めるように指示した。
前夜は何処に泊ったのか、翌朝マーの部屋のドア前に陳の姿があった。ベルを鳴らしたが反応がないので、ドアノブをいじったらドアが開いたので、陳は部屋に足を踏み入れた。
途端にドアが背後で閉まった。陳は慌てて振り返ったが、古賀が銃口を向けている。
「よう、久しぶりだなあ。ここで何してる? 手を挙げろ!」
陳は両手を挙げて後ろに引いたが、背後には部屋の中に潜んでいた赤間が同じく陳に銃口を向けていた。
二人は陳の両腕を後ろ手に縛り、マーの布団を片付けて、畳の上に座らせ、その向かいに並んで座った。
「わざわざ台湾から大阪に人殺しにやって来たのか。マー君を狙っていたな!」
陳は口をつぐんだまま、顔を反らせた。
「さあ、全てを話してもらうぞ!」
赤間が陳を睨みつけた。
暫くだんまりが続いたが、観念したのか、陳は少しずつ口を開き始めた。
「あいつはどうしている?」
「お前が送り込んだ刺客のことか? ミンヤンそっくりの偽者のことか? ターゲットをミスって警察のご厄介になっているぜ」
「……やっぱりなあ」
「やっぱりって?」
「あいつの拳銃の腕は素人並みだ。俺はわかっていた。だけど、いい腕の奴を知らなかったから、あいつに頼んだのがそもそも大間違いだった」
赤間が陳を睨んだ。
「こちらの古賀さんもマー君と一緒に襲われ腕にけがをした。聞けば、あいつは片手で至近距離のマー君を狙ってぶっ放した。ハジキは両手でしっかり持って発射しないと至近距離では絶対当たらない。片手で撃ったら、発射の衝撃でグリップが弱まり銃口が跳ね上がってターゲットを射抜けないんだ」
陳は赤間の説明に頷いた。
「ミンヤンはどうやって死んだんだ?」
古賀が睨みつけた。陳は暫く無言だったが、ようやく口を開いた。
「施設でもらい受けた子が羅の息子だなんて、広い砂漠でか細い針一本に巡り合うような確率だ。あいつの子を手中に収めるだけで俺はついている。そう思った。何しろ、生かすも殺すも俺の自由自在になるからな」
「殺したんだな?」
「ああ、羅を始末するためにミンヤンを使おうかなどと思って生かしていたが、中学に通うようになってあいつは俺に反抗するようになった。この俺にだ! 女房までミンヤンの味方になって俺が悪いと責めやがったから二人一緒に殺した。俺は自分の言うことを素直に聞いてくれる息子が欲しかったのさ。だから、ミンヤンそっくりな劉博文という売れない俳優に出会った時、こいつを上手く使おうって考えた。そして金をたんまりやって俺の意の通りに動いてくれるミンヤンを演じてもらっていたのさ」
「なるほど。それで劉を見た途端、ガーデンのママはマーが二人いると思ったわけか」
古賀が赤間と目を合わせた。
「俺が羅を呼び寄せた時には本物のミンヤンは既に殺していた。この前羅も殺ったから、残るはマーだけになった。あいつを殺せば、俺の復讐は完結したのに……。劉には値の張る銃を渡したのに、これじゃ宝の持ち腐れだ」
陳は縛られたまま体を震わせた。
「ところで、中国の公安に連行されたのはどちらだ? 本物のミンヤンか、それとも……」
「劉だよ。おい、煙草を一本くれないか」
「縛られたまま吸うんならな」
古賀は最近吸ったことのない古い煙草に火をつけて陳の口にくわえさせた。陳はうまそうに煙をふかした。
煙草の灰が胡坐をかいている陳のズボンに落ちた。
「お前は羅を温泉帰りに狙撃するために公安部のスナイパーを買収したのか?」
「ああ。あいつには俺の息がかかっていたのさ。薄給でしかも四面楚歌の台湾で一人の男を追い回すってのは、実にストレスの高いハードワークだ。俺は公安部の常宿を見つけ出し、俺が獲った新鮮な魚の刺身を夕食に安値で秘かに部屋に持ち込む業者の振りをして人間関係を作り、スナイパー役の部隊員を特定した。さらにその男だけに羅殺害の話を持ち掛けて、謝礼に大金をはずむと持ち掛けたら、やると言った。あいつに大金の前渡しをして信用させ、残りは成功報酬ということで話がついた。やっぱり羅を確実に殺すには警察の傍にいるのが一番間違いないと踏んで公安に近づいたんだ。元公安部長を公安部の人間の手で殺させる。精々これが俺の選んだ殺害方法の結論だ」
陳は殆ど灰になった煙草を口から吐き出した。
「台湾に逃亡した羅と最初に会った時、何故直ぐに殺さなかったんだ?」
「手元に置いておけば、殺そうと思えば、いつでも殺せる。その自由を俺は楽しんだ。だから、歓迎する振りをしてやったら、あいつは喜んで、俺を信用した。何でも最初の扱いが肝心なんだ。そうすりゃ人ってのはコロッと騙される」
「そんなものかねえ」
古賀が言った。
「今度は俺からちょっと言わせてもらえるかな。俺の夢物語だよ」
陳が微笑んだ。
「何だ、言ってみろ」
「それは台湾にやって来たことと関係がある」
「田舎を捨ててか?」
「ああ、俺は客家の一員だという自負を持っている。昔々の話だが、中国の文明地帯だった黄河の中下流域に住んでいた漢民族同士が争い、わが客家はど田舎だった福建の山中に逃れた。その山中にある永定に生まれ育った貧乏な俺、一方で羅は昔で言えば中華文明の中心地・中原(ちゅうげん)、今なら北京という名の中原で活躍する公安部長にまで上り詰めたエリートさまだ」
「友人というから、仲がいいのかと思っていたが、そうでもなかったようだな」
陳は頷いた。
「卒業後に一度街で出会っただけで、そんなに親しくもないのにあいつの結婚式でスピーチを頼まれ、式では緊張のあまり言葉が出て来ず大恥をかいた。それをあいつも嫁さんも、出席していたお偉いさんもみんな一緒になって馬鹿にして笑いやがった。そんな小さなことと思うかもしれないが、あれは俺にとり人生最大の恥辱だ。それからあいつを毛嫌いするようになった。人嫌いになって他人と顔を合わすのさえ怖くなってしまったんだ」
「お前の夢の話はどうなった?」赤間が振った。
「ああ、そうだった。自分で夢を語ると言っておいて、羅の話になるとつい興奮してしまう。さて、俺は客家の伝統料理専門店を今や中国の一大ビジネスセンターになった台湾の首都タイペイのエリートビジネス街で経営してみたいと思っていた。客家からは偉大な経営者やビジネスマンがたくさん輩出しているだろ? 台湾で活躍しているそういう人物に俺の自慢の料理を食べてもらいたいというのが夢だった。だから妹が結婚し北京に移った後で、親父と一緒にタイペイ移住の決心をした。タイペイは亜熱帯だし、気候も年中温暖だ。年老いた親父にも永定のような寒い山の中よりずっと暮らしやすいと説得した。おい、煙草もう一本!」
古賀が煙草に火を付けて口に加えさせた。
「ところがだ。やはりそう簡単に店なんか持てない。夢は急速にしぼんでいった。俺は仕方なく、レストランに奉仕する側、すなわち漁師になった。そして殺した女房と結婚し、子供が出来ないからミンヤンを養子にもらうことになったんだ」
「しかし、あんたの父親には一度も会わなかったな。葬式でも会わなかったし」
陳の目が赤間を睨んだ。
「お父さんはどうした? まさか……」
「あの親父も余計なことをやりかけたので消えてもらった」
「余計なことって?」
陳は突然声を上げた。
「そもそも羅にメイファンを嫁がせたのはあの親父だ! 体面ばっかり気にしやがって! 俺は絶対反対した。それなのにメイファンが妊娠したから体面を保とうと無理やり結婚させたんだ!」
陳は縛られているのが歯がゆくて、体を激しく揺すった。
「それにしても、永定では羅と顔を合せなかったのか?」
「俺は羅の顔を見た途端、思わず木の陰に隠れた。それ程あいつのことは嫌な思い出になっていた。永定に公安の捜査が入ることはうっすら噂で聞いていた。あいつはその捜査のためにやって来たのだと直感した。捜査が長引くようだと親父から聞いていたので、山を越えた村の友人宅の居候になって、羅の様子は親父から逐一聞いていた。親父と妹にはもし羅に出会うようなことがあっても、絶対に俺のことには触れるなと言い渡していた。何故と聞かれたが、あいつはとにかく大嫌いだからとだけ言っておいた。そのうちメイファンとあいつが付き合うようになっていると親父から聞いた時は正直耳を疑った。あいつは既婚者だ。それなのに何故妹と付き合うんだと。ああ、新しい煙草をくれ!」
古賀が呆れ顔で短くなった煙草を受け取り、火を付けた新しい煙草をくわえさせた。
「そのうちに妹が妊娠したと聞いて信じられなかった。あいつは最低の道徳さえ持ち合わせていないのか。まだ結婚もしていない無垢の妹を穢れた手で触りまくるなんて!」
陳は興奮して煙草を口から落としそうになり、辛うじて唇で挟んで受けた。
「妹は親父に結婚させられて、あいつと一緒に北京に行ってしまった。それからしばらくして俺と親父は客家の村を去り、台湾に移住した」
陳は煙草を美味そうに吸い込んで、鼻から勢いよく煙を吹き出した。
「妹は北京で羅の子を産んだ。双子だという。双子にあの羅から受け継いだ血が流れていると想像するだけで虫唾が走った。しかもあいつには正妻と娘がいる。俺は復讐に燃えた。あいつの家庭をめちゃくちゃにしてやる。俺は羅の不倫を告発する手紙を羅の妻に繰り返し送った。一体全体どうなっていくのか不安だったが、この結婚を認めた親父とは一切話し合わなかった。話し合っても仕方がない。何と言われても俺が正義なのだから」
陳は誇らしげに胸を張った。
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