第20話
第十九章
マー兄弟が散歩に出かけている間に、ミンヤンを元のように養子として引き取ることなどについて、陳は羅と二人きりで話し合った。
羅は当時の記憶を辿りながら口を開いた。
「俺があの子を貴州省の施設に入れたのは、あの子がまだ三歳の頃だ。お前の亡くなった奥さんがどうしても子供が欲しいからミンヤンを養子に迎えてくれたということだが、台湾じゃなくわざわざ中国の貴州省の施設に居たミンヤンをまたどうして知ったんだ?」
漁船から引き揚げて来た網を繕う手を止めて陳は話し始めた。
「実は貴州省に親戚筋の夫婦が居たんだ。俺たちが子供を欲しがっているのを知って、その施設に掛け合ってくれたら、ミンヤンという子が居て、もう施設で世話して八年になる。もし誰か預かってくれる人が居ればと施設でも養父母か里親を募集してみようかと思っていた矢先だった。台湾は随分遠方になるが、あの子を大事にしてくれる夫婦がいるのならちょうど施設にとっても渡りに船だ。もう少し厳格な施設なら、中国と色々と問題含みの台湾に移住させないと言い出す恐れもあったが、その辺りは緩い施設で好都合だった。話がトントン拍子に進んでミンヤンを連れて帰ることになり、妻と一緒に迎えに行った」
陳は網を傍らに下げて話を続けた。
「実際に会ってみると、ミンヤンはとっても明るい活発な子だった。妻も喜んで、是非養子に迎えたいと言い、ミンヤンの両親はどういう人か尋ねた。しかし、八年前にお父さんが連れて来たということぐらいしかわからないという。辛うじて父親の名前は羅承基とわかった。羅承基と言えば、泣く子も黙る中国の公安部長。しかも新聞にあんたが公安部長職を解任され、殺人容疑でお尋ね者になったとデカデカと報道されていた。読むと、あんたは愛人との間に二人子供がいると書いてあった。いずれも施設に預けられたとあり、ミンヤンは間違いなくあんたの息子に違いない。そうなら中国の公安にミンヤンを奪われてしまうのではないかと心配になった。だから手続きもほどほどに急いで台湾に連れ帰った。 妻はその後病に倒れ亡くなった。あとは知っての通りさ」
羅は陳に色々と心配をかけた上に、本当の息子のようにミンヤンを育ててくれたことに感謝した。
「公安部長だったのに、同じ身内に追われる身になったあんたを何とか助けようと思い立ち、こちらから電話連絡を入れたのさ」
「しかし、当時はミンヤンのミの字もお前は口にしなかっただろ?」
陳は微笑んで言った。
「あんたは逃亡中の身だ。追われている。それも鬼の公安に。そんなあんたに子供のややこしい話など出来ると思うか? その話はやめたがいいと、ずっと飲み込んだままにしていた。だってあんたに会うのは二十年ぶりくらいのことだ。朋(とも)遠方より来る、だよ。まずは旧交を温めるために美味い魚をご馳走するのが俺の人生の作法さ」
「いいことを言うなあ」
陳の言葉に感じ入り、羅は旧友の顔を見つめた。
翌日羅は陳の案内で、キールンの港を望む丘の墓地に埋葬されている陳の妻の墓に詣でて花を手向け、供養の菓子を墓前に置いて霊を弔った。
丘からの下りの階段で羅は「引き続きミンヤンの世話を頼みます」と陳の手を握り、願った。
ミンヤンの話をしているうちに、羅は三歳ぐらいから会っていない、正妻ホンファの娘・リンユーのことを久しぶりに思い出した。
一体どうしているのやら。もう十八歳か。羅はその夜、温泉宿で泊り、娘の夢を見た。それはまるで実際あった過去のように結構微に入り細を穿った妙に生々しい夢だった。
羅は帰宅後書斎デスクの横にある陳列棚から四川省産の松茸酒の小瓶を取り出し、アルコール度三十八度という酒を喉に流し込んだ。
酒のせいか、椅子に座ったまま眠ってしまったようだが、外で車が止まる音がしたのに気づき目を覚ました。時計を見ると午前二時を回っている。
羅は飛び起きて外を色々なアングルから眺められるモニターのスウィッチを入れ、ズームインした。高級そうな派手な色のブレザーに蝶ネクタイ姿の中年男が車から降りておもむろに車のドアを開くと、リンユーが車から出て来た。
二人は抱き合い濃厚なキスを交わし始めた。
暫くして二人は手を振ってお別れの挨拶をし、男は車に乗り去って行った。
リンユーは郵便ポストにあった手紙を取り出し、酒に酔ったように足を少しもつれさせながら玄関へと入って来た。
別のモニターを稼働させ、リンユーの顔をアップにすると、表情は苦しそうで顔が赤い。
靴を脱ごうとしてよろけ、その瞬間に咳き込んで胃から口元に少し戻して吐いた。
唇についた胃の内容物を指で拭い去り、ようやく両足から靴を脱いで、室内履きに履き替えた。
リンユーは母親が亡くなってからというもの、住み込みの家政婦は別として大邸宅で唯一の同居人である。大会社の独身OLだ。
「お帰り」
モニターでリンユーに声を掛けた。
リンユーははっとして、黙ってモニターに向かって軽く手を挙げた。
「ちょっと書斎に来なさい」
羅が命令口調で言った。
「もう疲れたからまた明日」
リンユーはそう言って部屋に向かおうとしたが、羅はもう一度命令した。
「来いと言ったのが聞こえないのか!」
暫くしてリンユーは父親と書斎で向き合っていた。
「あの男は誰だ」
父が娘を睨みつける。
「誰でもいいでしょ! わたしが付き合っているんだから、父さんに関係ないことよ!」
父は娘の頬を思い切り叩いた。
「何すんのよ!」
苦痛に顔を歪め、打たれた頬に手をやった。
「こんなに遅くまで何をしていた! あの野郎とキスまでしよって」
「盗み見ていたのね。いやらしい! わたしのすることにいちいち口出ししないで! 放っといてよ!」
父を睨み返し、バッグを投げつけて書斎から走り出て行った。
羅はバッグの勢いでサイドテーブルから落ちた松茸酒の瓶を拾い上げ、辛うじて残った分をグッと飲み干し、陳列棚からウイスキーの瓶を取り出した。
娘の投げたバッグの口が開いていた。それとなく中身を調べ始めた。
クレジットカードと少額のコインが入った財布。生理用ナプキンが入った化粧ポーチ。スマートフォン。キーケース。ハンカチ。社員証。折り畳み傘。それにコンドーム。パンティ。
あんな男とセックスまでしているのか。何て娘だ。何処で道を間違えたのか。
父のコネで大手メーカーに入社し、金銭的にも親離れとなり、これからいい夫候補をじっくり選んで幸せな結婚をしてくれるとばかり思っていたのにこの様だ。
羅は立ち上がり、書斎兼寝室のドアを開けたところに娘のバッグを放り置いて、ドアを閉めた。
良からぬ夢を見て、羅は寝覚めが悪かった。こんな憂鬱な夢を見るのも、俺の人生が下り坂の証拠だ。一体どんな娘に育ったのか知りたい気もするが、そんなことをする資格さえ俺にはない。三歳の頃それこそ紙屑みたいに捨ててしまったのだから……。
羅は夢にうなされてかいた汗を流しに街の大衆浴場に向かった。
台湾に来て、陳の友情に感じ入り、息子らとの再会という思いがけないことがあって、羅は自分が追われる身だということさえ感じないほど幸せな気分に浸っていた。
その分諜報部隊の動きに注意が散漫になったのも不思議ではない。どうせ発砲事件のせいで台湾警察が動き回っており、公安は動きにくくなっているに違いない。そんな頭もあった。
しかし、表面的な動きは感じられないが、諜報部隊長・楊応州は少数の部隊員とともに羅の行動パターンを調べ上げ、羅の動きを読んでいた。
「羅は生きたまま北京に連れ帰る。そして裁判にかけて死罪にする。だから絶対に殺すな」
楊は常に部下に発破を掛けていた。
「奴の最近の生活パターンはタイペイの木賃宿かキールンの隠れ家からウーライの温泉に向かい、湯浴みを楽しんでから、タイペイの中心街に戻り、大同という居酒屋で酒を飲む。左遷されかけて職を辞した俺の前任の李新念が寝返って、羅の傍らでうろついている。危険分子として手配中のマーという少年も羅に付きまとっている。何処で出会ったのか知らんが、追われる者同士の傷の舐め合いなのか。いずれにしても、一気に二人とも連行出来て効率的だ」
楊はほくそ笑んだ。
羅はいつものようにマーとウーライの温泉に出かけた。ミンヤンも誘ったが、温泉は嫌いと一蹴されてしまった。
マーはもう母親のことで羅に迫ることはなくなっていた。
「今日は李さんも呼んである。もうしばらくしたら来るので、あとで一緒に食事をしよう」
「李さんて昔父さんの部下だった人だね」
「ああ、彼が台湾に派遣されていて、最初顔を合わせた時は面食らったけど、案ずるよりは産むが易しという結果になって良かった」
羅は温泉で李に会い、一緒にゆっくりと湯に浸かり、その後酒を酌み交わすのを数少ない楽しみにしている。
李が温泉に姿を現し、一緒に昼食をとり、湯舟から上がった後待合室で寛いだ。羅と李は談笑する傍らで公安諜報部隊の動きについて話し合っているようだった。マーはそんな二人から少し離れて、久しぶりに赤間に電話を入れた。
「マー君、どうだい? 元気にしているかね。一度玲さんらと会わないか」
「いいですね。今ウーライの温泉に父さんと、父さんの部下だった人と三人で居るんですけど、父さんが今夜タイペイの大同という店に行きますんで、赤間さんもみんな一緒に来られたらどうかと思いまして……」
赤間はいくらマーの実父と判明したとは言え、羅とテーブルを共にするのには抵抗があった。言っても羅は愛人妻と殺し屋の二件の殺人に関与し、多額の公金を横領し、さらには子供を捨てて逃げた卑劣な男である。
しかし、元情報機関の人間として羅本人には非常に関心があった。ちらっとだけなら見(まみ)えてみたい。折角の機会でもあるので、別の会い方が可能かどうか探った。
「マー君、今夜は無理だ。でもちょっと用件があってこれからタイペイに行くんだけど、帰りのバスの時間が決まったら教えてくれないか。俺はウーライの温泉からのバスが着く地下鉄の新店駅で待つことにするから。お父さんにも一度挨拶だけでもしておきたいからね」
「わかりました。また電話します」
マーは羅に赤間の意向を伝え、羅も赤間が息子の中国脱出を助けた人物と聞いて了承した。
待合室に掃除人が入って来て、羅の入浴道具を入れたバッグの上に何かを羅に気付かれないように置いて立ち去った。
間もなく羅は白い封筒が置かれているのに気づいた。何だろうと、中に入っている便箋を取り出すと短いメモ書きがあった。
『お前が殺したメイファンは俺の実の妹だ。妹に成り代わり、本日天誅を加えてやる。覚悟せい。陳浩然』
羅の表情がみるみる険しくなった。
あの陳が俺に天誅を加える? メイファンが陳の妹だって?!
羅は辺りを見渡しながら便箋と封筒をバッグに押し込んだ。
メイファンは実の妹という陳の衝撃的な告白は、羅の頭を混乱させていた。
陳という存在が急に空恐ろしくなってゆくのを感じていた。
あいつはずっと俺の直ぐ近くにいたのに、メイファンのことを億尾にも出さずに、何もしようとはしなかった。しなかったどころか、友人として精一杯尽くしてくれているように思い込まされていた。それが突然こんな封筒を寄こしやがって。羅はバッグの中の封筒を握りしめた。
顧みるに、卒業後久しぶりに町で偶然出会って、結婚式に招待した時に、式場のスピーチでまともに挨拶出来ず、嘲笑されたのに腹を立てたのか、ワイングラスか何かを叩き割って出て行った姿はよく覚えている。しかし、それ以外の印象はなかった。
メイファンとの結婚式にも兄の陳は現れなかった。メイファンも兄の話は一切したことがない。俺の中で陳とメイファンを繋ぐものは何もなかった。
しかし俺がメイファンを殺したことで豹変し、復讐のために俺を殺すというのなら、陳は何故俺を直ぐに殺さずに、逃亡中の俺を受け入れ、その後何年もの間、友人として誠意を持って対してくれて来たのかがわからない。
逃亡中の俺に連絡をくれた時には既に俺がメイファンを殺したことは新聞にデカデカ載っていたはずなのに、何故一言も事件にも触れずにいたのか。そして今頃になって俺に天誅を加えると言い出したのは何故なのか。何が彼の心を変えたのだろうか。
考えれば考えるほど陳の真意が掴めなかった。
バスはあっと言う間に赤間が待つ新店駅に到着していた。
到着したバスの停留所で赤間は一行を見つけて手を振った。
羅はマーが指差した赤間にバスの降車口から軽く会釈をして、近づく赤間を待った。
その時、停まっているバスの反対側から男が四人バラバラと羅と赤間に向かって走り寄って来た。全員銃口をこちらに向けている。
「手を上げろ、みんな!」
赤間は咄嗟に羅の前に出て防御し、ホルスターから拳銃を抜いて構えた。
李はマーを安全なところに避難させてから、急いで羅の前に出て拳銃を抜いた。
「おい楊! 劉に伝えろ! 俺は羅部長を守るとな!」
楊は赤間と李の背後に隠れている羅に両手で握った銃を向けたまま動かない。羅も赤間の背後から楊に銃を向けたままだ。
駅の付近にいた人々がただならぬ気配を感じて一斉に避難している。
両サイドは銃を向け合ったまま、身動きが出来ない状態で睨み合いが続いた。
「羅よ、諦めて銃を下ろせ!」
楊が叫んだ。羅は黙ったまま、銃を構えている。
パン!
突然乾いた射撃音が響き渡った。
羅が拳銃を楊に向けている赤間と李の背後で屈み、二人の脚の間から楊に向かって銃を発射したのだった。俺は狙われているという思いが羅に思わず引き金を引かせたのかも知れない。弾は楊の腕に命中し、楊の銃が空中に舞った。楊は頭を抱えて背後にいた捜査員の後ろに入り込んで地面に伏せた。
ダーン!
その時地下鉄の駅の上方からライフル音がした。
瞬間、羅の体が態勢を立て直そうとしている赤間と李の背後で吹っ飛んだ。
「羅部長!」
この瞬間、赤間が駅の屋根に潜んでいたスナイパーを撃ち、スナイパーは弾丸を受けて屋根から転げ落ち、動かなくなった。
パン! パン! パン!
李はライフルの発射音を聞いた瞬間、楊の背後にいた捜査員三人を連射で撃ち殺した。
楊が立ち上がり、両手を上げる振りをして、手榴弾の安全装置を抜こうとしたのが見えた瞬間、赤間の銃が火を噴き、楊にとどめを刺した。
あっという間の銃撃戦で楊以下五人の諜報部隊全員が射殺された。
「羅部長! 羅部長! しっかり!」
李はライフル弾を受けて倒れたままの羅の頭を持ち上げて叫んだ。羅の頭部から血が滴り落ち、李の衣服は血に染まっている。
赤間は乗って来た車を倒れている羅に横付けし、羅を抱えた李と、恐々銃撃戦を背後で見守っていたマーを乗せて、猛スピードで現場を離れた。
入れ替わりに銃撃事件があったという連絡を受けた台湾警察のパトロールカーが数台、サイレンを鳴らしながら現場に駆け付けて来た。
赤間はスマートフォンで最寄りの大きそうな救急病院を探し、その病院に急行した。
車の後部座席では、李が血の止まらない羅の頭を布切れで押さえながら涙声で羅を呼び続けている。
車は救急エントリーから病院に入り、赤間が受付に走った。
患者運搬用の車付き移動ベッドが看護師らにより車に横付けされ、羅がベッドに載せられてICUに運び込まれて行った。
赤間やマー、それに李はICUの前にある長椅子で時計を見ながら不安に苛まれていた。手術中のランプは灯ったままだ。
そのうち陳とミンヤンも病院に駆けつけて来た。
赤間は初めて見るミンヤンの顔が余りにもマーと似ているのでマーに尋ね、双子の兄弟であることを知り、驚いた。
さらに陳が、マーは今手術中の羅の本当の息子だと明かすと、二度驚き、早速玲とアンナに電話連絡し、二人とも信じられないと仰天した。
何時間経ったのであろう。手術中を示すランプがようやく消えた。
執刀医がドアから姿を見せ、マーらに囲まれた。
「先生、どうなんですか」
赤間が息を殺して尋ねた。
医者は低い声で「今夜が山です」とだけ言った。
マーはまんじりともせず、祈るように夜明けを待った。午前三時を回った頃、医者と看護師が慌ただしくマーらの前を通り、ICUに駆け込んだ。
集まって夜明けを待っていた関係者らの胸に不吉な予感が走った。
医者が代表者として赤間と二人の息子を呼び入れた。
暫くして赤間は姿を現し、言った。
「たった今羅承基は亡くなったよ」
関係者は一様にうな垂れ、李は肩を震わせて嗚咽した。陳は心の中で妹のメイファンにお前の敵は討ったよと報告をした。
マーとミンヤンは黙って悲しみに堪えているようだった。
病院からの通報で地元の警察が病院に到着し、赤間らに事情を聴いた。
「あなたが亡くなった男性をこの病院に運んだんですね?」
赤間が頷くと、李とともに氏名、住所、連絡先などを聞かれた。
「車を見せてください」
赤間は駐車している車に警官を案内した。
警察は銃撃戦で死亡した五人の捜査員の遺体を解剖し、死因となったと見られる二種類の弾丸を摘出していた。李と赤間の銃から発射された弾丸である。
赤間はICUでの待ち時間に李と打ち合わせて二人の拳銃と弾丸をひとつにまとめ、全てを収めたボックスを病院のコインロッカーに隠していた。
車の検証の際に、二人は警官に銃のことを聞かれ、銃は持っていないとしらばくれた。
羅の遺体は検視に回されることになり、翌朝警察の車両で運び出されて行った。
五人の死者は持ち物や潜伏先の捜索、中国警察関係者の顔写真などの秘密データから検索され、中国・公安部が台湾に逃亡中だった元公安部長・羅承基を逮捕するために秘密裏に送り込んだ特殊部隊員と判明した。
この事実は台湾メディアにすっぱ抜かれ、世界配信となったため、中国と台湾の対立を更に深める事案となる。
というのも、台湾政府の権力の及ぶ、それも首都タイペイの中心地で敵対する中国の公安組織が台湾当局の許可なしに、秘密裏に容疑者の捜査を進行させていたことは台湾の自治・主権を甚だしく損なう行為であり、許しがたい国家犯罪であるとして、台湾政府が中国政府に厳重なる抗議をし、善処されない場合今後の台中関係を大幅に見直すという声明を出したからである。
世界を駆け巡ったビッグ・ニュースは当然日本でも大きく伝えられ、古賀は赤間から台湾現地の情報を聞いた上で関係省庁と再び連絡をとり、マーのケースについて人道的な見地から日本への再入国などについて十分な配慮をお願いしたい旨念押しし、さらには羅元公安部長射殺事件に巻き込まれている赤間と李を警察等の不当な取り調べなどから守ってくれるように働きかけてもらいたいと警察庁を通じてICPO=国際刑事警察機構にも念のため情報提供をした。
ICPO、略してインター・ポールは中国の妨害で台湾のオブザーバー参加を認めておらず、インター・ポールからのアプローチは難しいと古賀は判断していたが、溺れる者は藁をもつかむ、の精神だった。
古賀は玲とアンナを安全の意味から至急日本に帰国させるのを決めた上で、自ら台湾に乗り込んで行った。
今回の銃撃事件を苦々しい思いで見つめる男がいた。期待の部下だった楊応州を初め、
台湾に派遣していた捜査員全員が死亡した公安部長の劉子墨だ。
「あれだけ殺さずに羅を連れ帰れと厳命したのに何て様だ! これだけ派手にやってしまったらもうおしまいだ」
劉は新聞各紙の論調を読み比べながら大きな溜息をついた。
中国当局は、銃撃事件は台湾政府の全くのでっち上げと事件そのものの存在を否定し、台湾側と非難の応酬が続いた。しかし、亡くなった五名が全て中国公安部の人間だったことが明らかになると、中国当局は掌を返したように沈黙した。
銃撃事件の新聞記事を複雑な思いで読む女性が北京に居た。
公安部のスナイパーに射殺された羅の娘リンユーである。
リンユーは北京にある八宝山人民公墓の母親ホンファの墓前で、死者があの世で使うお金「紙銭」に見立てた黄色い紙を燃やし、膝をついてお辞儀をした。
墓には母親が生前好きだった花と菓子が供えられている。
天罰が下ったんだわ。娘は父親の死についてまずそう思った。今度は母親のことが脳裏を掠める。可哀そうなお母さん。あんな男のために苦しんで亡くなった。あの男がしでかしたことで苦しみ、人生を縮めてしまった。
お母さん、あの男ももうこの世にはいません。あとはお母さん、あなたのことを思うだけです。お母さん、ご報告があります。わたし結婚することになりました。お母さんの分まで幸せになって見せます。どうかわたしを見守っていて下さい。お願いします。
リンユーはお辞儀をしたまま母親に話しかけていたが、顔を上げ、やおら射殺事件を報じる新聞を丸めて火を点け、傍らに置いてあったゴミ箱代わりの空き缶に放り入れた。
新聞は煙を吹き出しながら赤々と燃え、あっという間に燃え尽きた。
リンユーは空き缶に墓掃除に使った残り水を注いで、完全に火が消えるまで墓前に佇んだ。
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