第13話

 第十二章

 赤間のジェット機は低空飛行の制限を受けて、高空域を東に向かっていた。

 成都から重慶、長沙さらに福建省の武夷山上空に達していた。

 何度か給油に降りて、再度の上昇を繰り返したあとでジェットは最後の着陸態勢に入った。機の下降に伴い、次第に地上のモザイク模様がコックピットの十四インチ高解像度タッチスクリーンに映っていた。

 連なる山、広がる森、網の目のように走る高速道路とそこを走る車。高層マンション群とビル群。都市のインフラが眼下に広がっている。

 ジェットは間もなく空港の端にあるビジネスジェット専用レーンにタッチダウンした。アモイ高崎国際空港の表示があった。

 玲はスマホで『アモイ』を引いた。福建省南東部の港湾都市で、台湾海峡を挟んで対岸は台湾だ。

「ここで降りたということは、ここから船に乗って台湾に渡るってことですか?」

 玲が赤間に尋ねた。

「マー君や君らの手配書が港のパスポート・チェックのセクションに回っている可能性が高いので合法的に無事出国できるかどうかわからないから正規のルートはあきらめよう」

 赤間が言った。

「ということは密航ですか?」

「人聞きが悪いね。密航なんて……」

 赤間が白い歯を見せた。

「うちの組織が台湾まで君らを間違いなく送り届けるから安心なさい」

「ありがとうございます!」

 玲が頭を垂れた。

「さあ、荷物を持って降りてくれ。バスが待ってるから」

 ジェットのタラップを降りていくと、サービス係の女性が機内から出て来て見送ってくれた。

「ありがとう! さよなら!」

 アンナらは手を振って答えた。

 皆を乗せたマイクロバスは海岸線を走り、海沿いにあるレストランで停車した。赤間の案内でレストランに入ると、窓側の席に恰幅のいい男が座り、海を眺めていた。

 赤間が声を掛けると、男が皆の方に振り向いた。

「理事長!」

 アンナは驚いて声を上げた。古賀は椅子から立ち上がり、前に進み出て、腕を差し出した。

「いやあ、お疲れさん。大変やったなあ……」

 玲とアンナは古賀と握手して、マーとアルキンを古賀と対面させた。

「マー君、もう少し詳しくこちらで調べていたら、君をこんな危険な目に遭わすことはなかったんや。どうか許してくれ」

 アンナが古賀の言葉を通訳し、古賀はマーの両手を握り、頭を下げた。

 マーは気恥ずかしそうな表情で笑みを浮かべていた。

 古賀は火焔山でマーが行方不明になったという玲の緊急連絡を受けてから日本を発つ前に関係省庁を回り、今回のマーのケースについて実情を知らせるとともに人道的な見地から日本への再入国などについて十分な配慮をしてくれるように根回しをしていた。さらに全世界のウイグル人組織の本部に連絡をとり、マーの両親が台湾のタイペイの支援組織に匿われていることを知り、赤間の手助けを借りてマーをタイペイに連れて行き、両親と引き合わせた上で、マーがもしも大阪に来たいと言えば、そうする手はずを整えてからアモイに姿を見せた。

 その間古賀の要請を受けた日本と台湾の当局者が連絡をとり合い、マーの日本帰国に際しては、パスポートの出入国不備について緊急を要する人権的配慮を優先して特別許可を出し、タイペイに到着した時点で大阪へ特別機を飛ばす準備を完了していた。

「さあ、これから台湾に入るまで、まだまだ気が抜けんぞ。赤間さん、もうひと踏ん張り頼むよ!」

 古賀が赤間に微笑んだ。

「早速だが、皆さん、また荷物を持って海側の階段を下りてください。こっちです」

 赤間が先導して皆は浜の方に降りて行った。そこにはモーターエンジン付の漁船が待っていた。

 荷物を持って乗り込むと、船着き場もどきにロープで繋がれていた船にエンジンがかかり、ロープを放り投げて浜を離れて行った。

「もう向かいは台湾なんですね」

 アンナは潮風にショートボブの髪を靡かせていた。

 アモイの方角を振り返ると、白い巨大な石像が台湾の方を見つめ、その大きな腕を挙げている。

「あれは誰ですか?」

 アンナの問いに、観光ガイドも仕事にしている赤間が説明した。

「日本人を母親にもつ鄭成功という人物だ。江戸時代に四千隻の軍団を率いて台湾を支配しようとしたオランダと戦って、オランダの旗艦を沈めて降伏させた。鄭成功は三十八年間侵入者に占拠されていた台湾島を復権させ、台湾を拠点に明朝の復興運動を進めたことで、中国の偉大な国民的英雄として知られている。あの像が立っているのはコロンス島と言って、租界地として欧米や日本の領事館、教会や学校なんかがあったレトロな島だ。もっとも今は有名な観光地になって毎日観光客でごった返している。さあ皆さん、船内に入ってください」

 赤間は玲らを甲板から船室に誘導した。間もなく一艘の船が波を蹴立てて近づいて来た。パトロール船だ。中華人民共和国の旗を靡かせている。

 パトロール船はモーター船に横付けされ、係官数人が乗り移って来た。係官らは漁船の就業免許を確認したあと、漁民に早口の中国語で話しかけて船室に入って行った。

「船底に誰か隠れてないだろうな」と言いながら、係官は靴で船室の床を蹴って回っている。玲はマー、古賀らと一緒に赤間に案内された船底の隠し部屋で息をひそめていた。

 靴で床を蹴って回る音が床全体に響き、アンナは恐怖で声を上げそうになり、思い切り口を押さえた。

 マーは緊張した喉のせいなのか、咳が出始めた。コンコン、コンコン。

 咳を押さえようとすればするほど止まらなくなる。耳にその音が届いたのかどうか、係官が耳を澄ませるような姿勢をとった。

 船底から咳のような音が響き、人の気配が感じられるようだったからだ。

 それとほぼ軌を一にして、係官の近くに居た船員が咳き込んだ。係官の耳に一瞬感じられた咳のような音が船員のはっきりとした咳に掻き消された。

 その時、ベテラン係官の足が床にある異質な感覚をとらえた。

「ここに隠し部屋がある!」

 係官が集まり、床をなぞり、部屋の口を見つけて開き、中を覗き込んだ。

 甲板洗いの用具などが収められていた。

「隠し部屋なんかじゃない。漁によって用具が多い時に使う補助の収納部屋だよ」

 船頭が説明した。

 係官らは頷いて、船室を出てパトロール船に戻って行った。

 しばらくすると今度は中華民国の国旗を掲げたモーター船が近づいて来る。

「もう一度隠し部屋に入ってくれ!」

 船頭が叫んだ。

 その瞬間、近づいて来る台湾のパトロール船が突然警告音を鳴らした。警告音は中国のパトロール船に向けられたものだった。

 何か、いちゃもんをつけているのであろう。

 台湾海峡では中国と台湾のパトロール船同士が僅かなことで睨み合うことがしょっちゅうある。今回は台湾船の挑発ともとれる警告音に対し、中国船がより大きな音で警告音を鳴らして対抗した。警告音は、「お前が悪い!」「いや、お前こそ悪い!」と言い合っているように聞こえ、アンナは思わず吹き出しそうになり、口を押えた。

 両者の睨み合いのお陰で台湾側のパトロール船の注意がそれた。

 充分にパトロール船との距離が離れてから、船頭が床を叩いてOKと合図を送った。赤間を先頭に全員が隠れ部屋から出て来た。

「ああ、息が詰まりそう!」

 玲がふうーっと息を吐いた。アンナもようやく緊張が解けたような表情を見せた。

「なかなかのスリルだなあ」

 ホッとした表情で古賀が白い歯を見せた。マーの顔にも安堵感が漂っていた。

 モーター船は台湾側の入国審査を避けるため少しスピードを挙げながら、審査場からかなり離れた人気のない浜が見渡せる位置で停まり、甲板に常置されているボートを下ろして漁民以外全員が乗り込んだ。

 姿勢を出来るだけ低くしながら、赤間と古賀が目の前に見える浜に向かって漕ぎ渡った。

 昼間の明るい日差しが目に飛び込み、アンナは思わず手で庇を作った。少し離れたところにトーチカのような白い建物が見える。台湾の支配が及んでいる金門島の戦跡史料館の建物だ。

 金門島は中国の内戦で台湾に逃れた蒋介石の国民党軍を制圧しようと侵入した毛沢東率いる共産党軍との激戦があったところで、国民党軍が唯一勝利した島である。

 そのため中国大陸に最も近い位置で台湾の実効支配が及んでいる。いわば中台対立の最前線の島である。史料館の近くに背の比較的高い草むらがあり、ボートはその岸に横付けされた。

 先ほどから携帯で組織と連絡をとり続けていた赤間が指差す方向にマイクロバスが一台停まっているのが見えた。

 一行はボートからバスに乗り替え、金門島の空港に到着した。

 空港近くの駐機場に着くと、今度はアメリカ製のパイパー・チェロキーシリーズの軽飛行機が待機していた。

 操縦士一名、乗客定員五名の仕様で、赤間が操縦席に乗り、この機で首都タイペイまで飛ぶという。台湾まで逃れたこともあり、緊張が続き皆の疲労も激しいので、赤間の手配で島の民宿に一泊することになった。

『民宿・如家』という看板を出している宿で久しぶりに旅装を解き、皆で街に繰り出して地元の食事を楽しんだ。

 茹でた小振りのハマグリ。白身で淡白な水晶魚の煮物。蟹と豆腐のスープ。軟骨をかじり、肉を吸うようにして食べるアヒルの脚の揚げ物。それに台湾生ビールとアルコール三十八度の金門高粱酒。そのひとつひとつが極度の緊張で捻じれた神経を優しくほぐしてくれた。

 

 翌朝、一行は軽飛行機でタイペイに飛んだ。タイペイはマーの記憶が途絶えたところであり、大袈裟に言えばマーの北東アジア地域移動一周の原点に戻ろうとしていた。

 パイパーから眺めると、空港の近くの海岸線にはまるでドミノ倒しのコマのように風力発電機が海風を受けながら並んでいる。

 パイパーは高度を下げて、海岸近くの野原に着陸した。そこで再び手配のマイクロバスに乗り換え、タイペイ郊外にある町まで行った。

 古賀はタイペイにあるウイグル支援組織に接触し、組織および赤間と密かに連絡をとり合って今日のマーと両親との再会を段取りしていた。

 町に着き、支援組織のエージェントに組織が使うセイフハウスに案内され、一行はそこでマーの両親を待つことになった。

 予定時刻になって、セイフハウスの前にセダンが横付けされ、両親が到着した。マーは落ち着かない様子で面会に使われる部屋のテーブル椅子に腰かけていた。

 両親の姿が見えてもマーには二人の記憶がない。

 母親ティラはマーを見た途端、涙を浮かべながら走り寄り、マーを抱き締めた。

「グアンピン! よくぞ無事で!」

 マーは動かず、ポカンとした表情で母親のなすがままにされていた。

「やっぱり。記憶喪失とは聞いていたけど、やっぱりそうだったのね! あの時暴漢に頭を殴られたせいね。ああ、何と酷いこと!」

「何てこった!」

 父親のアラもガックリ肩を落とした。

 両親との再会はマーの記憶が戻らないことで、不調に終わった。

 しかし、折角親子が久しぶりに顔を合わせたことには変わりなく、古賀の判断でもう少しタイペイで推移を見ようということになった。

 マーは両親の住むタイペイ郊外のセキュリティがしっかりしたマンションで過ごすことになり、古賀と玲らは市内のホテルに滞在することになった。

 マーにとり、いくら両親だと言われても、見知らぬ中年夫婦であり、一緒に暮らすのは苦痛だったが、お世話になっている人々の手前拒否することも出来ず、意向に従った。

 初日は玲らがマーの様子を見にマンションにやって来たので気が紛れたが、慣れない生活が始まって精神的に孤独になり二、三日過ぎた頃、脳裏に美人窟の菩薩が浮かんだ。

 菩薩はS字型の体躯に輝く宝石を揺らしながら、通った鼻筋の下にある小さな口で微笑み、手招きをしているように見える。

 その菩薩の姿を心に浮かべた途端、心の中で何か大きな力に突き動かされるように、マーはここにいるべきじゃないという思いが募った。もう一度美人窟に行かなくては。マーの心が騒いだ。

 お昼になって三人で黙ってティラの作った丼物を食卓で頂いてから、マーは自室に籠ってベッドに体を横たえ、昼寝をしようとしたが眠れず、窓から外を見渡した。紅葉の季節が訪れていた。思いに突き動かされるように、マーはベッドから起き上がり、外出の身支度を始めた。

 引き出しを開けると夫婦から預かった定期預金通帳が二通、普通預金通帳が一通あった。キャッシュカードが添えてある。それらを下着や靴下など夫婦が揃えて置いてくれていた身の回り品と衣服を一緒にリュックに詰めて、ダウンジャケットを着込み、ウールの丸い帽子を被って出かけようとした。

 夫婦もちょうど出かけるところというので、近くのバス停まで一緒に行った。中心街でバスを降りると、別れ際にティラが言った。

「気を付けて直ぐ帰っておいでよ。うちらもそんなに長くの外出じゃないからね」

 ティラが心配そうな表情を向けた。

「何かあったら、教えた電話番号に直ぐに電話するんだよ。ウイグル族・回族の緊急コールだから。じゃ気を付けてね」

 そう言い残し、夫婦は何度も振り返りながら街中に消えて行った。

 マーは銀行に向かった。預金を下ろし、少しは膨らんだ財布をズボンのポケットにしまい込んで、まだ歩いたことのない街路を当てもなく歩き始めた。空港行のバスは何処から出ているのだろうか。吹く風は冷たくマーは襟元に手をやった。


 アラとティラ夫婦はデパートでマーの衣服などを買い込んで、バス停に向かっていた。

 バス通りの向かいの舗道に若い男の両腕を羽交い絞めにして連行して行く二人の男の姿があった。若い男は拳銃を突き付けられている。

「ちょっと、あれグアンピンじゃない?」

 ティラが気色ばんでアラを見た。

「そうだな。間違いない。何とかしなくっちゃ!」

 二人は車が来ないかどうか確かめながら、向かいの舗道に走った。男らは近くに停めてあった車両にマーを押し込むようにして、ドアを閉め、急発進して走り去った。

 二人は激しい息をしながら呆然と走り去った車両を見つめていたが、やっと気づいたように緊急コールを呼んだ。

 アラが覚えていた車両のナンバーなどの特徴を基に、ウイグル人組織のネットワークで私設緊急パトカーを動かして捜索したところ、別の私設パトカーがよく似た車を発見、追尾したところその車両は台湾桃園空港に停車し、マーを連れた男らは中国国際航空のチケットカウンターで別の男らと落ち合った。ウイグル人組織のエージェントは少年の顔写真を秘密裏に撮りまくり、男らの話す中国語とその内容に耳を傾けた。

 エージェントは組織の本部に連絡を入れる。

「マー少年を拉致したグループは北京語を話し、話の内容から間違いなく中国公安部の人間です。どういたしましょうか」

「空港内でのトラブルはまずい。仕方ない。戻れ!」

 指令を受けて、エージェントは少年の顔写真を連写したカメラをぶら下げて引き揚げた。

 拉致された写真の少年は何処から見てもマーだった。アラとティラはマーが中国の公安に引っ張られて行ったと打ちひしがれた表情で古賀らに伝えた。

「グアンピンは何と不運な子だろう。暴漢に襲われて記憶を失い、やっと帰って来たばかりなのに今度は公安に捕まるなんて!」

 玲は泣き崩れるティラをしっかりと抱き締め、背中を撫でていた。

「折角ご両親に会わせることが出来たばかりなのに。われわれが一緒に居たら何とか出来たのかも知れない」

 古賀も顔を歪めていた。

「どうしょう? これから……」

 玲が古賀に声を掛けた。

「ウイグル人世界本部のカナット氏に連絡を入れて、最善策を考えよう」

 古賀は携帯で世界本部を呼び出していた。

「赤間さんはどう思われます?」

 今度はアンナが尋ねた。

「台湾まで来ればまあ何とかなると思ったのが間違いだった。今更泣き言は仕方がない。わがネットワークでも情報収集してみよう。それにこの分じゃアルキン君の安全も強化しないとな」

 赤間も携帯を取り出した。

 アルキンはウイグル人世界本部の保護プログラムでタイペイ郊外に住む父親の知人と連絡がとれ、そちらで暮らすことになって、現地に移動していた。マーが公安に逮捕されたことで、赤間としてはアルキンのことも気遣い、古賀を通じて世界本部に安全策を念押ししてもらうことにした。

 古賀がカナットに依頼していたマーの消息はその後も掴めなかった。

 公安の牢獄に繋がれれば、未成年と言えども場合によっては命の保証はない。

 公安部長の劉にはマーの身柄が確保されたことが早速伝えられた。

「そうか、捕まえたか。あの息子は父親の羅と台湾で接触し、羅の意向を踏まえた息子が謎の日本人女二人を連れて、中国に戻り、破壊工作でも準備していたのかも知れない。

 その全貌を明らかにするためには、逃亡中の赤間とかいう男と女二人を全員逮捕し、徹底的に締め上げなくちゃならない。果たして赤間らは息子が潜んでいたタイペイに固まって身を隠しているのか、あるいはバラバラになって逃亡しているのか。とにかくタイペイに海外諜報の特殊部隊を送り込んで奴らのあとを追え!」

 公安部長の厳命を受けて、海外諜報の特殊部隊が即日秘かに台湾省に向けて出発した。

 翌日、カナットから古賀に公安の動きに関する情報がもたらされた。

 古賀は三人にその情報を伝え、特に玲とアンナについては、当面外出を控えるように言い渡した。

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